森鷗外の作品と植物1

森鷗外ガーデニング  2
森鷗外の作品と植物1

 鷗外の博識は言うまでもないが、特に植物については、当時の専門家に負けないくらいの知識と関心を持っていた。彼は、作品に登場させた植物を自分の目で直に見るか、当時の資料(江戸時代の本草学書や園芸書、外国のガーデニング関連図書)を読み込んで植物の詳細を理解した上で、記していたと思われる。植物への関心は、見たことのない新しい植物に出会えば、すぐにその場で名前をメモするなどはごく当然のこと。不明な場合は、そのままにせず専門家に問い合わせるくらい熱心であった。
 たとえば、『小倉日記』には、明治三十三年二月「二十四日。宮川漁男来りて、松村任三氏の牻牛兒苗辨を借す。初め予所謂現の證據を福岡に得て謂へらく。是れ牻牛兒苗なりと。今此文を見てそひ非なるを知る。乃ち左に基概要を抄す。
 「ゲラニウム」Geranium 属にたちまち草あり、俗に現の證據と云ふ。(拉甸名は希臘語geranos 鶴より出つ。英Cranesbill 佛Bec-de-grue 獨Storchschnabel等の語皆同じ。)我異名はばいくわそう(草譜)ほとけばな(本草藥名備考和訓鈔)ほつけばな(木曾本草網目啓蒙巻十三)ほつけそう(用藥須知續編八)べにばな(岩倉本啓十三)ちごぐ  さ(土州本啓十三)ちきりそう(用藥八)ちもぐさ(枚方本草紀聞十七)れんげそう(大和本草九)ねこあし(仙薹本啓十三)うめがえそう(古名録十四)ふうろそう(百花培養録)ふうれい(江州本啓十三)うゆのうめ(越後本啓十三)さくらがは(地錦抄附禄二)みつばぐさ(本藥)みこしぐさ(長州本啓十三)等なり。漢名は植物名實圖考巻二十三載する所の紫地楡ありて、これと属を同うす。牻牛兒苗は我おらんだふうろうにして「エロヂウム」Erodiumc属なり。牛扁は或いは「アコニツム」Aconitum 属の伶人草に充つれども、当否いまだ詳ならず。並に現の證據と殊なり。夜雨。」という記述がある。当時はまだ、江戸時代の園芸書などが容易に入手できたのだろうが、鷗外の植物への関心の高さ、また、博覧強記であったというその一端が、十分に窺える。
  そのため、鷗外のガーデニング好きは、作品に反映されるだけではない。家庭生活にも、花との関わりが少なからぬ影響を与えていたことが感じられる。そこで、どのような経緯で植物に傾倒していったかを、津和野に生れ、上京するなどという住まいの変遷に伴って接した植物についてを紹介したい。次いで、生活を共にした家族の花への関心と鷗外との関係を示したい。最後に、鷗外が愛でた植物やガーデニング活動について、知り得たことをできるだけ紹介したい。
  さらに、そのようなガーデニングから垣間見えてくる、鷗外の性格や価値観などについても探ってみたい。もっとも、それは「森鷗外」と言うより、「森林太郎」についての話しではないかとのご指摘もあるだろう。むろん、そうした一面も否定しきれないが、時代の違いこそあれ、同じガーデニングを愛好した「仲間」として、知られざる一面にも光を当てて見たい。そして、鷗外の生きた時代の造園や園芸事情についても触れたい。

