鷗外は、どのような経緯で植物に関心を深めたか、成長の過程を通して見て行きたい。津和野に生れ、上京するなどという住まいの変遷は大きな影響を与えただろう。また、ドイツ留学の経験は、視野を広げ、さらに大きく影響したと思われる。特に、どのような植物にめぐり合わせたかは、興味をそそられる。
①津和野の生家

当時の居宅にどのような植物が植えられていたかは、全くわからない。現在ある旧宅には、移転する以前から生育するソメイヨシノやイチョウ、クロガネモチ、マキなどがある。今後は、鷗外が好んだ花や作品に登場した植物などを増やしていく予定である。
鷗外は子どもの頃から花が好きであった。そのことは、『ヰタ・セクスアリス』の「六つの時であった。」で始まる文章から感じられる。
「この辺は屋敷町で、春になっても、柳も見えねば桜も見えない。内の堀の上から真赤な椿の花が見えて、お米蔵の側の臭橘に薄緑の芽の吹いているのが見えるばかりである。
西隣に空地がある。石瓦の散らばっている間に、げんげや菫の花が咲いている。僕はげんげを摘みはじめた。暫く摘んでいるうちに、前の日に近所の子が、男のくせに花なんぞを摘んで可笑しいと云ったことを思い出して、急に身の周囲を見廻して花を棄てた。」とある。
この時は、まだ江戸時代であり近隣の長州では戦渦の消えぬ状況である。そんな時世にあって、子供であっても、男が花を摘んで楽しむことなど奨励できることではない。それで「男のくせに」との批判があるのは当然である。ただ、その批判は「近所の子」からもあったかもしれないが、実は、母親・峰が日頃から言っていた言葉に違いない。『ヰタ・セクスアリス』が出版されれば、母の目に、耳に入るのは避けられない。という事情を考慮したための表現と、わたくしは考えている。
鷗外は子どもの頃から、花好きであったこと、花摘みを楽しんでいた。当時の彼を取り巻く環境ではタブーに近く、秘め事であっただけに印象強く記憶に残っていたものと思われる。彼が津和野で覚えている植物、ツバキ、カラタチ、レンゲ、スミレなどの花は、以後もたびたび作品など登場している。
②向島小梅村・亀井邸の下屋敷
明治五年、鷗外は父に伴われて上京、向島小梅村・亀井伯爵邸の下屋敷に住む。まもなく小梅村87番に転居する。下屋敷には庭園があり、『名園五十種』(近藤正一著 博文館)によれば、亀井伯爵向島別墅の庭園は「森々として立てる木立を負うた優びやかな富士形の芝山それを背景にして前にはひろびろと水を湛た池を控へたる純粹の林泉式の大庭園で池の周圍は松檜などを其処此処に植込める芝生である。・・・」とその詳細が写真とともに記されている。
鷗外は、庭園について「御殿のお庭の植込の間から、お池の水が小さい堰塞を踰して流れ出る溝がある。その縁の、杉菜の生えてゐる砂地に、植込の高い木が、少し西へいざつた影を落してゐる。・・・凌霄の燃えるやうな花が簇々と咲いてゐる。」と『ヰタ・セクスアリス』に様子を記している。彼は、この庭園のディテールまで覚えており、かなり気に入っていたように感じられる。特に印象的であったのは、「凌霄」ノウゼンカズラの花の色であろう。
また、屋敷内についても「お長屋には、どれも竹垣を結い廻らした小庭が附いてゐる。尾藤の内の庭には、縁日で買って來たやうな植木が四五本次第もなく植ゑてある。日が砂地にかつかつと照つてゐる。御殿のお庭の植え込みの茂みでやかましい程鳴く蝉の聲が聞こえる。」と書いている。明治時代になっても、旧藩主(伯爵)は庭園を営み、その配下の家でも小庭が作られていた様子を鷗外は記している。

鷗外は、庭園について「御殿のお庭の植込の間から、お池の水が小さい堰塞を踰して流れ出る溝がある。その縁の、杉菜の生えてゐる砂地に、植込の高い木が、少し西へいざつた影を落してゐる。・・・凌霄の燃えるやうな花が簇々と咲いてゐる。」と『ヰタ・セクスアリス』に様子を記している。彼は、この庭園のディテールまで覚えており、かなり気に入っていたように感じられる。特に印象的であったのは、「凌霄」ノウゼンカズラの花の色であろう。
また、屋敷内についても「お長屋には、どれも竹垣を結い廻らした小庭が附いてゐる。尾藤の内の庭には、縁日で買って來たやうな植木が四五本次第もなく植ゑてある。日が砂地にかつかつと照つてゐる。御殿のお庭の植え込みの茂みでやかましい程鳴く蝉の聲が聞こえる。」と書いている。明治時代になっても、旧藩主(伯爵)は庭園を営み、その配下の家でも小庭が作られていた様子を鷗外は記している。
③小梅村の住まい

小梅村の住まいに移るいきさつは、鷗外の姉・喜美子が「向島界隈」(『鷗外の思い出』)で書いている。「今度の家は大角とかいった質屋の隠居所で、庭道楽だったそうで、立派な木や石が這入っていました。人の話を聞いてお父様がお出かけになって、一度御覧になったらすっかりお気に入って、是非買うとおっしゃいます。曳舟の通りが田圃を隔てて見えるほど奥まった家なのですから・・・今少し出這入のよい場所を探したらと止めてもお聴きにならないで、とうとうそこになったのです。庭の正面に大きな笠松の枝が低く垂下って、添杭がしてあって、下の雪見灯籠に被っています。松の根元には美しい篠が一面に生い茂っていました。その傍に三坪ほどの菖蒲畑があって、引越した時にちょうど花盛りでした。紫や白の花が叢がって咲いていましたので、お母様が荷物を片附ける手を休めて、『まあ綺麗ですね』と、思わずおいいになると、お父様は、それ見ろとでもいいたそうに、笑って立っていられました。

柿の木もあり、枇杷もあり、裏には小さな稲荷様の祠もありました。・・・お国を出てから今日まで我慢をしていらっしゃったのですから、お父様はお家の時はいつもお庭でした。」
と、小梅村での様子がわかる。