『花譜』の不思議

花譜の植物名6
5『花譜』の不思議
 貝原益軒は、『校正本草綱目』の翻刻(1672年)のあと、『花譜』を1694年に作成している。『大和本草』(1709年)や『菜譜』(1704年)の前に作成している。『花譜』からの3書は同時進行であったかもしれないが、なぜ『花譜』が最初になったのだろうか。
 『花譜』と称することから、花の咲く植物について記したものと思うのが普通だろう。それに加えて、「実、葉、木だちなど」と鑑賞用植物にまで含めて、約二百種を選んでいる。何を基準に選んだのか。益軒の身近にあった植物から選定したものと推測する。当時の流行りの植物に限らず、栽培していたと思われる植物(「東浦塞牽牛花」や「唐杉」など)も、取り上げたように感じる。逆に身近になかったためか、アヤメ(アヤメ科)など当然記されても良い植物が『花譜』には抜けている。なお、『大和本草』には「紫羅襴花」(ハナアヤメ)の名で掲載されている。
 そこで、『花譜』に記されなかったが、『大和本草』には「花草類」の項で登場した植物を示すと、「敦盛・紫羅襴花・アハモリ・一花艸・首蓿・梅バチ・萱艸・黄莎・金絲梅・熊谷・紅黄艸・澤桔梗・紫花地丁・丁子艸・牡丹イハラ・金沙羅・金罌子・野薔薇・平江帯・フシ・ホトトキス・茉莉・紫萼・ヲカカウホネ」の24種がある。「敦盛」アツモリソウ(ラン科)や「熊谷」クマガイソウ(ラン科)など、栽培の難しい植物が『花譜』に抜けたのは、益軒が栽培していなかったためだろう。
 不思議なことは、現代であれば誰もが知っている植物、タンポポ(キク科)が記されていない。十七世紀には『四季草花図屏風』や『草花図屏風』などに描かれ、益軒も目にしていたと思われるが、庭に生育していなかったのだろうか。探し方が雑なのかもしれないが、『大和本草』の「菜蔬類」や「花草類」にはもちろん「雑艸」や「薬類」などにも名前を見つけることができない。
 また、『花譜』に記されなかった『大和本草』の「花木類」の名を示すと、「熊谷櫻・鳥ノ足・チシヤノ木・山ウツ木・水梔・ラウザイバラ・白山吹」の7種ある。
・「熊谷櫻」は「マザクラ」と仮名が振られている。『樹木大図説』にも名称はあるが、詳細は不明である。
・「鳥ノ足」は筑紫の方言とあるが、『牧野新日本植物図鑑』や『樹木大図説』などには記されていない。
・「チシヤノ木」はエゴノキエゴノキ科)とする。「山ウツ木」はタニウツギ、『樹木大図説』の記載による。
・「水梔」はヒトエノコクチナシ(アカネ科)とする。なお、現在の植木屋ではコクチナシと呼んでいる。
・「白山吹」はシロヤマブキ(バラ科)とする。

6「酴醿」について
 「花木類」の中で最も混乱するのが、「ラウザイバラ」別名「牡丹イハラ」である。『牧野新日本植物図鑑』に「ラウザイバラ」の記載はないが、トキンイバラ(バラ科)の別名としてボタンイバラが記されている。さらに、トキンイバラの漢名として「酴醿(ドビ)」を記している。次に『樹木大図説』を見ると、ボタンイバラの説明の中で別名「ラウザイバラ」がある。また、トキンイバラについても触れており、「ラウザイバラ」はボタンイバラの可能性が高い。しかし、『牧野新日本植物図鑑』によるボタンイバラが漢名「酴醿(ドビ)」であれば、『大和本草』の「花草類」にある「酴醿」と重複する。
  『大和本草』の「酴醿」は、「ドビ、ゴヤブキ、ときんいばら」とあり、「ヤマブキト訓スルハ非ナリ」とある。しかし、『花壇地錦抄』の「酴醿」には、「やまふき」と振られている。
 そこで、花伝書を見ると、『立花大全』(1683年)では「酴醿」に「やまぶき」と仮名が振られている。「酴醿」は、『立花正道集』(1684年)『抛入花傳書』(1684年)にも記されている。これらの書は、『花譜』より10年より前に刊行されている。当時の華道家は、「酴醿」と「やまぶき」の区別ができなかったのか、「酴醿」は「やまぶき」としていたのか、どちらであろうか。なお、『抛入花傳書』には、「酴醿」に「やまぶき」と仮名が振られ、「世に欵冬と書するは山に生ずる蕗のこと食類に用いる物也とぞ」とある。「欵冬」はヤマブキではないと断っている。
 「酴醿」をヤマブキとする記述は、『立花秘傳抄』(1688年)『立花便覧』(1695年)と続く。花伝書の中で「酴醿」について最も詳しく記したのは、『立花秘傳抄』である。『立花秘傳抄』は、富春軒仙渓(ふしゅんけんせんけい)によって記された『立花時勢粧』(りっかいまようすがた)八巻八冊の前半五巻である。「酴醿」の記述は、『本草綱目』を踏まえ、それまでの古書にも照らし合わせて以下のように解説している。
 「酴醿」は、『立花秘傳抄之二』の「通用物之部」に記されている。
 タイトル「酴醿」に「ヤマフキ」が振られている。その下に「祝言」「上中心にならす 順和名草の部に入」とある。
 「異名 棣棠花(テイトク) 地棠花(チトク)」
 「和名 かかみ草 面影草」
 「古歌」
 「古里の面影の夕はえやとめしかか見の名残ならまし」
 「おもかけをたかいにとめし鏡草忘れ衣の形見ならまし」
 「多識曰 欵冬(ニントウ)は蕗の臺(トウ)の事也然共古人萬葉集中におほく山吹を詠して欵冬の字を用ゆ。又明詠集是に同し。あやまりなりとぞ」とある。
 以上の『立花秘傳抄』の記述は、それまでの花道書の中で最も的確に「酴醿」を解説していると思う。著者・富春軒仙渓は、当時の立花の諸流派に与せず、独自のスタイルを創作していたとされている。その他の彼に関する情報はないものの、花材についての解説を見ると、文献に加えて実際に活ける中で性状を把握したと感じられる。花材の植物名は160程あり、「異名」「和名」などこだわりを持って(例えば、「立花名」「以古事記名」と添える等)記している。

7『花譜』と『大和本草』の植物名変更
 益軒の植物名の記述については、『花譜』と『大和本草』で変えている例が少なくない。たとえば、『大和本草』の「花木」だけでも、「彼岸櫻」は『花譜』では「小櫻」、「垂絲海棠」は「垂絲櫻」、「海棠花」、「棣棠」は「棣棠花」、「山茶」は「山茶花」、「石榴」は「石榴花」、「辛夷」は「辛夷花」、「空木」は「卯木」、「木槿」は「槿花」、「茶梅」は「茶梅花」、「瑞香」は「山礬花」、「紫荊」は「紫荊樹」、「下ツ毛」は「下毛」、「十姉妹」は「錦帯花」、「繍毬花」は「粉團花」、「木瓜」は「櫨」など、植物名の表記が異なる。当時使用されていた名称を優先するなら、『花譜』で「垂絲櫻」と記したものを『大和本草』で「垂絲海棠」とする必要があるか。必ずしも一貫した方針が見えないように感じる。『花譜』と『大和本草』とで植物名を変える理由は、どこにあるのだろうか。