人工林の明治神宮に学ぶ

自然保護のガーデニング 20

人工林の明治神宮に学ぶ
 「自然をつくる」という言葉は、三十年も前に本田正次東京大学名誉教授が『自然保護』(N0.93-94)の中で述べている。もっとも当時は自然保護という言葉がようやく社会に知られるようになった時代であり、自然の開発をいかに阻止するかが重大な問題であったので、「自然の創造」という発想はあまり理解されなかったようだ。むしろ、この言葉は21世紀に持ってきたほうがよくわかるし、ふさわしくもある。今後は、理想とする自然の形態をきちんと想定した上で、なるべく自然に手を加えないで保護するという消極的な方法より、「自然をつくる」という積極的な態度で進めていくべきである。
 本田氏は、明治神宮の森が創られる以前の、まだ代々木上原であったころの状況を実際に見ており、当時は「およそ森などとは縁遠く、僅かに草原のあちこちにクヌギやコナラのひょろひょろしたものが陰もささない程度に生えていたことを朧気ながら覚えているにすぎない」と、書いている。1915年に明治神宮の森がつくられ、80年以上経過した今、これが人工的につくられた森などとは到底思えない。東京には、こんな立派な自然があったのだと思っている人の方が多いだろう。
  ところでこの森は、国民の献木によって造成されたものだ。「無から有をつくりあげた」と本田氏が書いているように、何もなかったところにつくられたものである。つまり、自然とは、人間の手でつくろうとすればつくれるものだ。武蔵野の雑木林についても話は及び、この雑木林は人工林ではあるが、武蔵野の自然を象徴するものであると続けている。
 そして、「自然は、その形態であれ、現象であれ、絶えず変動しつつあるのである。代々木に明治神宮の森が作りだされ、武蔵野に雑木林が再現することも、皆自然の動きと見て可なりで、動きの一端を見詰むれば、自然の創造とも考えられる」と述べた後、社叢や天然記念物といった例からも自然の創造についての考えが書かれている。日本の自然遷移を見れば、生態学的な自然の変化より、人為的な影響による変化のほうが強く現れていることは明らかだ。自然を保護するためには、人為的な影響をどのようにコントロールするかということが重要である。つまり、人間が積極的に自然をつくっていくのだと言う視点が必要である。
  もちろん、国有地などには、全く人間が手を入れないサンクチュアリーのような形の自然保護もあり、実験的な試みをすべて否定しているわけではない。が、放置したままの状態でどこまで自然保護ができるかについては、大きな疑問を感じる。台風などの種々の災害によって、何らかの人為的な対応をせざるを得なくなる時が必ずくる。それでも自然の推移にまかせておくというのだろうか。それに、そのようなサンクチュアリーを日本の狭い国土の中にどのくらい確保できるだろう。
 本田氏は、「新しい自然を自らつくりながら新しい希望を以て、新しい道を歩こうではないか。作ろうと思えば、自然は希望のままに、いくらでも作られるものである」という言葉で結んでいる。三十年たった今でも、この心意気込みで、自然保護に向かうことが何よりも大切である。さらに彼は、一般の人々に対しても、自然をつくることを楽しみ、ガーデニングとして実践することを指導している。それも、難しい理屈ではなく、生物学を知らない人にもわかるように説明している。たとえば、千葉周辺には、かつてはクマガイソウの群落がたくさん見られた。が、戦後の宅地開発によってほとんど消滅してしまった。本田氏から植物の話を直接聞いた私の母は、ブルドーザーで削り取られる前のクマガイソウを数株をわけてもらって、庭の一角に植えた。彼が言うとおり、以前にその地域に自生していたクマガイソウは、失われた生息条件を整えてやりさえすれば、特別手を掛けなくても年月とともに増加し、現在では150株以上に増え、100輪を越える花を咲かせている。