鷗外ならではの関心事(『伊澤蘭軒』)

森鷗外ガーデニング  3
鷗外ならではの関心事(『伊澤蘭軒』)

・美しさ
 鷗外の植物への関心は、名前にとどまらず様々な事柄について記述している。まず美しさについては、「その三十二」に「紫黄相雑りて奇麗繁華限なし」と、ウツボグサやカンゾウなどとの、すなわち、紫色と黄色のコントラストの妙に触れている。「紫色と黄色」は、補色関係にあって、同じ場所に置くことで互いに引き立て合うことを、むろん鷗外は知っていた。たぶん、自庭の花畑においても、同様の組み合わせを試みていたのではないかと推測させる。

アサガオの流行
 また、鷗外は、当時の造園や園芸の事情や花の流行についても『伊澤蘭軒』に記している。「その九十四」には、「牽牛花大にはやり候よし、近年上方にてもはやり候。去年大坂にて之番付座下に有之、懸御目申候。ことしも参候へども此頃見え不申候。江戸書畫角力は相識の貌もあり、此蕣角力は名のりを見てもしらぬ花にてをかしからず候。前年御話申候や、わたくし家に久しく漳州だねの牽牛花あり。もと長崎土宜に人がくれ候。卌年前也。花大に色ふかく、陰りたる日は晩までも萎まず。あさがほの名にこそたてれ此花は露のひるまもしをれざりけりとよみ候。其たねつたへて景樹といふうたよみの處にゆきたれば、かかるたねあること知らで朝顔をはかなきものとおもひけるかなとよみ候よし。私はしる人あらず、傅へゆきしなり。これは三十年のこと也。さて其たね牽牛花はやるにつき段々人にもらはれ、めつたにやりたれば、此年は其たねつきたり。はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晉師骨相之屯もおもふべし。呵々。・・・」とある。
 さらに朝顔の話は、「その九十六」、「その九十七」でも記され、「茶山は朝顔の奇品を栽培してゐたが、人に種を與へて惜まなかつたので、種が遂に罄きた。」との記述もある。アサガオ(牽牛花)の流行については、菅茶山が蘭軒に送った書簡に記されたものだろう。鷗外の関心は、文化年間にアサガオ栽培が大流行したこと、特に奇品である変化朝顔や日中にも咲き続ける漳州産のアサガオについても触れている。なお、漳州産のアサガオがどのような種の植物であったかは、この文からは推測できない。しかし、鷗外が記していることから、実在したことは間違いないだろう。機会があれば、どのようなアサガオであるか突き止めてみたい気にさせる。探してみたい。以上のような記述は、江戸時代の園芸上貴重な情報で、鷗外でなければ書き得ないものであろう。

・楠木の大木
 「その四十九」では、クスノキの大木についての考証がある。「三の瀬村(嬉野市)の堠に十圍樟木あり。中空朽の處六七畳席を布くべし。九州地方大樟尤多しといへども此ごときは未見。・・・」と続く。このクスノキは、江戸時代に日本を訪れた有能な博物学者たち、ケンペル、ツェンベリー、シーボルトなどがこぞって注目した大木である。

巣鴨の造菊
 「その六十七」に、「菊の詩は巣鴨の造菊を嘲つたものである。武功年表に據れば、巣鴨の造菊は前年文化九年九月に始まつて、十三年に至るまで行はれた。」とある。菊人形の流行に触れるとともに、当時、武士の中には造菊に不快感を示していたことを記している。

・当時の花の好みについて
 「その百二十五」には、「石蒜は和名したまがり、死人花、幽霊花等の方言があつて、邦人に忌まれてゐる。しかし、英国人は其根を傅へて栽培し、人盆の價往々数磅に上つてゐる。」と紹介している。「石蒜」はヒガンバナ。現代ではヒガンバナは「リコリス Lycoris」と呼び、けっこう人気がある。花の咲く時期には、ヒガンバナを見に行くツァーが組まれるくらいである。ところが江戸時代は、ヒガンバナが忌み嫌われていたこと。それに対しヨーロッパ・英国ではヒガンバナが大流行、高額取引の対象になっていたことなども触れている。たぶん、ドイツ留学中に知り得たことだと思われる。彼は、むろん、留学体験があったからであろうが、日本だけでなく欧州のガーデニング事情についても、関心を抱いていた。それを『伊澤蘭軒』に書き記すのも鷗外ならではの所業である。

向島百花園
 続く「その百二十六」には、「當時百花園は尚開發者菊塢の時代であつた。菊塢は北平と呼ばれて陸奥國の産であつた。人に道號を求めて歸空と命ぜられ、其文字を忌んで菊塢に作つたのだと云ふ。此菊塢が百花園を多賀屋敷址に開いたのは、享和年間で、園主は天保の初に至るまでながらへてゐたのである。」と向島百花園に関する記述がある。気になるは、この情報はどこから入手したものであろうか。「菊塢」の名前については、現在では「鞠塢」が用いられている。また、開園の年については享和年間の後、文化年間とされている。鷗外のことだから信頼できる資料のもとに、記載していると思われるのだが。
 鷗外の日記を見ると、大正六年八月十一日と翌七年九月八日に、向島百花園を訪れている。この時にでも得たのであろうか、それとも手紙などに記されていたのであろうか。『伊澤蘭軒』を書くにあたっては検証を怠ることがないことから、確信を持っていたのだろう。

・自邸観潮樓の花園を記す
 「その百九十二」には、「蘭軒の花卉を愛したことを傳へてゐる・・・わたくしの家の小園には長原止水さんの贈つた苗(ツユクサ)が、園丁の虐待を被りつゝも、今も猶跡を絶たずにゐる。」と、自邸観潮樓の花園の様子を記している。蘭軒が花好きで、ウメやモクセイ、タケ、バショウ、ヨシノザクラなどを移植や植栽したことに触れている。とくに注目したのが「鴨跖草」ツユクサ、「たうぎぼうし」・「玉簪花」タマノカンザシ、「敗醤花」オミナエシなどについても記している。

・息子の榛軒へと続く
 『伊澤蘭軒』には、以上のほかにも植物に関する記述が数多く出現する。「その二百七十九」には、蘭軒の息子・榛軒についてまでに及び。「わたくしは榛軒の逸事を書き續ぐ。そして今此に榛軒の植物を愛した事を語らうとおもふ。」と植物に関する記述が続く。さらなる記述については、『伊澤蘭軒』を直接見ていただくことにして、この辺で止めることにする。植物は、この小説の主題ではないが、鷗外の関心事として欠くことのできない事象であると確信を得たと思っている。