伝統園芸の時代背景

伝統園芸の時代背景
 日本人が園芸(Gardening)を始めのは有史以前からであろう。それについて具体的な証明をするには、何時・何処で・誰が・何を・何故・どのように(技術等)していたかを示さなければならない。それも個別的な事例ではなく、総合的な視点から把握できることが必要となる。古事記万葉集などから園芸の様相を推測することはできるが、技術的な裏付けまで求めることはできない。最も古いのものとして『作庭記』をあげることができるが、植栽技術についての考察に関しての言及は少ない。
 以後にも園芸に関する書はいくつも記されるが、十五世紀までは新たな展開はない。そのような中で注目するのが、「立花」について記した『山科家礼記』である。花を活けた正確な日にち、場所、人、花の種類まで詳しく記されている。特に、花の使用頻度を知ることができ、もちろん個人的な嗜好も含まれるだろうが、当時の園芸の一面をかなり正確に把握できる。
 十六世紀になると、「花伝書」「茶会記(茶書)」などが記され、「伝統園芸」となる植物が成立する。対象とする植物の品種や栽培などについては、まだ「園芸」という概念でもって把握されていないが、そのような視点は成立していた。さらに進んで、「伝統園芸」が萌芽するのが十七世紀に入ってからである。では、「伝統園芸」がどのように成立していったか、その時代背景を見ることにしたい。

十七世紀の園芸(Gardening)を取り巻く事象
 どのような情況で園芸(Gardening)が行われていたか、日本での園芸書が書かれ始めた十七世紀について見てみよう。園芸が当時の社会情況の一部を表していることは言うまでもないが、かと言って世の中の主流ではなかった。政治、経済などの分類からすれば、園芸は娯楽(leisure)の中の、その一分野にすぎない。とはいえ、時代によっては世相を反映する事象として重要な位置を占めていた。江戸時代の園芸は、現代よりずっと社会的な役割や存在感が大きかった。
 ここで、園芸を娯楽・行楽などとの関連から位置づけする必要がある。園芸が娯楽として、当時の社会にどのよう受け入れられていたか。どのような人々によって、どのような広がりを持って、いわばその人気度を示したい。園芸は娯楽ではあるが、単なる娯楽にとどまらず世相を反映するものとして、さらには政治や経済などにも影響を与えていた。たとえば、園芸が将軍の趣味となれば、武家社会には当然のこと、下々の人々にも少なからぬ影響を与えるであろう。
 いつの時代もそうであるが、世の中の人口の大半を占める「大衆」は、食べることに困りさえしなければ、自然と娯楽を求め、遊び回るものである。戦乱に終止符が打たれ、飢えからも救われた、十七世紀の江戸時代は遊びが展開する、遊びの時代の始まりである。現代にまで続く様々な娯楽の原点は、この時代を源としている。特に園芸は、完成の域に達したかと思われるくらいのレベルに達していた。それは、日本の庭園や花道などを見れば明らかである。
 年表を見ればわかる通り、娯楽は大衆化し、その広がりの拡大を受け、幕府は干渉するがうまくいかず、むしろ翻弄される様が示されている。衆愚とは言うものの、面白い娯楽に身分の上下はない。たとえば、花を求める行楽活動は、始まりは上流階級の人々であったが、徐々に庶民の楽しみと化し、日本ならではの一大文化にまで成熟した。江戸の花見と東京の花見、どちらが優れた文化だろうか、比べてみれば一目瞭然である。                               
 江戸時代は園芸にとって恵まれた時代で、発展の後押しをするような流れがあった。特に政治的な動向に逆らわず、時流にのって園芸は独自の展開を見せた。築城は規制されていたが、庭園の造成はおとがめなしで、関心を庭や花に向かわせた。特に「生類憐みの令」などは、狩や釣などを制約したために、植物への愛好を自ずと押し進めた。また、生花や茶の湯への制約はゆるやかで、見せ物にしても植物の珍奇さは見逃された。
 以上のような社会情勢を踏まえ、園芸が展開した事象を「園芸書」の成立、「花道書」「茶書」、実際に生けられた茶花「茶会記」、造営された庭園、その他関連することなどを記した。
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