『小倉日記』の植物

森鷗外ガーデニング  16
『小倉日記』の植物

『明治三十二年』
 『明治三十一年日記』は、十二月二日で終わっている。その後の日記として明治三十二年六月十六日から始まる『小倉日記』がある。その間には約半年間の空白がある。鷗外は、花や植物どころか日記自体を記す気にならなかったのだろう。彼の心境に大きな変化があったことは確かだが、そのことについては、私の専門ではないので書くことを差し控える。
 明治三十二年六月八日、鷗外は陸軍軍医監に任ぜられたが、ほどなく小倉の第二師団軍医部長を命じられるという左遷である。『小倉日記』は、新橋を出発した六月十六日から書かれ、『明治三十一年日記』とは違っている。その違いは、前年の日記に見られたガーデニングに関する記述が激減していることである。小倉に赴任中ということで、生活環境が一変したためガーデニングへの関心は薄くなったのだろう。
 あるのは、七月五日の日記にコウライシバの記載程度である。
「五日。・・・庭園朝鮮しば植ゑたり。纎葉毛の如く、秀潤愛すべし。籬邉林木の間多く様式の蜂屋を排列し、密を採りて旁業となす。・・・」。コウライシバは、九州地方には自生するものの関東地方であまり普及していなかったのだろう。鷗外は珍しかったので記したのだろう。
 続く八月の日記にも、花の記述はない。植物としても、七夕の竹が出てくるだけである。
「十一日。・・・此日家々竹を買ひ紙を裁ち、乞巧の備をなす。盖明日は陰暦の七月七日なればなり。」
 九月に入って、始めて花に関する記述が見られる。
「十九日。北方騎工兵營を看る。夕より雨ふる。庭前の百日紅尚盛りに開けり。客ありて曰く。此花毒あり。水に落つれば魚死すと。・・・」などとある。この記述は、花の美しさの興味より、医者として花の毒性に関心を持ったのであろう。なお、サルスベリの花には、魚を殺す毒性はない。
「二十五日。・・・堤上に草花の開けるあり。葉は三裂す。地より長莖を抽き出、莖ごとに数蕾を着け、その蕾相遞次して綻び開く。花は五瓣にして淡紫色、雄蕊の尖又五分す・・・是れ所謂現の證據といふものなり。廣嶋の民は御輿花と名く・・・」と、花の美しさではなく、薬草としての関心から記している。
「三十日。・・・壇上には、何人か栽ゑたりけん、雞冠花盛に開けり。」と、ケイトウの花について、誰かが植えたものだろうと記している
 日記には、花についての記述はあまりないものの、鷗外が母に宛てた書簡には、
「九月十三日・・・この頃木芙蓉の花盛なるが津和野の事は覺えねど九州の木芙蓉の軒より高き大木となり居るは東京などゝ大ちがひ珍らしく存候・・・」とある。「木芙蓉」はアオイ科のフヨウ。あまりにも大きく生長しているので気になったのだろう。このように行く先々で、多少は植物への関心を持ち続けていたことがわかる。
 十月には、
「二十二日。・・・此日日曜日に丁る。後圃の菊始て開く。南の縁端に兀座して日暮に至る。    菊畑や暮れのこる白のところゞゝゝ・・・」。この菊は、十一月二日に出した、母、森峰子への手紙によれば、
「十月二十八日。・・・四五日雨勝なりしが今日は晴天にて小春びよりの氣に御座候庭の菊は雨にたゝかれ好き花は皆痛み申候。・・・」とある。
 十一月
「三日。・・・寺は長濱の東の丘上に在り。宮本武藏の碑を観る。不老菴に入り、村醪を酌みて還る。此邉の海岸には橐吾の野生して花を開くもの多し。」の「橐吾」は、キク科のツワブキ

