『明治三十一年日記』1

森鷗外ガーデニング  14
『明治三十一年日記』1 
                                 
 鷗外の日記に植物が記されたものとして、『明治三十一年日記』がある。この日記は、一月一日から始まり、十二月二日まで書かれている。その中で、植物に関する記載は二月から十月までで、『花暦』に負けないくらい熱心に記されている。
・二月
「二日(水)。風。大森の梅開くと聞く。」と、花の便りを待ちわびていたようで、花暦を付けるぞという意気込みが感じられる。
「四日(金)。・・・是日向嶋の梅開くと聞く、吾家御園の梅も亦数枝綻び初めたり。」 咲いたのは、三畳のそばにある紅梅であろう。なお、北側の出入り口の近くにもウメが植えられている。鷗外の庭は、向嶋(以前住んでいた向島小梅村)のウメと同じ頃咲くと考えてよいのでは。
 ウメの開花は早かったが、その後はあまり暖かくならず、三月は十六日までに五回も雪が降っている。そのためか、庭の植物の開花は遅れていた。
・三月
「十七日(木)。晴暄常に殊なり。後園のHyacinthus花開く。」
 久しぶりの晴れに、ヒヤシンスが咲いた。
「二十一日(月)。椿開く。」
「二十二日(火)。連翹開く。」
 上記二日の日記は、ツバキとレンギョウの開花だけで終わって、他に記述がない。
 ツバキは、オトメツバキ(姫椿と呼んでいた)とタマツバキヤブツバキ?)があった。咲いたのは北側の庭の西に植えられているタマツバキではなかろうか。
「三十日(水)。木蘭開く。・・・」
 木蘭はハクモクレン、南側の庭にある高木。観潮樓の庭に、次々に花が咲きはじめた。
・四月
四月一日(金)。桃、木瓜、早櫻開く。・・・」
 モモ、ボケ、早櫻(ソメイヨシノでないことは確かエドヒガンか?)が咲いた。モモは花畑の西側、また、ボケはモモの南側の下に植えてあった。早櫻は、庭のどこに植えてあったか不明、これは敷地外の可能性もある。
「七日(木)。秋花の種子を下す。」
 この日、鷗外は、秋に咲く花の種まきをしたようだ。その日の作業は、まず花畑に散在しているゴミを片付け、雑草を抜き、鍬で耕し、肥料を入れてまた耕す。種を蒔くのは、それからで、種が風で飛んだり、雨に流されないように覆土する。そして、何をどこに蒔いたかを示す札を設置したのではなかろうか。
 花畑だけでも約四十坪(132㎡)の広さ、これだけの面積を、鷗外は一人でやったと思われる。前々日は雨、前日も小雨。当日は晴れて、土は湿っていて、耕すのは若い鷗外でも容易ではない。蒔いた後は後片付けもあり、一日がかりで草花の種を植えつけていたのではなかろうか。
「十日(日)。奠都三十年祭あり。棣棠開く。」
「十三日(水)。・・・海棠開く。」
 ヤマブキの位置は不明だが、ハナカイドウは東側の土蔵の前あたりに植えてある。共に「花暦」よりも早く咲いている。
「十六日(土)。花壇をひろむ。」
 この日の記載も上記だけ。花壇とあるから、東側の庭で作業をしていたのでは。たぶん、一日がかりでガーデニングをしていたのだろう。
「十八日(月)。・・・石楠開く」
 場所はわからないが、シャクナゲが咲いた。
「二十三日(土)。・・・築山庭造傅を買ふ。・・・」
 『築山庭造傅』は、江戸時代に作成された造園技術書である。1735年(享保二十年)北村援琴が著したもので、これが前編。1797年(文政十二年)秋里籬島が前著を批判して書いたものが後編。現代ではこの両者を合わせて『築山庭造傅』と呼んでいる。
「二十五日(月)。躑躅開く。・・・」
 花園の北側に植えてある、キリシマツツジオオムラサキツツジが咲いた。
「二十六日(火)。・・・江戸名園記・・・買ふ」
 『江戸名園記』(明治十四年八月上浣 校者 甫喜山景雄誌)は、明治になって江戸時代に造られた江戸の庭園が崩壊しているのを見て、名園の沿革や当時の様相などを書きまとめたものである。
・五月
「五月一日(日)。晴暄。花園を修治す。」
 日曜日、鷗外は、四月はじめに秋花の種子を蒔いた花園の手入れをした。発芽を確認し、間引きや移植、草むしりなど、終日庭で過ごしたものと思われる。翌日は雨。鷗外にとっては、まさに恵の雨と言える。
「十日(火)。桐、藤の花開く。」イメージ 1
 桐はノウゼンカズラ科の落葉高木のキリであろう。鷗外の庭には、梧桐も植えられていたことは確かだが、アオギリの開花は六月以降だから、彼が見たのはキリの花に間違いない。このキリは、潮樓のできる前から植えてあったものと思われる。藤(フジ)は、北側の木戸の側にあって、ウメの木に絡んでいた。花の色は紫色。
「十四日(土)。夕より風。卯花開く。」
 卯花はウツギ(空木)、ユキノシタ科で白い花が咲く。位置は不明。もっとも、ウツギにしては、開花が早いような気がする。これはガクウツギ(ユキノシタ科)の可能性もあろう。
「十六日(月)。菖蒲、白及華さく。・・・」
 菖蒲はハナショウブ(花菖蒲)。白及はシラン(紫蘭)。花畑に咲いているのであろう。
「二十日(金)。風。萱草開く。・・・」
 漢名で「萱草」は、ヤブカンゾウである。「花暦」でも示した通り、ニッコウキスゲではないか。?
イメージ 2「二十一日(土)。罌粟、銭葵開く。」
 「罌粟」は漢名で、ケシ科のケシ(芥子)のこと。宿根草だが、種からも栽培でき、前年の秋に種まきをしなければならない。
 銭葵はゼニアオイ、漢名で「錦葵」。ケシとともに花畑に植えられていたのだろう。
「二十三日(月)。やくるま草開く。」
 やくるま草は、「花暦」に示したとおりキク科のヤグルマソウ。花畑であろう。
「二十四日(火)。小櫻草開く。」
 小櫻草は、『花暦』でも記されたユキノシタであろう

