没年とその後

森鷗外ガーデニング  23
没年とその後

『大正十一年日記』
 この年、鷗外は六十歳。五月、病身を押して奈良に出張している。その為もあって、六月半ばから体調不良で在宅、七月九日死去。
 この頃になると、鷗外の庭は、かなり荒れていたものと思われる。それでも、庭には、以前植えた草木が花を咲かせ、家族に潤いを与えていたことは間違いない。また、鷗外のガーデニングへの関心もあったようだ。昔のように、「園を治す」と一日中庭の手入れをすることはできなかったが、時折、植物にふれていたと思わせる話がある。
 三月十一日の日記は、「土。晴。參寮。杏奴随来。」とある。鷗外は杏奴と一緒に図書寮に出かけた。
 その日のことについて、杏奴は、そこで沢山の勉強をさせられ、その後、父から散歩しようと誘われたことを記している。
「二人は庭に出て、人のいない裏の原っぱの方へ歩いて行った。短くすりきれた枯野原が広々と続いて、枯木がぽつんぽつんと立っていた。もう沈みかけた夕陽が白い建物の一部にうすあかい光を投げ、冷い風が野原の中を荒々しく走り廻っていた。
イメージ 1 父は大きい、灰色がかった外套を著て、ゆっくりゆっくり歩いた。
 不意に立ちとどまると、父はかくしから白い象牙の、いつもの洋書の頁を切る時に使う紙きりを出して土を掘りはじめた。乾いた土がぼろぼろと散った中に、小さな菫の葉が出ていたのだ。父の大きく震える白い手が、根ごと菫を採るのを私は見ていた。
 もうじき春が来る╶── 
 私はなんとなくそう思った。
 『家へ帰って、庭へ植えよう』
 父は楽しい事を打明けるような小さい声でいった。」(『晩年の父』小堀杏奴より)

 四月に入って、日記には、
「一日。土。晴。櫻花盛開。・・・」
「二日。日。晴。栽花東園。」
 一日、サクラの花が咲いた。これは鷗外の庭であろうか。翌日、東側の園、花壇だと思われる場所に花を植えている。どんな花かわからないが、花を植えているところを見ると、まだ、花への関心はなくなっていない。これが、日記に登場する最後のガーデニングである。次の日曜日は雨。その次の日曜日(十六日)、晴れると、鷗外は杏奴と類とともに小石川植物園へ歩いて行った。これも最後である。

 四月半ばの頃のことを杏奴は、『父の晩年』に記している。
「足袋をぬいだ素足に、太陽に暖まった板縁の感触が快く、海棠の花が一面に咲いていた。
 あの時とって来た菫の花も咲いた。
 私はうっとりとして近くの草花を手を伸ばして自分の方に引寄せながらいじっていると、葉の裏についていた虫の卵が指に着いた。」
 鷗外の病状は悪化していた。そのことは、茉莉の『父の帽子』「父の死と母、その周囲」に、
「四月頃から妹と弟とは食卓を別にされていた。六月に入ると、二人は親類の家に預けられた。そうして帰って来れば父は治っているのだと、言い聞かされていた。」と、記されている。
 さらに、五月三日の日記は、「水。雨。歩街。京人贈醃藏菜花・・・」。この日のことについて、杏奴は『晩年の父』に、「母から聞いた話」として、
「今日は雨が降ってお倉が開かないので、傘をさして、足駄をはいて、何処其処へ行きましたと言うような手紙が私や弟の所に大分来ている。時には近くの山へ行ったりして珍しい山の草花を押花にして送ってくれたりしていた。こんな事が体にいけないのは勿論の事であろう。」と、書いている。
 鷗外は、四月三十日、夜行列車で奈良へ、二日に正倉院。病気を押して出かけた先では、雨で正倉院が休みになったのを幸い、周辺を散策し珍しい草花を採っている。鷗外は、亡くなる二月前になっても、花に対する関心を持ち続けたいた。

『観潮樓、庭のその後』
 鷗外が亡くなった後、観潮樓の庭はどのようになったか。
 杏奴は、
イメージ 2「父の死んだ年、何時もそれほど花の咲いた事もない沙羅の花が一面に咲乱れて、石の上や、黒い土の上に後から後からそのままの形でいっぱい散った。
 母はそれを拾っては父の位牌に供えていたが、その翌年は既う枯れてしまって、どのように丹精してみても駄目になってしまった。」
 シャラノキに鷗外を重ね合わせていたのだろうか。
「父が気にして落ちるとは拾いに出ていた花が、その死と共に直ぐ枯れてしまったのを母はひどく心細がっていた。
 暫くして母と二人で散歩に出たら、夜店に思い掛けなく小さい沙羅の木の植わった盆栽があったので、それを少し離れた場所に植えて置いた。」
 庭は、残された母と杏奴、類によって少しは手が入れられていたようだ。
「父がいた時のように私は翌年も自分でカンナの花などを植えた。
 朝早く起きて、それでも華やかな色に露を含んで咲いたカンナの花を眺めて、僅かに心を慰めている十四の少女であった私の心持を、墓の中の父は解ってくれたであろうか?」
 と杏奴は、『晩年の父』に「思出」を綴っている。