自然を保護した仕組みの崩壊

自然保護のガーデニング18

自然を保護した仕組みの崩壊
  江戸から明治への社会体制の変化は、国内のいろいろな仕組みを変えていった。日本の自然は、その影響を大きく受けて今のような状況になったのであるが、政府はその変化を予測できなかった(というより、目をつぶっていた)。最も大きな影響は地租改正で、これによって土地利用の分断や人心の荒廃を招き、江戸時代の自然は破壊されていった。
 江戸時代の農村の土地利用と言えば、水田や畑のそばに百姓の家屋があり、それに続いて居久根林、百姓持林、その背後に内山と称する一村入会山(村中入会、惣百姓入会)と薪山が続き、さらにその奥に村々の入会山が広がるという形態が一般的であった。農民が入会山の自然を保全してきたのは、何も禁欲的な道徳心がすべてではない。村の土地利用が水田から入会山まで一体となって成立し、村が共同体として存続するため、持続的な土地利用を入会という形で存続させてきた。それは、「山仕法」と呼ばれ、入会山の資源保護と利用者の権利保護という、二つの目的を両立させうる共同利用管理規約として受け継がれてきた。
  この山仕法が成立していた背景には、林野、水や空気を含めて自然は人間の所有物ではないという考えが前提となっていた。ところが明治になって、それまであまり人々の意識にのぼることのなかった土地所有に基づく利用権というものが、地租改正によって、嫌でも意識せざるをえなくなり、林野をはじめ様々な土地利用を分断してしまった。具体的には、江戸時代に入会利用されていた「御林」などが払い下げられ、個人の物となった結果、それまでの農民による下草刈りや薪木拾いは拒否されるようになった。その上、入会山だった山の樹木は伐採され、土地だけが転売されて植林されるなど、それまで農民たちによって持続的に利用されてきた林野に、全く別個の独立した利用が行われることになった。
  しかし、当然のことながら野生生物は土地所有による区分に応じて生息するものではなく、また、水源涵養のような効用は連続していてはじめて効果がでてくるものである。一部だけ切り離して考えること自体、自然を無視している。入会地のような自然には、多くの人の共通した役割や利用目的が存在しうるが、所有が明確になると私権が強固になる。
 このように、利己的な林野利用が発生したことで、自然を経済評価でしか見なくなる傾向が強まり、その結果、自然破壊を招くことになった。焼畑を擁する広大な林野が官有地になった地方では、焼畑は禁止された。しかし、焼畑をやるしか生きる術のない人々は、従来のような林野の持続的な利用法を無視して焼畑を行い、林野の荒廃を進行させた。
 また、海岸線に続く自然も明治以降、著しく破壊された。具体的には魚附林の荒廃であるが、沿海森林の荒廃は著しく、漁獲量を減少させた。こうした海岸線の自然破壊は、それまで一体化していた漁業権と田畑林野等の利用権とが分離されたことによるものである。田畑林野に関して、それぞれ自由に売買や譲渡ができるようになると、海岸線の自然を守ってきた魚附林等の林が次々に伐採されていった。もともと海岸線に成立している自然は、環境の変化に弱く、再生に五十年から百年単位の時間を必要とする。また失った自然は必ずしも再生されるとは限らない。
 以上のように明治になって、自然を保全しながら、同時に効果的に活用していくという従来のシステムが崩壊しはじめた。個々の土地単位での収益性だけが追求された結果、周辺の土地との共同利用は互いに利益になると思われる場合に限られるようになった。隣接地への配慮など望むべくもなく、自分の土地ですら獲れるだけ獲ったらあとは捨てるのみ、という寒々しい状況になっていった。このような土地利用が進むに連れて、“虫けら”はもちろん、野生鳥獣の命などを考慮するという心は消えてしまった。江戸時代に保全されていた自然は、哀れにも消滅の運命をたどることになる。