『花壇地錦抄』6草木植作様伊呂波分6

『花壇地錦抄』6草木植作様伊呂波分6
・「椿」は、他の植物にも増して挿木接木の詳細な説明があり、関心の高さがわかる。気になる記述は、「指木ハ切口を二つニわりたる所より根出ル」とあるが、枝を二に割って挿す方法は、現代ではあまり聞かない。実際に行ったのだろう。

・「なでしこ」では、「植て廿日ほど過て芽の出ルをつミ切すてたるよし大かぶニ成る也」とある。摘芯すると脇芽がでて、確かに花芽が増える。

・「梨子」(ナシ)は、「袋をしてつつミて置へし梨おちす」と、この頃から袋かけをしていたことがわかる。なお、「桃るひ」については袋かけの記述ではない。

・「蘭」は、説話のような語り口で、一般論を述べている。その中で、「せきだい又ハ鉢ニ植ル尤水ぬけの穴をほり」と、排水用の穴を開けていることがわかる。石台や植木鉢の底に穴が最初からあるのが当たり前の現在、当時は植木鉢にはなかったことがわかる。

・「くまがへ草 くされんげ」は、「消安草なり」と移植が難しいことを記している。
 なお、クマガイソウについては、植物名にいくつかの問題がある。「クマガイソウ」の植物名の初見は、『資料別・草木名初見リスト』(磯野直秀)では、『花壇地錦抄』とされている。この「クマガイソウ」は、『花壇地錦抄』本文中の「熊谷草」、「草木植作様伊呂波分」の「くまがへ草」を指していると思われる。しかし、『牧野新日本植物図鑑』にある「クマガイソウ」は、『花壇地錦抄・草花絵前集』(平凡社東洋文庫・江戸版)の解説によれば、本文中の「布袋草」であると説明している。それは、同書の『草花絵前集』に描かれた「ほてい草」の絵をもとに、判断しているようだ。
 「布袋草」の記載は、『花壇綱目』にもある。『花壇綱目』の植物名に対応する『牧野新日本植物図鑑』の植物名は、「クマガイソウ」とした。それは、『花壇綱目』の「布袋草」の説明文から推測したものである。なお、この後に記された「敦盛草」の説明に、「是は熊谷草と云」とある。となると、「敦盛草」は「熊谷草」とも呼ばれていたことになる。
 当時の認識として、『牧野新日本植物図鑑』の「クマガイソウ」は、「布袋草」や「敦盛草」と呼ばれていた可能性がある。どちらにしても混乱していたことは確かである。そこで気になるのは、クマガイソウの初見である。『資料別・草木名初見リスト』の判断は、『牧野新日本植物図鑑』のクマガイソウであるか否かとは関係なく、『花壇地錦抄』の字面だけで「クマガイソウ」の初見としてしていることになる。『花壇綱目』の「布袋草」と「敦盛草」の記述を見れば、どちらかがクマガイソウを指している。したがって、クマガイソウの初見は『花壇地錦抄』ではなく『花壇綱目』と考えられる。なお、『花壇地錦抄』の「熊谷草」は、アツモリソウの「うす白キ」とあるから、白色のアツモリソウの可能性があるものの、『牧野新日本植物図鑑』からだけでなく、他の植物図鑑からも該当しそうな植物を見つけられず不明とする。

・「ふづ草」は、「かづらなり」とある。本文中で推測できる植物として「ソクズ」がある。ソクズは、別名クサニワトコ(スイカズラ科)である。「ソク」を「ふ」と読み替えれば「ふず」となるものの、ソクズは蔓状の植物ではない。また、クズ(マメ科)の可能性もありそうだが、本文に登場していない。やはり、「ふづ草」がどのように植物であるかは不明。

・「藤」の記述で興味を引いたのは、「酒のかす根をほりて置へし」である。本当に効果があるものか、実践してみないとわからない。

・「きけうるひ」(キキョウの類)では、「三四寸ほど出たる時一寸ほど切すてたるよし」とある。「脇より数多め出て大株ニ成物なり」と花数が増えることを記している。これは確かなことで、現代でも行われている方法である。

