『大正七年日記』
前年十二月に就任した、宮内省帝室博物館の総長兼圖書頭として参館・参寮するようになる。長男の於菟が再婚。十一月、奈良正倉院宝庫の開封に立会に出張、約一月滞在する。なお、その疲れで、十二月は、ほぼ一月間、病気のため在宅療養。奈良へは、以後大正十年まで毎年訪れることになる。『礼儀小言』『北条霞亭』続稿を発表する。
この年の花の記録は、以下の四つである。
三月
「二十四日。日。晴和。看梅於荒木虎太郎家。・・・」
四月
「七日。日。陰。朝率妻子看花於上野。」
「十日。水。雨。・・・紀尾井町伏見宮邸。賞花。」
八月
「十日。土。晴。・・・睡蓮開。」
スイレンが咲いた。たぶん観潮樓の庭であろう。以後の日記には、目黒植物園など出かけた先での花はもちろん、自宅の庭の植物についても、何も書かれていない。ところで、観潮樓の庭は、当時どのようになっていたか。その辺のことは、類の『鷗外の子供たち』の「二 父、鷗外のこと」に詳しい。
「庭から離れの西をまわると花畑と称する園に出る。生いしげったつつじと山吹のあいだから瓦を乗せた土塀が見え、団子坂通りをへだてた町屋の二階は檜の葉に隠れていた。右の隅に父の石像が据えられていた。木芙蓉の葉陰が大理石の像に落ちてチラチラと揺れていた。向日葵、立葵、紫陽花など背の高いものを植えこんで、自然にできた道も露に濡れるほど一面に咲き乱れた花々であった。
石やレンガでかこんだ花壇を父がきらって、茂るにまかせてあるので、虫取草や矢車草がはびこっていた。手入れは祖母がしたそうだが、雑草を抜いたり、馬糞をいけさせたりする程度のものであるらしかった。石像の背後に、裏門と言ってはいたがりっぱな門があって、離れの玄関までの通路は野木瓜のからまった四つ目垣で仕切られていた。
園に面した部屋を花畑の部屋と言い、縁が高いのに濡縁もなく踏石もないので、一度腰をかけてから履物をはいた。西側の酒屋の住まいで二階に窓があった。その下にかなり大きい桃の木があった。実はめったにならないが土に埋れた種を拾いに行った。
あらゆる花が咲き誇っていた園も、兄が新婚のころには、いくらか衰えを見せはじめた。祖母は死んだし、朝裏草履をおろした父が、兄夫婦の庭さきに長くしゃがんで、花の手入れをすることもなくなったからである。」
鷗外は一月から、帝室博物館に勤務するようになる。庭の手入れは、当然のことながら難しくなり、庭への関心も薄れていったと思われる。
翌年以降の日記には、観潮樓の庭の開花についてはなにも触れていない。しかし、杏奴の『晩年の父』「思出」を読むと、鷗外は庭の植物に少しは手を入れていたようである。たとえば、次のような一節がある。
「それからほんの少し苺を植えたら、紅い小さい実がやっと三つだけなった。
それでも父はとても喜んで、小さいお皿にそれを入れ、お砂糖をかけて父と私と弟と三人で一つずつ食べたが、取りたての故か大変美味しかった。
今、世田谷の私の家でも、苺を作っては毎日のように食べているが、この時の三つの苺の思出は如何しても忘れられない。」
前年十二月に就任した、宮内省帝室博物館の総長兼圖書頭として参館・参寮するようになる。長男の於菟が再婚。十一月、奈良正倉院宝庫の開封に立会に出張、約一月滞在する。なお、その疲れで、十二月は、ほぼ一月間、病気のため在宅療養。奈良へは、以後大正十年まで毎年訪れることになる。『礼儀小言』『北条霞亭』続稿を発表する。
この年の花の記録は、以下の四つである。
三月
「二十四日。日。晴和。看梅於荒木虎太郎家。・・・」
四月
「七日。日。陰。朝率妻子看花於上野。」
「十日。水。雨。・・・紀尾井町伏見宮邸。賞花。」
八月
「十日。土。晴。・・・睡蓮開。」
スイレンが咲いた。たぶん観潮樓の庭であろう。以後の日記には、目黒植物園など出かけた先での花はもちろん、自宅の庭の植物についても、何も書かれていない。ところで、観潮樓の庭は、当時どのようになっていたか。その辺のことは、類の『鷗外の子供たち』の「二 父、鷗外のこと」に詳しい。