「二十九日(日)。鉄線花開く。」
「三十一日(火)。・・・玫瑰・あらせい開く。」
 鉄線花はテッセンか。玫瑰はハマナス。あらせいはアラセイトウであれば、ストックの類である。ハマナスアラセイトウは花畑、テッセンも花畑に植えてあったかもしれない。
・六月
「八日(水)。葵、凌霄葉連、澤桔梗、せんのう等開く。・・・」
 アオイ、ノウゼンハレン(ナスタチュウム、キンレンカ)、サワギキョウ。せんのう等の「等」は、センノウの類ということであれば、ガンピ(岩菲)やマツモト(マツモトセンノウ)などのナデシコ類を指していると思われる。これらの花々は、花畑で咲いていたもの。
「十一日(土)。玉簪花開く。」
 玉簪花は漢名、ユリ科のタマノカンザシ。ギボウシの仲間で、花だけでなく、葉も美しい。しかし、タマノカンザシではなく、ギボウシの可能性もある。
「十二日(日)。大村白井の二人と高嶺秀夫の大塚に訪ふ。・・・主人と庭園を歩む。Magnolia grandiflora の盛り開けるあり。さらの木の大なるあり。花蕾の将に綻んとするを見る。・・・午後千樹園に至る。終日天氣好かりき。」
 マグノリア・・は泰山木(タイザンボク)、白い大きな花をつける。鷗外が漢字で書かなかったのは、当時の日本では珍しい木だったからだろう。
「十五日(水)。玉露叢を買う。」
 どこで購入したのか不明。また、玉露叢はジャノヒゲ(リュウノヒゲ)だろうと思われるがこれもよくわからない。というのも、ジャノヒゲはわざわざ買ってまで植えるような植物ではないと思われるからである。
「二十二日(水)。金絲桃開く。」
「二十五日(土)。鉄砲百合開く。」
 ビヨウヤナギの場所は不明。テッポウユリは花畑で咲いた。
・七月
「三日(日)。萱艸、桔梗、『ダリアス』、薊けし開く。」
 萱艸は萱草、これは、『山椒太夫』にも出てくるヤブカンゾウである。ダリアスはダリア。『』括弧書きの意味は不明、何種類もあったからか。
イメージ 3 薊けしは、ケシ科のアザミゲシ。葉はアザミに似ていて、花はケシに似ていることから名付けられた。花の色は黄色。これらの花は、花畑で咲いていたのだろう。
「六日(水)。百日草開く。」
 ヒャクニチソウのジニア類は、花の色は何種類かあっただろう。百日草は、花畑にあったかもしれないが、東側の庭で二ヶ所の花壇を作っていた。

「十二日(火)。・・・みそはぎ開く。
イメージ 4十七日(日)。石竹、おいらん草、凌霄、孔雀艸、射干、敗醤等開く。」
 観潮樓の花畑は、花盛り。みそはぎ(ミゾハギ)、石竹(セキチク、カラナデシコ)、おいらん草(オイランソウ、クサキョウチクトウ、別名宿根フロックス)、凌霄(ノウゼンカズラ)、孔雀艸(クジャクソウ、別名ハルシャギク)、射干(ヒオオギ)、敗醤(オミナエシ)などが咲いた。
 オイランソウはクサシノブ科の植物で、薄紫や白色の花を付ける。
 オミナエシオミナエシ科の植物で黄色房状の花を付ける。
イメージ 5「二十二日(金)。・・・百日紅開く」
 百日紅は、ミソハギ科のサルスベリ。花の色は白色もあるが紫ぎみの紅色であろう。サルスベリは、東側の庭の南端、門に近い場所に植えてあった。
「二十三日(土)。おしろい開く。」
 オシロイバナは、花畑でこぼれ種からも増えただろう。

「二十七日(水)。・・・朝〇、縷紅開く。」
イメージ 6 朝〇はヒルガオ科のアサガオ。通称、ジャパン・モーニング・グローリーと呼ばれているが、渡来種。縷紅はヒルガオ科のルコウソウ、熱帯アメリカ原産の渡来種。同じ蔓性植物が同じ日に咲くのは、短日植物のためだろう。花畑の一角で咲いていたようだ。
「三十日(土)。百合開く。・・・」
 ここでは百合(ユリ)とだけ書かれているが、たぶんヤマユリのことだあろう。これも花畑で咲いていたと思われる。




・八月
「四日(木)。・・・橐駝氏来りて園を治す。・・・」
 橐駝とは植木屋の別名(柳宗元・種樹郭橐駝伝『角川漢和中辞典』より)
「五日(金)。紅蜀葵開く。・・・」
 紅蜀葵はモミジアオイ。花畑で咲いていたものと思われる。
「二十日(土)。萩開く。
「二十一日(日)。芙蓉開く。
 ハギ、フヨウが咲きはじめ、花畑はそろそろ秋の花となる。
・九月
「八日(木)。向日葵開く。」
 花畑でのヒマワリの開花の記録をもって、明治三十一年の観潮樓の花暦は終了する。
 花の記述としては、十月に
「二十日(木)・・・青山御所を過ぐ。園丁の菊を養ふを看き。微雨。」がある。