江戸時代の自然が消える!?

自然保護のガーデニング19

江戸時代の自然が消える!?
 明治になって、日本の自然が急激に改変していった(破壊された)のは、次の二つの要因によるものと考えられる。一つは、人間による直接的な自然破壊、もう一つがオオカミの絶滅などによる生態系の変化である。なお、オオカミの絶滅も人間の手によるものだという説もあるが、真相は定かではない。
 明治維新後に起きた人間の手による破壊は、具体的には、廃仏毀釈と称して、寺院・仏具・経文どとともに境内林にまでおよんだ。その上、藩政が廃止されると、城をはじめ史跡や名勝、貴重な自然を含む森林などが相次いで破壊された。こうした極端な行為は、それほど長く続いたわけではなかったが、その被害は決して小さくはなかった。こうした状況を重く見た明治政府は、1871年(明治4年)「山地取締規則」を定めることによって、森林の保全を試みている。また、1876年の「官林調査仮条例」、1882年「民有森林ノ中国土保全ニ関係アル箇所伐木停止ノ義」によって禁伐林を規定したが、現実には依然として森林伐採が進められていった。
  また、野性動物については、明治以前は、無益な殺生をよしとしない仏教の影響もあって、殺生禁断令が何度も出されていた。ところが、明治になると、その反動からか市中においてさえも狩猟が行われるようになった。1872年(明治5)に鉄砲取締規則、1873年に鳥獣猟規則などが布告されたが、これらはあくまで保安上の規則で、野生動物の「保護」という考えは含まれておらず、トキ、ツル、コウノトリ、ハクチョウなど鳥獣の乱獲は続いた。
  1880年頃から、明治政府の殖産興業・富国強兵政策による急激な資本主義化にともない、各地で森林の伐採、地下資源や埋蔵物の乱獲が行われ、自然破壊に歯止めがかからなくなっていく。以後の森林や鳥獣の保護施策は、性急な自然破壊に耐えかねてやむなく立てられたもので、破壊を防止するというより、いかに被害を軽減させるかというネガティブな視点に立ったものでしかなかった。
 一方、世界の自然保護情勢を見ると、日本より一世紀ほどはやく産業革命が始まったイギリスでは、1894年にナショナルトラスト(自然保護のために多数の人々が土地や建物を購入するという運動)が正式にスタート。また、原始的な自然が残っていたアメリカでも、自然保護思想やナショナリズムの高揚によって、1872年にイエローストーンが世界で初めて国立公園に設定された。このように欧米と日本との自然保護は、この時点ですでに格段の開きがあった。
  日本では1897年(明治30年)、森林法が成立した。この森林法は、主として保安林制度、警察制度、山林犯罪の罰則に重点をおいた法律である。国民が森林を勝手に使用しないようにと制定されたものだが、国土保全環境保全を計る上でも有効な法律であった。特に、警察制度は、江戸時代の名残を残した、木一本盗めば首が飛ぶ、というような懲罰的色合いの濃いものであった。したがって、法の適用いかんでは、自然を厳正に守ることのできる法律といってもよかった。しかし、残念ながら1907年、法改正が行われ、森林を開発し、利益を増進させるという方向に向かった。これは、明治政府の国策によるもので、木材の利用を活発にすることが林業の発達を促すことにつながると考えたことによる。実際、これによって、保安林は、森林の持つ保安効果さえ妨げなければ、伐ってもかまわないということになった。つまり、行政の判断次第で、それまで禁伐や択伐という制限があった林を、無制限に切り倒してかまわないというところまで拡大解釈できるようにしてしまった。
  明治政府は結局、「欧米列国に追いつけ、追い越せ」を実現するために、自然を犠牲にすることはやむなし、と判断したた。そのため、途中何回か出された自然保護に貢献する可能性のある規則や法令も、皆、中途半端な効果の上がりにくいものになり、結果的に破壊を進行させることとなった。
 なお、19世紀の自然破壊は世界各国に共通な傾向で、西欧では貴重な自然を人為的な破壊から守るという天然記念物保存思想が浸透していた。山林全体の約24%を管轄していた山林局は、西欧から入ってきたばかりのこの思想に大きな関心を寄せ、保護林制度を制定した。また、天然記念物に対する保護運動も起こった。学者や議員らの間で高まった保護運動は続き、山林局による保護林制度にも刺激を受けながら、1919年(大正8年)、史跡名勝天然記念物法が成立した。
 さらに、1911年(明治44)に提出された、東照宮の中心とした日光地区の国家的保存などを望んだ団体、保晃会の「日光ヲ帝国公園ニ為スノ請願」は、1921年(大正10)から国立公園構想の具体化に向けて実地調査が始まった。自然保護の潮流は、紆余曲折を経ながら、少しずつ日本の社会に浸透しているようにみえるが、その一方で日本の自然は、足尾鉱毒事件に象徴されるようにあちこちで破壊されていた。1931年に国立公園法が制定されたが、これとて外貨を獲得のため外国人観光客の誘致、大衆のナショナリズム高揚の手段としての思惑が強かった。
 明治以降、自然を守るための法律がいくつも出されたが、はかばかしい成果を上げなかった。西欧流の法律や制度によって自然を守ろうとする考え方は、理にかなったものかもしれないが、日本の自然を守るには必ずしも適していなかった。それは、江戸時代には、制度や施策が出される前にすでに民間で同じようなものが存在していることが多かった。制度を決める際も、従来の慣習を尊重するような配慮がなされていたが、明治になってからは、そのようなことは軽視された。法律が効果を発揮するには、守るための下地が形成されていることが何より必要である。江戸時代の自然が破壊されたのは、農民たちによって形成された、自然と共存する生活スタイルや自然観が消えてしまったからである。