「庭から離れの西をまわると花畑と称する園に出る。生いしげったつつじと山吹のあいだから瓦を乗せた土塀が見え、団子坂通りをへだてた町屋の二階は檜の葉に隠れていた。右の隅に父の石像が据えられていた。木芙蓉の葉陰が大理石の像に落ちてチラチラと揺れていた。向日葵、立葵、紫陽花など背の高いものを植えこんで、自然にできた道も露に濡れるほど一面に咲き乱れた花々であった。
石やレンガでかこんだ花壇を父がきらって、茂るにまかせてあるので、虫取草や矢車草がはびこっていた。手入れは祖母がしたそうだが、雑草を抜いたり、馬糞をいけさせたりする程度のものであるらしかった。石像の背後に、裏門と言ってはいたがりっぱな門があって、離れの玄関までの通路は野木瓜のからまった四つ目垣で仕切られていた。
園に面した部屋を花畑の部屋と言い、縁が高いのに濡縁もなく踏石もないので、一度腰をかけてから履物をはいた。西側の酒屋の住まいで二階に窓があった。その下にかなり大きい桃の木があった。実はめったにならないが土に埋れた種を拾いに行った。
あらゆる花が咲き誇っていた園も、兄が新婚のころには、いくらか衰えを見せはじめた。祖母は死んだし、朝裏草履をおろした父が、兄夫婦の庭さきに長くしゃがんで、花の手入れをすることもなくなったからである。」
鷗外は一月から、帝室博物館に勤務するようになる。庭の手入れは、当然のことながら難しくなり、庭への関心も薄れていったと思われる。
翌年以降の日記には、観潮樓の庭の開花についてはなにも触れていない。しかし、杏奴の『晩年の父』「思出」を読むと、鷗外は庭の植物に少しは手を入れていたようである。たとえば、次のような一節がある。
「それからほんの少し苺を植えたら、紅い小さい実がやっと三つだけなった。
それでも父はとても喜んで、小さいお皿にそれを入れ、お砂糖をかけて父と私と弟と三人で一つずつ食べたが、取りたての故か大変美味しかった。
今、世田谷の私の家でも、苺を作っては毎日のように食べているが、この時の三つの苺の思出は如何しても忘れられない。」
『大正八年日記』
この年、初孫誕生、長女の茉莉が結婚。『蛙』刊行、『帝諡考』の稿を起こすなど。三男・類が記したように、鷗外の体力の低下したことなど、花園などでの作業は日記に記されていない。花に関する記述は、以下の四つである。
三月
「二十九日。土。晴。寒。參寮。退後與子女看花于上野。」
四月
「七日。月。櫻花皆開。・・・」
「二十二日。火。見微看花會。・・・」
「二十七日。日。晴。観牡丹於山田晹之園。・・・」
その他、花に関連しそうな日記として、四月「十二日。土。晴。参寮。率妻孥往鶴見花月苑。・・・」がある。また、「七月一日。火。陰。放衛。率妻孥往小石川植物苑。・・・」。八月「二十四日。日。晴。蒸暑。與子女往植物園。・・・」。などがある。
この年、初孫誕生、長女の茉莉が結婚。『蛙』刊行、『帝諡考』の稿を起こすなど。三男・類が記したように、鷗外の体力の低下したことなど、花園などでの作業は日記に記されていない。花に関する記述は、以下の四つである。
三月
「二十九日。土。晴。寒。參寮。退後與子女看花于上野。」
四月
「七日。月。櫻花皆開。・・・」
「二十二日。火。見微看花會。・・・」
「二十七日。日。晴。観牡丹於山田晹之園。・・・」
その他、花に関連しそうな日記として、四月「十二日。土。晴。参寮。率妻孥往鶴見花月苑。・・・」がある。また、「七月一日。火。陰。放衛。率妻孥往小石川植物苑。・・・」。八月「二十四日。日。晴。蒸暑。與子女往植物園。・・・」。などがある。
『大正九年日記』
この年の鷗外の生活パターンは、ほぼ前年と同じである。『ペリカン』を訳載、『霞亭生涯の末一年』を連載など。
花についても、四月の一回だけ。
「十一日。日。晴。櫻花皆開。・・・」
この年、鷗外は、恒例の二十日の観桜会に出席しなかった。
この年の鷗外の生活パターンは、ほぼ前年と同じである。『ペリカン』を訳載、『霞亭生涯の末一年』を連載など。
花についても、四月の一回だけ。
「十一日。日。晴。櫻花皆開。・・・」
この年、鷗外は、恒例の二十日の観桜会に出席しなかった。