・『伊澤蘭軒』に登場する植物 
  『伊澤蘭軒』には実に100以上もの植物が記されており、鷗外はその全てを把握している。だが、私自身がその植物を全て確認できていない。と言うのは、記された植物名は大半が漢字で表記され、現代名を確定(同定)できないからである。植物名を探る難しさは鷗外自身も感じており、そのことを本文のなかにも綴っている。
  まず、植物名へのこだわりについてから紹介したい。鷗外は、「『伊澤蘭軒』その二十七」の中で、嫡子・榛軒の名について「榛軒は厚朴を愛したので、名字號皆義を此木に取つたのだと云ふ。厚朴の木を榛い云ふことは本草別録に見え、又急就篇顔師古の註にもある。門人の記する所に、「植厚朴、参川口善光寺、途看于花戸、其翌日持来植之」とも云つてある。・・・厚朴は植学名マグノリア和名ほほの木又ほほがしで、その白い大輪の花は固より美しい。」と記している。
 「その三十一」では、「・・・碓氷峠の天産植物に言及してゐるのは、蘭軒の本色である。北五味子は南五味子のびなんかづらと區別する稱である。砂參は鐘草とあるが、今はつりがねにんじんと云ふ。桔梗科である。つりがねさうは次の升麻と同じく毛茛科に屬して、くさぼたんとも云ふ。劉寄奴は今菊科のはんごうさうに當てられ、おとぎりさうは金絲桃科の小連翹に當てられてゐる。」と記している。このような植物に詳しい文章を書くことは、鷗外でもなけれとてもできないと思われる。これこそが鷗外の鷗外たる所以、彼しかない持ち味の一つと言ってよい。
 植物への探求心は、「その二百九十五」に繰りひろげられている。
「・・・わたくしは進んで楸の何の木なるかを討ねた。
 此問題は頗る困難である。設文に據れば楸は梓である。爾雅を撿すれば、稻、楰、櫰、槐、榎、楸、椅、梓、等が皆相類したものらしく、此数者は專門家でなくては辨識し難い。
 今蘭軒医談を閲するに、「楸はあかめがしはなり」と云つてある。そして辞書には古のあづさが即ち今のあかめがしはだと云つている。わたくしは此に至つて稍答解の端緒を得たるが如き思いをなした。それは「楸、古言あづさ、今言あかめがしは」となるからである。
 しかし自然の植物が果して此の如くであらうか。又もし此の如くならば、梓は何の木であらうか。わたくしは植物学の書について捜索した。一、楸はカタルパ、ブンゲイである。二、あづさはカタルパ、ケンプフエリ、きささげである。(以上紫蘇科。)三、あかめがしははマルロツス(大戟科)、ヤポニクスである。(大戟科)是に於いて折角の発明が四花八列をなしてしまった。そして梓の何の木なるかは容易に撿出せられなかった。畢竟自然学上の問題は机上において解決せらるべきものではない。
 是に於てわたくしは去つて牧野富太郎さんを敲いた。
「その二百九十五」
 わたくしは蘭軒医談楸字の説より発足してラビリントスの裏に入り、身を脱することを得ざるに至り、救を牧野氏に求めた。幸に牧野氏はわたくしを教ふる労を慳しまなかった。
「一、楸は本草家が尋常きささげとしてゐる。カタルバ属の木である。博物館内にある。」わたくしは賢所参集所の東南にも一株あつたかと記憶する。
「二、あかめがしはは普通に梓としてある。上野公園入口の左側土堤の前、人カ車の集る所に列植してある。マルロツス属の木である。」
「三、あづさは今名よぐそみねばり又みづめ、學名ベツラ、ウルミフオリアで、樺の木属の木である。西は九州より東北地方までも廣く散布せる深山の落葉木で、皮を傷くれぱ一種の臭氣がある。是が昔弓を作つた材で、今も秩父ではあづさと稱してゐる。漢名は無い。」
  以上の記述を一読すれば、作品の中に登場させる植物に対して、鷗外はいかに真摯な態度で向かい合ったかが十二分にうかがえる。誤記のないように、当時の最高識者である牧野富太郎博士に師事し、学術的な検証までも行なっていたからである。
 鷗外が『伊澤蘭軒』に登場させた植物名について、迷いながらも以下のように同定(確定)させてみた。なお、確信を持てない植物がいくつかあることに加え不明な植物がある。不明な植物について示すと、「その四十一」に「汝楩の楩(へん)は司馬相如の賦に楩南豫章とあつて、南国香木の名である。」の「楩」がある。「楩」がどのような植物であるかを調べると、『樹木大図説』(有明書房)の索引から引くと、「クヌギ」の別名として記されている。しかし、「楩」は「南国香木」とあるから、クヌギではないと思われる。「楩」の現代の植物名を探し求めることはできなかった。
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