住まいの変遷(津和野から向島)と植物1

森鷗外ガーデニング  4
住まいの変遷(津和野から向島)と植物1

 鷗外は、どのような経緯で植物に関心を深めたか、成長の過程を通して見て行きたい。津和野に生れ、上京するなどという住まいの変遷は大きな影響を与えただろう。また、ドイツ留学の経験は、視野を広げ、さらに大きく影響したと思われる。特に、どのような植物にめぐり合わせたかは、興味をそそられる。

①津和野の生家
イメージ 1 森鷗外森林太郎は、文久二年一月十九日(1862年2月17日)、石見国津和野藩(現・島根県津和野町)の藩医・森静泰(後に静男と改名)の長男として生まれた。津和野には、森鷗外が11歳まで過ごした家が残っている。ただし、移築されており、現在ある場所は森鷗外記念館の北側にある。
  当時の居宅にどのような植物が植えられていたかは、全くわからない。現在ある旧宅には、移転する以前から生育するソメイヨシノイチョウ、クロガネモチ、マキなどがある。今後は、鷗外が好んだ花や作品に登場した植物などを増やしていく予定である。
 鷗外は子どもの頃から花が好きであった。そのことは、『ヰタ・セクスアリス』の「六つの時であった。」で始まる文章から感じられる。
 「この辺は屋敷町で、春になっても、柳も見えねば桜も見えない。内の堀の上から真赤な椿の花が見えて、お米蔵の側の臭橘に薄緑の芽の吹いているのが見えるばかりである。
 西隣に空地がある。石瓦の散らばっている間に、げんげや菫の花が咲いている。僕はげんげを摘みはじめた。暫く摘んでいるうちに、前の日に近所の子が、男のくせに花なんぞを摘んで可笑しいと云ったことを思い出して、急に身の周囲を見廻して花を棄てた。」とある。
 この時は、まだ江戸時代であり近隣の長州では戦渦の消えぬ状況である。そんな時世にあって、子供であっても、男が花を摘んで楽しむことなど奨励できることではない。それで「男のくせに」との批判があるのは当然である。ただ、その批判は「近所の子」からもあったかもしれないが、実は、母親・峰が日頃から言っていた言葉に違いない。『ヰタ・セクスアリス』が出版されれば、母の目に、耳に入るのは避けられない。という事情を考慮したための表現と、わたくしは考えている。
 鷗外は子どもの頃から、花好きであったこと、花摘みを楽しんでいた。当時の彼を取り巻く環境ではタブーに近く、秘め事であっただけに印象強く記憶に残っていたものと思われる。彼が津和野で覚えている植物、ツバキ、カラタチ、レンゲ、スミレなどの花は、以後もたびたび作品など登場している。

向島小梅村・亀井邸の下屋敷
イメージ 2  明治五年、鷗外は父に伴われて上京、向島小梅村・亀井伯爵邸の下屋敷に住む。まもなく小梅村87番に転居する。下屋敷には庭園があり、『名園五十種』(近藤正一著 博文館)によれば、亀井伯爵向島別墅の庭園は「森々として立てる木立を負うた優びやかな富士形の芝山それを背景にして前にはひろびろと水を湛た池を控へたる純粹の林泉式の大庭園で池の周圍は松檜などを其処此処に植込める芝生である。・・・」とその詳細が写真とともに記されている。
 鷗外は、庭園について「御殿のお庭の植込の間から、お池の水が小さい堰塞を踰して流れ出る溝がある。その縁の、杉菜の生えてゐる砂地に、植込の高い木が、少し西へいざつた影を落してゐる。・・・凌霄の燃えるやうな花が簇々と咲いてゐる。」と『ヰタ・セクスアリス』に様子を記している。彼は、この庭園のディテールまで覚えており、かなり気に入っていたように感じられる。特に印象的であったのは、「凌霄」ノウゼンカズラの花の色であろう。
 また、屋敷内についても「お長屋には、どれも竹垣を結い廻らした小庭が附いてゐる。尾藤の内の庭には、縁日で買って來たやうな植木が四五本次第もなく植ゑてある。日が砂地にかつかつと照つてゐる。御殿のお庭の植え込みの茂みでやかましい程鳴く蝉の聲が聞こえる。」と書いている。明治時代になっても、旧藩主(伯爵)は庭園を営み、その配下の家でも小庭が作られていた様子を鷗外は記している。

③小梅村の住まい
イメージ 3 家族が上京して旧小梅村八十七番地の借家に引っ越したが、明治8年、森家は小梅村二三七番に二百三十坪くらいの屋敷を購入した。鷗外は寄宿舎に入る。十四歳の頃、夏休みに向島の家に帰った鷗外は、「僕のお父様はお邸に近い處に、小さい地面附の家を買つて、少しばかりの畠にいろいろな物を作つて樂しんでをられる。」と、『ヰタ・セクスアリス』に書いている。
  小梅村の住まいに移るいきさつは、鷗外の姉・喜美子が「向島界隈」(『鷗外の思い出』)で書いている。「今度の家は大角とかいった質屋の隠居所で、庭道楽だったそうで、立派な木や石が這入っていました。人の話を聞いてお父様がお出かけになって、一度御覧になったらすっかりお気に入って、是非買うとおっしゃいます。曳舟の通りが田圃を隔てて見えるほど奥まった家なのですから・・・今少し出這入のよい場所を探したらと止めてもお聴きにならないで、とうとうそこになったのです。庭の正面に大きな笠松の枝が低く垂下って、添杭がしてあって、下の雪見灯籠に被っています。松の根元には美しい篠が一面に生い茂っていました。その傍に三坪ほどの菖蒲畑があって、引越した時にちょうど花盛りでした。紫や白の花が叢がって咲いていましたので、お母様が荷物を片附ける手を休めて、『まあ綺麗ですね』と、思わずおいいになると、お父様は、それ見ろとでもいいたそうに、笑って立っていられました。
イメージ 4 門前には大きな柳があり這入った右側は梅林でした。梅林の奥に掘井戸があります。向島は湿地で、一体に井戸が浅いので菅、それでも水はよいのでした。お父様はお茶が好きなので、水のよいというのをお喜びです。その井戸に被さるようになった百日紅の大木があるのが私には珍しくて、曲った幹のつるつるしたのを撫でて見ました。庭と井戸の境には低い竹の垣根があって、見馴れない蔓がからんでいますのを、『これは何でしょう』と聞きましたら、お父様は、『それは美男葛といってね。夏は青白い花が咲くのだ。もう莟があるだろう。実が熟すと南天のように赤くて綺麗だよ。蔓の皮を剥いで水に浸すと、粘が出るのを髪に附けるだとさ。それで美男葛というのだろう』とおっしゃいました。
 柿の木もあり、枇杷もあり、裏には小さな稲荷様の祠もありました。・・・お国を出てから今日まで我慢をしていらっしゃったのですから、お父様はお家の時はいつもお庭でした。」
と、小梅村での様子がわかる。