住まいの変遷(千住からドイツ留学)と植物2

森鷗外ガーデニング  5
住まいの変遷(千住~独逸留学)と植物2

④千住の住まい
 明治九年、千住町に出来た区医出張所管理を森静男は、東京府庁から命ぜられた。当初は、小梅村から通勤した。同十一年、東京府足立郡の郡医を嘱託され、橘井堂医院を開業した。翌十二年一家は小梅から千住一丁目十九番地に引っ越した。なお、鷗外が明治十四年東京府に提出した開業免状下附願の住所がこの番地である。
 妹・喜美子の『森鷗外の系族』(「千住の家」)によれば、その家の様子は、「小路を這入つて厭になる程行くと門につき当る。黒板塀で取廻した屋敷であつた。・・・平屋ながら屋根が高く天井の上に物を置くやうになつてゐた。」
イメージ 1 また、「千住の家は町からずっと引込んでいて、かなり手広く、板敷の間が多いので、住みにくいからと畳を入れたり、薬局を建出したり、狭い車小屋を造ったりしました。ちょうどその辺に大きな棗の木と柚の木とがあったので、両方の根を痛めないようにと頼んだのでした。・・・庭を正面にした広い室に大きな卓があって、その上には、いつも何かしら盆栽が置いてあります。」と喜美子は『鷗外の思い出』に記している。
 現在では、「町からずっと引込んでいて」どころか、北千住駅の南西に300mほどの市街地になっており、当時とは全く異なる。ただ、周囲の狭い道筋をたどると、昔の形跡が何となく把握できる。旧日光街道との関係、迷路のような道、水路というよりどぶ川があちこちに流れていたことも十分に推測できる。
 建物と庭に関しては、「建坪も余程有るが、診療所、待合室、薬局、書生部屋、車夫部屋ととつてしまつては、住ひの方が割合狭くなつてゐた。・・・庭はあるが、樹木は少なかつた。お父う様のお好きな大小種々な植木鉢を、段を栫えて並べてから大分賑やかになつた。裏は深い堀で、刎橋を下ろして出ると、向こうに藁葺の百姓家が五、六軒ある。」とある。
 この文から推測すると、鷗外が住んでいた頃の家は、ドイツ語で書いた『日本家屋説自抄』に示した間取りであろう。なお、朝日新聞(1956年7月4日付)に発表された図(石井時子三の記憶による見取り図)は、増改築後のものと思われる。
 「お兄様の書斎は北向の六畳でした。・・・障子を開けると隣は空地で、囲いの内には棕櫚が二、三本聳えておりました。お花の切り残りを挿したのが育って、山吹や小手毬が春は綺麗ですし、また秋海棠が手入れもしないのに、土どめの龍の鬚の間にまじってずんずん広がりました。」
「お父様は庭いじりをなさいます。松とか石榴とか、盆栽物の手入が何よりもお好きで、気に入ったのを代る代る家へ入れて眺めながら、濃いいお茶を召上るのがこの上ないお楽しみでした。・・・夕食後にはお兄い様も庭へ下りて土いじりをなさいます。
 『この松の枝振りを見ておれ、苔付もいいだろう。』
 『大変によくなりましたね。』
 おっしゃるけれど、ほんとうはそんなのはお好きではないので、奥庭は嫌われるからと、前の庭へ芥子を一面にお蒔きになった事もありました。」と書いている。喜美子は「芥子」と書いているが、たぶん、ヒナゲシだと思われる。
 なお、静男は庭の広さが小梅村当時より狭くなったためか、盆栽に興味を持ち始めた。その様子を鷗外は『カズイスチカ』に、「・・・診療室は、南向きの、一番廣い間で、花房の父が大きい雛棚のやうな臺を据ゑて、盆栽を並べて置くのは、此室の前の庭であつた。病人を見て疲れると、この髯の長い翁は、目を棚の上の盆栽に移して、私かに自ら娯むのであつた。
 待合にしてある次の間には幾ら病人が溜まつてゐても、翁は小さい煙管で雲井を吹かしながら、ゆつくり盆栽を眺めてゐた。」と書かれている。「花房の父」のモデルが、鷗外の父であることは言うまでもない。静男は、診療室に盆栽を持ち込むほど熱心であった。
★追・・・「鷗外」という号は、現隅田川(角田川)の白髭橋付近にあった「鷗の渡しの外」という意味である。明治十二年引っ越した、千住の住まいを指している。なお、「鷗(名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと)」在原業平が詠んだのは、現在の「言問橋」付近ではない。

⑤ドイツ留学で得たガーデニング
 鷗外は、明治十七年ドイツに留学する。彼が植物を本格的な関心を抱くようになるのは、この留学以降である。最初に着いた香港で市内を見て歩き、「初二日。遊花苑。苑頗大。在上環。入門則紺碧透衣。紅紫眩目。覇王樹之類。有偉大可驚者。」と『航西日記』に記している。植物に関する記載は以後の『獨逸日記』にも続き、西欧の植物への関心を高めた。
 なお、植物への興味は、花に留まらず、宮廷庭園や景色におよび、「クラインガルテン」にも注目している。その関心は、単なる観光ではなく専門的な域に達していた。鷗外は、すべてのことを吸収する並外れた能力を有していたことを差し引いても、造園や園芸には一方ならぬ意気込みを感じる。彼は、留学中によって植物好き、ガーデニング好きが開花したに違いない。それは、彼が入手した以下の専門的な書籍を見れば明白である。
『Lehrbuch der Gartenkunst(庭園術の教科書)』
『Lehrbuch der schönen Gartenkunst,2 Edit(美しい庭園技術の2版)』
『Die schöne  Gartenkunst(庭園美)』
『Théorie der jardins(庭園の理論)』
『Geschichischen  der italienischen Renaissancegärten(イタリアルネッサンス庭園史)』
『Der Garten,seine Kunst und Geschichte(庭園技術と歴史)』
『Forstästhetik(森林美)』
 現代なら、造園関連の本を求めようとすれば、大きな本屋さんに行けば、またネットで容易に入手できる。しかし、明治時代の専門的な書といえば、江戸時代の園芸本や図録程度しかなかった。総合的な専門書がわが国で出版されるのは、大正時代に入ってからである。さらに言えば、多くの人が今読んでいる造園専門書の大半は1960年以降に出されたものである。まして、明治時代に、外国の専門書を入手しようとしても、できる人は非常に限られていた。造園や園芸の専門家以外でこのような専門書を読んだ人は、鷗外の他にはいないと思われる。彼は、入手しようとした時点で、将来庭を作り、自分の好きな花を植えようと決めていたと、考えても不思議ではない。