「いけばな」成立期の花材

 「いけばな」成立期の花材                    
 『華道古書集成』『続華道古書集成』を中心にどのような植物が花材に使用されてきたかを見てきた。その他にも、『山科家礼記』のように数多くの花材が記された資料がありそうである。そこで、立花・生花が成立したとされる室町時代から探ることにした。
 なお、調べるのは花材の植物からであるため、様式や形態など本質にかかわるようなことについては検討できていない。そのため、異論や錯誤があるかもしれないし、見当違いもあり得る。『日本いけばな文化史』同朋舎出版、『図説 いけばな体系』角川書店などをもとに、目についた資料をもとに示すことにする。

『迎陽記』
 『迎陽記』は、東坊城秀長(暦応元年1338年~応永十八年1411)の日記である。日記によると、康暦元年(1379)六月九日に花御会、翌年六月十七日に花合、また、応永六年(1399)七月七日にも同様な会が催された。これらの記述には花合と瓶花合があり、花合から瓶花合へと移る時代の様子が認められる。注目された花器は銀・胡銅・真鐘・茶坑・茶坑染付、花台は淮紅・青漆など、いずれも唐物らしい最高級の品々が書き留められている。ここで気になるのは、花についてはまったく書かれていないことである。

『看聞御記(看聞日記)』
 『看聞御記』は、伏見宮貞成親王後崇光院)の日記で、応永二十三年(1416)より記されている。生花成立の資料として『看聞御記』には「花座敷」や「座敷飾り」などが記されている。中でも「花瓶」の記述は、生花に不可欠な存在であり重要である。そして、花が花瓶と共に賞翫されていることは確かである。しかし、『看聞御記』には、花瓶は道具としての記載が主で、花の種類についてはどのようなものであったかの記載が少ない。そのため、七夕法楽の花座敷がどのような形態であったか不明で、活花・花材という観点から見てはっきりとしたイメージが浮かんでこない。

『君台観左右帳記』
 『君台観左右帳記』(文明八年1476)は、室町中期の座敷飾りの秘伝書とされ、能阿弥や相阿弥が記したものとされている。美術工芸や茶華香道の基礎史料とされ、座敷飾りや道具類について書かれ、図も描かれている。ただ、異本が多くあり、その中には彩色された図を含むものまであり、内容についても様々な書き方がある。花瓶や双花瓶などに植物が活けられているが、大半は判別しがたい。一部の異本や資料(『古典中世芸術論』『図説 いけばな体系』)しか見ていないこと、花材や茶花という植物の視点からは何とも判断しがたい。

『山科家礼記
 『山科家礼記』は、山科家の家司大沢久守が記した日記で、久守は立花の名手とされている。記されたのは応永十九年(1412)から明応元年(1492)まで、なお、欠落している部分がある。生花に関連しそうな記述は、応永十九年二月十一日には「梅御会アリ一種一瓶面々御持参之間御方沙汰あり」と、花の種類が記されている。ただ、これを生花と言えるものか、以後も瓶に花を挿した記述はあるものの判断に迷う。なお、日記は応永十九年で切れ、寛正四年から続く。記述として、「立花」「たてはな」などがあるものの、いけばなの様相を示すような描写はない。また日記は、文明十三年(1492)に切れ、文明十八年(1486)から再び始まる。生花らしき様相が推測できるのは、長享二年(1488)年からとなる。久守は、植物を良く知っていたと見え『山科家礼記』に93種が記されている。そのうち、花材と推測できるのは80種である。それらの記述から、当時の生花(立花)の様子を知る上で貴重な資料である。

『道閑花伝書
 『道閑花伝書』は写本で、奥書に「道閑法師(花押)」が永正三年(1506)に相伝されたことから、『道閑花伝書』とされる。写本の書写は、寛永時代(1624~1645)が下限とされている。本書には、「たで花やつり花・柱かごの花・くさ花瓶など」が記されている。現存する古花伝書群の中で最古の花伝書ではないかと推測されている。 『道閑花伝書』には花材が百以上記されており、88種を現代名にした。花材についてその初見を調べると、永正三年(1506)以前に初見のある植物が大半を占めている。しかし、観音草(キチジョウソウ)・さき草(サギソウ)・沢ききやう(サワギキョウ)・仙人草(センニンソウ)・うづ(トリカブト)・ばれん(ネジアヤメ)・野うるし(ノウルシ)・美人草(ヒナゲシ)・水あをゐ(ミズアオイ)の8種は、永正三年以前に初見がない。この他にも不明なものがいくつかあり、この写本をそのまま花材の資料として信じるには問題がある。イメージ 1

『文阿弥花伝書
 『文阿弥花伝書』の筆者とされる文阿弥については、不明な部分が多い。生花の名手であったとされ、文阿弥と名乗る人物は2名ないし3名いたとされ、詳細な内容は把握していない。なお、棚飾りと三具足飾り座敷飾りの図があり、天文九年(1540)ころの飾りを示すものとされている。これらの絵から、生花(たてはな)の初期の形態を推測することができそうだ。植物の種類については、図からいくつかは推測できそうだが、確定は難しい。

花王以来の花伝書
 『花王以来の花伝書』は、奥書から明応八年(1499)に書写したものとされている。池坊家に伝来していることから池坊家に関連する人によるものと推測されるが、作者不詳とされている。文明十八年(1486)~明応八年までの相伝由来が記されていることから、現存する最古の花伝書とされている。彩色の花姿図43瓶、花に関する秘文と花形図が記されていることから、花材の植物名を判別できそうだか、どのような植物かについて記された資料をまだ見ていない。また、見ることの可能な絵からは判別しにくく、詳細な名前を確定することは少々難しい。

『宗清花伝書
 『宗清花伝書』は、花伝書の写本の中で最も古い書とされている。奥書は享禄二年(1529)とあり、三具足をはじめ、竹葉花・蓮花・中央花・風花・庭栽・釣花瓶・柱花など十五項目にわたり記されている。花材は、着彩の作品図に描かれているが、松、椿、柳、竹、蓮、著莪がなど数が少ない。植物名を探るには図が鮮明ではなく、十六世紀始めの花材を探る資料としては物足りない。

『仙傳抄』
  書頭に記されている「仙傳抄に就いて」に、「三条殿御秘本義政公依御所望文安二年(1445)三月廿五日富阿弥相伝」とある。その記載から、『仙傳抄』は、十五世紀中頃の花材例を示すものと考えた。『仙傳抄』に記されている花材を数えると70ほどあり、その68種を現代名にした。
  『仙傳抄』に登場する花材の現代名は、以上のような検討をもとに示した。さらに、それらの植物名について、『資料別・草木名初見リスト』(磯野直秀)の記載との矛盾がないかを調べ、十五世紀中頃の花材を示すものと考えて良いだろう。

 以上、『仙傳抄』以前の花材が記された資料を求めたが、参考になる資料は『山科家礼記』程度である。