江戸庶民の楽しみ3 見世物と歌舞伎

江戸庶民の楽しみ 3
★見世物と歌舞伎
・元和五年(1619年)五月、武家屋敷に町人・浪人の居住を禁止する。
 ○西久保八幡宮境内に「時の鐘」できる。

・元和六年(1620年)三月、米倉を浅草に築造する。
 六月、秀忠の娘・和子は、後水尾天皇の女御として入内する。徳川家にとって天皇家との縁組みは、なによりの権戚付けとなった。元和九年(1623年)、皇女・女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する。
 七月、庶民の捨子を禁止。
 八月、北七大夫、御成橋門外で勧進能興行を行う。
 九月、山形城主最上源五郎、妓を乗せて舟を操り、船手の水主と争論、逃げ帰る。
 十二月、将軍、江戸近郊各所で鷹狩を行う。
 ○朝鮮より金魚が初めて輸入される

・元和七年(1621年)二月、観世太夫が、勧進能を桜田の御成橋で興行する。
 一月、大火、大名邸の多くが焼失する。
 ○諸国に伊勢踊流行する。

・元和八年(1622年)二月、喧嘩争論の場に集まること禁止する。

・元和九年(1623年)二月、武家屋敷に町人・浪人を居住させることを禁止する。
 四月、徳川家光征夷大将軍となる
 
 元和五年(1619年)と元和九年に、武家屋敷に町人と浪人の居住を禁止し、違反者は宅地没収という重い刑を課した。これは、江戸から反社会的な反逆分子を一掃しようとするものである。この頃の江戸の町には、武士と町人がかなり混在して住んでいたのだろう。なお、ここでいう町人とは、町の人口の圧倒的多数を占める下層の人々を指す。浪人とは、所領や俸祿を持たない侍である。ちなみに、幕府が対象とする「町人」とは、厳密には地主や家持、大家程度までである。武家屋敷に寄生したり、店借人(店子)などの庶民は、「町人」とは考えていなかった。
 そのような町人(ここでいう庶民)が、気軽に行える娯楽として最も人気があったのは、見世物であろう。歌舞伎を見世物を同列と論じたら、現代では顰蹙を買うかもしれない。でも江戸時代の初めの頃は、似たような出し物として受け取られていたようである。違いは、色気に誘われるか、好奇心が先にあるかというくらいだろうか。では、当時の歌舞伎と見世物の状況を覗いてみよう。江戸で初めて見世物の興行が行われたのも、この元吉原においてであった。遊里は同時に盛り場でもあったわけだが、歌舞伎と他の見世物との間に、まだきちんとした区別がなく、同じ場所で、一体化した出しものとして演じられていた。
 繰芝居と見世物が寛永九年(1632年)、一緒に中橋から禰宜町に移されているように、初期の歌舞伎と見世物芸とは交流が深かった。芸においても、慶安四年に江戸城に呼ばれた歌舞伎の猿若勘三郎らが、軽業や曲芸も一緒に演じるというような、渾然とした状況だった。これは十七世紀頃はまだ、歌舞伎と見世物の芸態が近かったということ、また、歌舞伎の座元が放下師(後述)である場合が少なからずあったということに由来している。
 放下師について説明すると、見世物や歌舞伎などの興行は、もともとは鎌倉時代勧進興行(社寺の造営や修理などの募金をするため)から発生したものである。なお、当時の勧進興行では、もっぱら勧進田楽が行われていた。この勧進田楽を演じる田楽法師のなかに、田楽付属の雑伎の一種であった輪鼓や品玉を演じる法師がいた。これら法師たち、またはその弟子たちが、曲手鞠や筑子の二曲と幻戯などの芸を加えて、寺社の境内や辻々で興行をした。そのような芸をする僧を放下僧(放下師)といい、この僧が演じた曲芸や軽業を放下と呼んだ。
 江戸時代になって、元吉原を賑わした芸能には、能や歌舞伎とともに勧進舞、蜘蛛舞、浄瑠璃などがあり、のちに見世物と呼ばれる様々な芸が一緒に演じられていた。たとえば、寛永五年に中橋の猿若座で起きた火事には、放下師小屋(見世物小屋)が七軒類焼したという記録が残っている。ことから、見世物も小芝居の格で興行していたのだろう。
 軽業の演技者にしても、放下師だけではなく、若衆歌舞伎の役者ではないかと思われる者も出ていて、初期の頃はかなりの交流があった。たとえば、「縄たらし」という幻戯は、舞台上に役人と盗賊に扮した者が登場し、曲が始まり追いつ追いかけられつした揚句、役人が盗賊を捕まえて縄で縛り上げる。そして、それを掛け声と同時に、見事に解けるというもの。これなど見方によっては、芝居の方に比重を置くこともできる。
  また、演技の創作者は、放下師だけではなく、武士が関わっていたこともあった。たとえば十七世紀の末に流行った軽業の一種である「人馬」は、馬術家が考案したと伝えられている。
 この放下師などによって演じられていたのは、蜘蛛舞(綱渡り、とんぼ返り、竿登り等)、幻戯(縄切り、手品等)で、能や歌舞伎とともに小屋を並べることのできる比較的品のよい芸であった。たとえば品玉は、玉を二つ三つ宙にあげて回す(お手玉)なかに菅笠をまじえ、さらに、見物人から脇差を借りて、その小刀を二、三振りも加えて行うものである。
 他にも、鎌鍬刀など鋭利な刃物をお手玉のように放り投げるなど、観客が手に汗握る緊迫感のある演出であった。また、縄を刀で幾筋にも切断し、切り口と切り口を結び、その縄の塊を観客側に投げると、いつのまにか切り口の無くなって元の長い縄になるという技など、演者と観客との心理的な距離を縮める工夫も見られた。
 小屋掛けの見世物とはいえ、芸の完成度は高かった。「緒小桶の放下」は、現代の手品(マジック)である。小さな底の空いた桶から、人形、雁、鳩、籠や行燈、果ては生きた牛までを取り出して舞台を三周させる、観客を仰天させるような芸もあったという。
 見世物を見に来る客の大半は、遊里を訪れる人々であり、その多くは能や歌舞伎と大差ない感覚で見世物を見ていた。見物料については断定できないが、近くで興行していた歌舞伎の料金から推測して、安札の百文程度であっただろうと考えられる。しかし、当時は、歌舞伎でさえも客の入りで見物料が上下していたくらいだから、小芝居として扱いも軽い軽業等の見物料は、その都度変わったのではないか。
 場所については、寛永十年(1633年)が日本橋堺町に、また、正保元年(1644年)に京橋木挽町でも芝居興行が許された。見世物の小屋は小芝居格で許可され、延宝年間(1673~81年)には両町で五カ所ほどに増えている。ただ、軽業や曲芸を演じる見世物(技芸見世物と分類する)は、歌舞伎などに比べると、見た目の華やかさや変化が少なく、台頭してきた町人を長く満足させうるものではなかったようだ。したがって、十八世紀頃になると、放下師の人気はすたれ、かわって彼らの中から、辻放下といわれる大道芸者が出てきた。