『明治三十三年』一月
 明治三十三年。元日から雪に見舞われている。
「七日。・・・雪の橘柚の枝上より墜つるなり。・・・」と、小倉の住まいの庭のユズを記している。
「二十二日。朝牧山を送りて停車場に至る。是日天氣晴朗、苑内の梅花皆開く。又南の縁近き処には、金盞花の蕾を破れるあり。」。さすがに九州だけあって、ウメの開花が早い。
「二十四日。宮川漁男来りて、松村任三氏の牻牛兒苗辨を借す。初め予所謂現の證據を福岡に得て謂へらく。是れ牻牛兒苗なりと。今此文を見てそひ非なるを知る。乃ち左に基概要を抄す。『ゲラニウム』Geranium 属にたちまち草あり、俗に現の證據と云ふ。・・・」。「現の證據」とは、ゲンノショウコフウロウ科)のこと。また、「たちまち草」は、すぐに効き目が現われる草、という意味で付けられたものらしいが、おそらく通称であろう。また、「みこしぐさ」は、果実が裂開した形が神輿の屋根に似ていることからつけられた名である。「牻牛兒苗」はオランダフウロであり、属がゲンノショウコとは異なるということが書かれている。
 二月
「三日。風雨。節分なり。市中柊を門に挿むもの多し。・・・」
 三月、東京に一時帰る。
「十九日。正午十二時御陪食を仰付けらる。・・・格子天井は方眼ごとに花卉を畫けり。廳の隅には盆栽の松と棕櫚とあり。花瓶には多くの外國種の草花を插けたり。・・・」
 鷗外は皇居内での御陪食に招かれ、その時の部屋の様子を書き記している。興味のあるのは、松と棕櫚の鉢植を「盆栽」と書いていることだ。鷗外はまだ、「盆栽」を江戸時代風に「はちうえ」と読んでいたのであろう。
 四月、小倉に戻る。
「十七日。・・・花散るや半はこぞの柑子の葉」
「二十日。陰。後園の牡丹始て開く。」
 五月、一時東京に行ったが小倉に戻る。「十五日。午前六時三十分小倉の寓に還る。後園の牡丹散り盡して芍薬始めて開く。」
「六月一日。陰暦の端午なり。戸々幟を建つ。・・・大分に向ふ。・・・沿路麥圃多く、又櫨樹の林を見る。・・・」櫨樹は、ハゼノキ(リュウキュウハゼ)。蠟を採るために植林したものであろう。
 七月には花の記述はない。八月もないが、三日の日記に俳句が詠まれ、その中に「瓜」「細胡瓜」「蓮」などの名が見える。九月には、植物に関することは何も書かれていない。
 十月。
「八日。・・・宮川漁男山口村過ぎて「インパチエンス」Impatiensの一種釣舟草を獲て予に示す。葉は、菱形にして縁鋸歯の状をなし紅花を開く。漏斗に似て嘴端曲れり。」の「インパチエンス」はツリフネソウ科のツリフネソウであろう。
 十一月。
「七日・・・
 朝顔の藪を俺ふや井戸近み
 誰が好いて花壇のへりの唐芥子
 南国は馬上に仰ぐ木芙蓉哉
 籠塀や杉皮朽てからす瓜」
 このようにいくつか詠まれた俳句の中に、植物の名前が登場する。場所は特定できないが、以前に見たのを詠んだものだろう。

『明治三十四年』
 この年は、植物や花に関する記述が少なく、三月末になって、東京・皇居での御陪食の時に初めてでてくる。
「二十九日。御陪食を命ぜられる。・・・參内可有之・・・彼には木瓜の盆栽あり、此には硝子戸外に山茶、藤の盆栽あり。・・・」
 四月には植物の記載がないが、五月になり、「十八日。快晴。午前八時八分小倉を発す。徴兵檢査の状況を視んが爲めなり。車窓から望見すれば、新緑山野を塡めて、所々躑躅花紫雲英の紅紫を點綴せるあり。亦以て目を悦ばしむるに足る。・・・」とある。「躑躅」はツツジであるが詳細の名は不明。「紫雲英」はマメ科レンゲソウ、ゲンゲともいう。
「十九日。・・・此日天氣晴朗昨の如く、あふちの花の紫なる、野薔薇の花の白きなど頗る喜ぶ可し。・・・」の「あふち」はセンダン科のセンダンである。「野薔薇」はバラ科のノイバラであろう。二日連続の汽車の旅、好天にも恵まれ、目が思わず花に移ったものと思われる。
 以後の日記には、枇杷(6/20)が旨かったとある程度で、植物に関する記述はない。なお、母親・峰子に宛てた書簡に(九月の中に記されているが、月日不詳となっている)。
「十日の御書状拜見候。庭の模様がへ、北村におくりし朝顔の事など承候。・・・」とある。観潮樓の庭の模様替えが行われたのかと思われるが、詳細は不明である。

『明治三十五年』
 一月、荒木志げと再婚する。八日、小倉へ夫婦で赴任する。新婚生活に浸っていたためか、自庭の記述はまったく見られない。また、この年の日記は、三月二十八日で切れている。花についての記述は、以下の2日だけである。
 二月。
「二十三日。日曜日。廣壽山に遊ぶ。・・・茶店に小憩し、近村の梅花を看て還る。」
 三月
「十七日。赤坂に遊ぶ。人家の連翹開けり。路傍に始て菫花を見る。」

『鷄』に書かれた「石田の庭」と「小倉の庭」
 鷗外は、『鷄』に小倉の独身時代の庭と思われる描写が、石田の庭として記されている。
 「縁側に出て見れば、裏庭は表庭の三倍位の広さである。所々に蜜柑の木があって、小さい実が沢山生っている。縁に近い処には、瓦で築いた花壇があって、菊が造ってある。その傍に円石を畳んだ井戸があって、どの石の隙間からも赤い蟹が覗いている。花壇の向うは畠になっていて、その西の隅に別当部屋の附いた厩がある。」と、小倉の庭をもとに書いたものであろう。
 小倉の庭には、花ものとしてキク、ボタン、シャクヤクが日記に記されている。むろん他にも植えられていたであろうが、詳しくは記載されないまま、小倉日記は終わってしまった。樹木は、「橘柚」ユズが記されただけで、他は不明である。なお、『鷄』に書かれているミカン(蜜柑)は、小倉の庭にはないことは確か。それから、『鷄』に北向きの表庭に、キョウチクトウサルスベリがあると書かれているが、キョウチクトウは確かにあったが、サルスベリはなく実際にあったのはザクロであった。小説でサルスベリ百日紅)としたのは、サルスベリとザクロが樹皮、花の形や花期などが類似しているためか。鷗外が好きであったことによるものか、木としてのイメージが優れているからサルスベリに変えたのではなかろうか。