明治四十一~四十四年日記

森鷗外ガーデニング  18
『明治四十一~四十四年日記』

『明治四十一年日記』
 この年四十六歳、弟・篤次郎が死去。『ソクラテスの死』などを翻訳。
 日記は、一月一日から始まっている。開花の記述は、四月には入り、
「五日(日)・・・終日細雨、櫻花半ば開く。」と、どこで見たのかは不明だが、サクラの花の開花を記している。この年の花に関する記述は、これだけである。

『明治四十二年日記』
 この年、『半日』『鷄』『ヰタ・セクスアリス』などを発表。文学博士となる。次女杏奴が誕生。
 三月
「十九日(金)、陰。花壇に雪どけの水こほれるを見る。頗寒し。・・・」
「二十二日(月)、晴れて寒し。花壇に氷あり。・・・」
 三月の半ばから、鷗外は、庭に注目していたようだが、開花について日記に記したのは四月末になってから。
 四月
「二十九日(木)、陰。生暖き南風盛に吹く。杜鵑花眞盛なり。」
 五月
「二十三日(日)、晴。庭の芍薬開く。・・・」
 その後は、七月の末。
「二十九日(木)、晴。暑。上野を過ぎて不忍池の蓮花の盛に開けるを見る。・・・」
 八月
「十三日(金)、半陰。紅蜀葵始て咲く。・・・」
「十四日(土)、晴。朝風稍凉し。木芙蓉始て咲く。」
 九月
「二日(木)、・・・妻と茉莉と芝に往きて帰る。黄蜀葵苗を持ちかえり栽ゑつ・・・」
 黄蜀葵は漢名で、アオイ科トロロアオイ、黄色い大きな花が咲く。庭に植えたのは妻か茉莉のどちらだろうか。
「十八日(土)、雨。萩少しづつ咲き出づ。梨の宮に伺候す。内堀の岸に石蒜咲けり。」
 ハギは庭で咲いたものだろう。皇居の堀の岸に真っ赤なヒガンバナが群生していたらしい。石蒜(セキサン)はヒガンバナ科ヒガンバナ彼岸花)、マンジュシャゲ曼珠沙華)ともいう。
「十九日(日)、雨。・・・紫苑咲きはじむ。・・・」
 雨の中、庭のシオンが咲きはじめる。
 十月
「一日(金)、晴。紫苑、萩盛なり。・・・」
「二十四日(日)、晴。日曜日。・・・母と於菟と國技館へ菊を看にゆく。・・・妻と茉莉と連れ立ちて出で、團子坂の菊を看、・・・」
 この年の菊人形は、東京中の話題をさらった。国技館や団子坂などに見物客が殺到。国技館では、名古屋黄花園が四十日間にわたり、電気仕掛けの菊人形(経費四万円)を興行した。開園は朝八時から夜の十一時までと長く、入場料は大人二十銭、小人十銭というから、庶民にとって決して安い値段ではなかった。
 団子坂では大人十銭と国技館に比べて割安。舞台がせり出し、七段八段もと場面を替え、義太夫の出語りまでつくという大仕掛けの菊人形を、人気の植木屋、種半がだした。当時の菊人形は、五段返し、八段返しは当たり前、ドンヂャン、ドンヂャンと鐘の音を合図に舞台が変わるという派手なこしらえで、それにつられて花の善し悪しなどろくにわからないような子どもまで押しかけた。
 十月の鷗外の家では、嫁姑の反目を反映するかのように、同じ日に東西の菊人形を見に、二組に別れて出かけている。
 十一月は、庭の花についての記述はない。ただ、七日の日曜日、亀井伯の令嬢に菊を案内したとある。これはおそらく、団子坂の菊であろう。