・「菊のるひ」は、他の植物にも増して栽培について詳しく述べており、当時の関心の高さを示すものであろう。

・「深山しきみ」の記述に「分け木」がある。この「分け木」は、草花などの株分けに対応するものであろう。他の樹木では、株分けに対応する語として「分け木」を使っていない。なぜ「深山しきみ」だけに使ったか、特に意味があると思えない。

・「百合草るひ」(ユリの類)は、本文に37品も紹介しているだけあって、詳しく解説している。当時は「ゆりの根」球根を、「玉・とち・れんげ」と呼んでいたようだ。栽培で最も気をつけることは根腐れらしく、「花壇を地より少シ高クして」、「砂ハ水をふくむゆへニよろしからず」、球根を横にして「霖雨の時れんげへ水をふくまぬ」ようと注意している。これらは間違っているとは言えないものの、現代では問題もある。植えつけ位置を高くすると、近年の温暖化で高温になり枯れる危険がある。ユリは水はけの良い土が適しており、現代の園芸書では砂壌土を薦めている例が少なくない。また、球根は横に寝かせると良いとあるが、園芸書の球根を植えた断面図を見ると、大半が縦に植えてある。
 ユリの根は、球根の下に出る下根と球根の上に出る上根がある。上根は水分や養分を吸収する役割を担い、下根は球根上部の茎や葉・花を支えるために役立っている。当時のユリは、花の付いた苗を売っていたらしく、上根から上部の部分だけを「売やから多シ」と記している。球根がなければ翌年芽を出すことはないので、切り花と同じでユリを購入する際の注意をするようにと記している。

・「芍薬」では、「花のちりたるあとの草立をねぢまけて置たるよしといふハ霖雨之節水のつたわりて根へゆかぬといふ義なれ」との対応方法が言われているのに対し、「基まま置くたるがよし」と否定している。

・「もくせい」で気になったのは、ヒイラギに接ぐと記されたことである。モクセイ(キンモクセイ)の増殖は、現代では挿木が大半だと思われるが、当時は接木や取木もかなり行われていたのであろう。モクセイは渡来樹で珍しく、貴重な樹木として取り扱われていたためであろうか。

・「せきせう」(セキショウ)は、「指南」と添えて書くくらい熱が入っている。「せきせうハたくさん成物にして」と、当時は数多くの種類があり人気があったと推測される。だが、現代では、セキショウ(ショウブ科)を栽培する人はマニア、それも一部の人に限られている。セキショウと言えばニワゼキショウ(アヤメ科)を思い浮かべる人が多いのではなかろうか。
 ここに記されている「せきせう(石菖)」は、『牧野新日本植物図鑑』によれば「渓流のふちに多くはえる多年性常緑草本」である。細い葉に白、黄、淡黄などの縦斑を観賞する植物で、その種類は現代でも数多い。現代でも一鉢、一万円を超える売買が行われている。当時は、それ以上の金額で取引されていたのかもしれない。解説に「鎌倉せきせう」「からせきせう」「こけらせきせう」などの品名が記されているが、不勉強もあってかどのような植物かわからない。
 高価なセキショウはわからないが、セキショウは栽培の容易な植物で、極度の乾燥さえさせなければ枯れることはない。にもかかわらず、個々に詳細な点に触れて指示しているところを見ると、要請があったものと考えられる。そして、ユリと同様に「吟味有べし」と、購入にあたっての注意を記している。

・「水仙花」は、人気があったと見えて比較的詳しく解説している。気になる記述は、「土地によりてつくりにくき物なり」である。スイセンは栽培が容易で、日当たりさえ良ければどこにでも植えられる植物と認識している。しかし、著者は実体験から述べているのだから、確かなのだろう。
 当時のスイセンは、切り花としての需要が多く、京都や江戸で売られていたようだ。その生産地は、京都が駿河、江戸が房州と記されている。事実だとすれば、徒歩では日帰りできる距離ではない。当時の花卉生産地は、かなり広範囲になっていたものと推測される。そして、スイセンは「武江わたりで植作レバ花わづか数寸ニ出てしかもかぢけてわるし」とある。武蔵の国(江戸近郊)で作れば、草丈は短くなり花も悴んで悪い、と酷評している。以上は植栽方法の話とは異なるものの、当時の園芸事情を語ってくれる重要な記述である。