『明治四十五年・大正一年日記』

森鷗外ガーデニング  19
『明治四十五年・大正一年日記』

 この年、鷗外は五十歳。『かのように』『興津弥五右衛門の遺書』などの作品を発表。
明治四十五年二月
「十八日(日)。陰。寒。・・・庭の福壽艸咲く。」
 この日、キンポウゲ科フクジュソウが咲いた。鷗外は、この年あたりから再び庭への関心が高まったようで、日記に開花の記述が多くなる。
 三月
「二十四日(日)。晴。微寒。竹垣を結ひなほしに植木屋が来れり。終日子供と園にあり。」
 この植木屋、於菟が書いた『父親としての森鷗外』「鷗外の母」によれば、「私の物心ついてからはいつもその家から山畑半平という職人が来て夏は庭前の銀杏、松、楓、椎、榧、梧桐、合歓木などの梢に登り枝葉を払って涼風の座敷に通うようにし、冬は霜除けのかこいをつくったりした。」と、この日はいつもの植木屋が訪れた。鷗外は、子どもたちと花畑で庭作業をしながら、竹垣ができるのを見守っていた。
「二十八日(木)。晴。道濕りたり。寒からず。櫻所々に開けり。・・・」
「二十九日(金)。陰。櫻盛んに開く。・・・」
「三十日(土)。薄曇。悪路。花卉の芽多く出で。貝母の花開く。」
「三十一日(土)。晴。妻、茉莉、杏奴上野へ花見にゆく。・・・」
 春の到来を告げるように、サクラが咲き、庭の草花が芽を出し、バイモ(アミガサユリ)が咲きはじめた。
 四月
「三日(水)、雨。・・・木瓜、桃開く。」
「七日(日)。晴。寒けれど風なし。妻、茉莉、杏奴を伴ひて、荒川堤にゆく。・・・山吹咲きはじむ。」
 ボケ、モモなどが咲きはじめ、鷗外一家は花に誘われるように荒川堤へ草摘みに出かけた。そして、家に戻ると、ヤマブキの咲いているのに気づいた。
「二十五日(木)。晴。・・・杜鵑花開く。」
 庭のシャクナゲが咲いたようだ。
 五月
「六日(月)。晴。・・・長原孝太郎来て鴨頭草の苗を贈る。・・・」
 庭に生育しているツユクサ科のツユクサ(漢名で鴨跖草)を贈ったのであろうか。花は青色であるが、この時点ではまだ開花していないだろう。もし花が咲いていたら、ムラサキツユクサツユクサ科、北米産の多年草、明治初期に渡来)だ。もっともツユクサはその辺りで見られる雑草(一年草)で、わざわざ苗を贈るまでのことはないと思われる。断定はできないが、紫色のツユクサより美しく、大きな花を咲かせるムラサキツユクサではなかろうか。
「三十日(木)。晴。・・・百合、罌粟開く。」
 ヤマユリと前年買ったケシ(ヒナゲシ?)が咲いた。その後、開花の記述は九月までない。ただ、六月二十三日(日)に、妻、茉莉、杏奴と共に小石川植物園へ出かけている。そして、七月二十一日の夜、『田樂豆腐』を書き終えたとある。さらに、七月二十九日(月)に、「茉莉、杏奴植物苑に往く。」とある。

大正一年九月
「十九日(木)。陰。胡枝花開く。」
「二十日(金)。陰。・・・紫苑開く。」
 胡枝花は漢名で、マメ科のハギ、ヤマハギであろう。翌日、シオンが咲いた。
 この年の花暦は、これで終わる。鷗外が庭の手入れをしていたのは、日記で見る限り、一日(三月三十日)しかないように見える。庭は、あまり手入れを必要としないのであろうが、それにしても年一回で済むわけがない。また、庭の管理には、植木屋を入れ、母の峰子も草取りなどをしているが、高齢のため力仕事は無理。やはり、日記に書かれた日以外にも鷗外自身が手を入れていたものと思われる。
 では、どのようなガーデニングを目指していたか、それは、ちょうどこの九月発表された『田樂豆腐』の中に書かれている庭から推測できる。作品中では、主人公・木村の庭になっているが、「なる丈種類の多い草花が交つて、自然らしく咲くように」と、この記述は観潮楼の花畑を連想させる。たぶん鷗外の庭づくりの考え方を示したものと思われる。
 また、鷗外は植栽する草花にもこだわりがあった。彼は、バラはもちろん、当時はまだあまり普及していなかったチューリップについても知識を持っていた。この年六月に発表された『藤棚』には、「種々の色のチュリップを咲かせた所とが最初に目を引く。」と記されている。鷗外が、チューリップに関心を持っていたことは確かである。しかし、花畑の一角に仲間入りさせることはなかった。鷗外の庭の構成は、やはり彼の美意識によって形成されていたものと思われる。
 それは、花の色にも見られ、鷗外の好んだ色は同じ赤色系であっても、ガンピ(黄赤色)・センノウ(深紅色)・マツモト(深赤色)など、チューリップとは質感が違う赤であった。また、三十歳代から四十歳、五十歳と年を取るにしたがって、花の嗜好も変化しているようだ。日記に開花を書き留めた花も、「福寿草、杜鵑花」など徐々に日本的な花が多くなっていく。明治から大正へと時代が変わると共に、鷗外の文学作品の変化にも見られるように、欧米色の強い花より和風の花を好むようになっている。
イメージ 1 この年の六月、鷗外は小石川植物園に出かけている。これは、『田樂豆腐』を書くにあたっての取材を兼ねたものだろう。それまでの日記に、小石川植物園の名が出ることはなく、初めてだからである。『田樂豆腐』は、「『あなた植物園へ入らつしつて』と、臺所から細君が聲を掛けた。」から始まる。植物園には、「木村は印東の西洋草花なんぞを買つて來て調べてゐたが、中には種性の知れないものが出來て來た。そこで植物園に往つて、例の田樂豆腐のような札に書いてある名を見て來ようと思ひ立つたのである。」と、植物の名前を調べに行った。
 この「植物園」は小石川植物園であり、目的を果たせただろうか、園内での経緯を次のように書いている。「高野槇や皐月躑躅には例の田樂札が立ててあつたのに、此邉の草花にはそれが立ててない。木村は失望した。
 十歩ばかりも進んだ時、左側に札を立てた苗床の並んでゐるのを見附けた。桔梗や、濱菊や、射干や待宵草が咲いてゐる。併し花が咲いていて札を立てて無いのもある。札が立ててあつて、草の絶えてしまったのもある。ある草が自分の札の立ててある所から隣へ侵入してゐるのもある。門にゐるお役人と同じように、花壇を受け持つてゐるお役人も節力の原則を研究してゐるものと見える。草苅女と見える女が所々をうろついてゐるが、それを指圖をしているような人は一人も見えない。暫く苗床の間を廻って見ても、今頃市中で売つてゐる西洋草花は殆ど一種も見當らない。木村はいよいよ失望した。」と、植物の名前がハッキリしないことに、少なからず失望を感じたのだ。それでも、妻や子どもたちの楽しそうな姿を見て、「不平の感じは起してゐなかつた。」と折り合いをつけている。これは『田樂豆腐』内の記述であるが、実際にも鷗外は、以後再三小石川植物園に出かけるようになる。
 さて、その年の十一月三十日(土)、初霜であろうか、鷗外は槭(カエデ)の「落葉庭を覆ふ」と記している。