『明治四十三年日記』
 この年、「スバル」で『青年』の連載を開始。この作品の中には、ハギ、ダリア、サザンカナンテンなどの植物の名前が登場する。
 二月の初め頃、茉莉が病気になった時のことが、『残雪』(森茉莉全集・5)に綴られている。
「花畑の残雪である。春の節句も近いころ、まだ雪が残っていて、芙蓉や山吹の根元なぞに、ところどころ黒い土が出、枯れた枝、葉、なぞがちょいちょい見えている、花畑の残雪が、今も私の心の中にあるのは、大病の直り際に、花畑の見える部屋に敷いた蒲団の上に起き上がって、何日も何日も、終日花畑を見てくらした記憶が数え切れぬほどだった・・・」
 二月二十六日、茉莉の病気も回復しつつあったのか、鷗外は上野韻松亭の曙会で
 「駒引くを待つ朝戸出の手すさひに 折りてそ見つる梅の初花」
と、詠んでいる。庭にウメでも咲いたのであろうか。この頃の鷗外の関心は、花より茉莉、杏奴の二人の娘の方にあったと見え、開花を日記に記すのは四月に入ってからである。
 四月
「十日(日)。陰。悪路。櫻花盛りに開く。・・・」
 浅草松山町正覺寺に赴く途中で、満開のサクラが目に入ったのだろうか。
「十九日(火)。半陰。・・・櫻多くは散れり。・・・」
 以後、六月まで開花の記述はない。
 六月
「十九日(日)。半陰。・・・天竺牡丹、月見草咲きはじむ。」
 次は、九月までなく。
「八日(木)。雨。始て冷を催せり。木芙蓉盛に開けり。」
 十月
「八日(土)。・・・紫菀の花盛んに開けり。」
「十六日(日)。陰。午後雨。・・・天竺牡丹二度咲の盛りなり。」
 十一月
「四日(金)。晴。・・・槲の實落ちはじむ・・・」
 槲はブナ科のカシワではなく、スダジイのことと思われる。
「六日(日)。晴。野菊盛に開けり。・・・」
「十二日(土)。晴。・・・所々紅葉を見る。」
「十三日(日)。好天気、妻茉莉と國技館、偕行社の菊を観にゆく・・・」
「十五日(火)。半陰。・・・観菊に御苑にゆく。・・・紅葉次第に濃く染む・・・」
「十七日(木)。半陰。・・・妻と茉莉と榮子を誘ひて、安田善三郎の家に菊見に往く。・・・」
 十二月には、「七日(水)。晴。寒甚しからず。庭の枯草に霜を見る。落葉。・・・」とある。花畑には、片付け損なったのか枯草が残っていたもよう。

『明治四十四年日記』
 この年、『雁』『灰燼』などを発表。三男の類が二月に生まれ、鷗外は子供たちへの関心をさらに強めている。
 三月
「九日(木)、陰。・・・登衛の途上梅花盛に開けるを見る。・・・」
「三十日(木)。半陰。櫻盛に開けり。・・・庭園にて貝母の開けるを見る。」
 四月
「二日(日)。晴。・・・妻、茉莉、杏奴を伴ひて上野動物園に往く。」
 お花見をかねて外出したのであろう。陸軍省医務局長にして文豪である鷗外が家族そろって動物園に行ったのかと思うと、微笑ましい気分にさせられる。もちろん、根津の自宅から歩いていった。
「十四日(金)。晴。朝稍寒し。葉櫻・・・」
 五月
「九日(火)。晴。暖なり。罌粟を買ふ。・・・」
 罌粟は漢名で、ケシ科のケシ。どの辺りに植えたかは書かれていないが、たぶん花畑であろう。植えたのは、もちろん鷗外だろう。
「二十七日(土)。薄曇。・・・園を治す。白及花開けり。」
 鷗外は、午後からであろう、庭の手入れを行った。たぶん、その時にシラン(白及)の花が咲いているのに気づいた。
 六月
「七日(水)。陰。點々雨下る。・・・虫とりなでしこ、なつゆき盛なり。」
 虫とりなでしこは、ナデシコ科のムシトリナデシコのこと。他に、ハエトリナデシコともいう。茎から出る粘質物で小さな虫をいかにも取りそうだというところから名付けられたもの。が、実際には虫を取ることはない。花の色は紅色もしくは淡紅色。江戸時代に西洋から渡来した。
 ナツユキは、キョウガノコの白花であろう。
 七月二十六日(水)、前夜大風雨に見舞われ、庭でも「花木も倒れたり」と、かなりの被害があったようだ。
 以後、開花の記述はなく、十一月十五日(水)、鷗外は赤坂御苑の菊を拝観している。
 十二月「十六日(土)、晴。初氷を手水鉢に見る。霜。」と、庭の様相はもはや冬である。