江戸庶民の楽しみ 4
★遊びの楽しさを知る庶民
★遊びの楽しさを知る庶民
・寛永元年(1624年)十一月、諸侯が江戸に妻子を置く。
○明石志賀之助が寄相撲と称し六日間の興行(江戸勧進相撲の始め)を行う。
○諸国に流行の伊勢踊を禁止する。
○目黒村の龍泉寺不動・行殿建立する。
○葭原廓を吉原の字に改め、遊女の年季を10年とする。
○人馬と軽業の興行を停止。
○阿弥陀踊が流行する。
・寛永五年(1628年)三月、金春流、浅草で勧進能興行する。
四月、猿若座の火事で放下小屋7軒類焼する。
六月、京の楽人、城内西の丸で舞楽を演奏する。
七月、大地震。
○女かぶき処々あり、高輪大木戸の女舞「あつま」流行る。
○辻斬り横行する。
○阿弥陀踊が流行する。
・寛永五年(1628年)三月、金春流、浅草で勧進能興行する。
四月、猿若座の火事で放下小屋7軒類焼する。
六月、京の楽人、城内西の丸で舞楽を演奏する。
七月、大地震。
○女かぶき処々あり、高輪大木戸の女舞「あつま」流行る。
○辻斬り横行する。
・寛永六年(1629年)二月、水戸藩主徳川頼房、小石川に泉水(後楽園)を造営する。
三月、辻斬り取締に辻番所を置く。
六月、目黒の滝不動の霊験あらたか上旬より急に民衆が集まる。
七月、北七大夫、浅草で勧進能興行する。
十月、女浄瑠璃・女舞・女歌舞伎、風紀上の理由から禁止する。
○盗賊に備え町々に木戸を設ける。
三月、辻斬り取締に辻番所を置く。
六月、目黒の滝不動の霊験あらたか上旬より急に民衆が集まる。
七月、北七大夫、浅草で勧進能興行する。
十月、女浄瑠璃・女舞・女歌舞伎、風紀上の理由から禁止する。
○盗賊に備え町々に木戸を設ける。
・寛永九年(1632年)四月、繰芝居・見世物を中橋から禰宜町(後の人形町)に移される。
五月、大番・書院番・花畑番等の番士に喧嘩口論・結党禁止等の触れ。
六月、将軍、江戸城厩下の堀で水泳をする。
○『武州豊島郡江戸庄図』出版
五月、大番・書院番・花畑番等の番士に喧嘩口論・結党禁止等の触れ。
六月、将軍、江戸城厩下の堀で水泳をする。
○『武州豊島郡江戸庄図』出版
・寛永十年(1633年)二月、②奉書船以外の海航が禁止される。
三月、六人衆(後の若年寄)が定められる。
六月、富岡八幡宮が造営され、猿楽喜多七大夫が勧進能を興行する。
六月、大雨で千住・浅草あたり洪水となる。
七月、人身売買等の禁止の高札が立てられる。
○湯女風呂が流行する。
○都伝内が免許を得て、堺町で芝居興行をする。
○中村座で「小舞踊り(猿若のおどり)」大に持囃される。
三月、六人衆(後の若年寄)が定められる。
六月、富岡八幡宮が造営され、猿楽喜多七大夫が勧進能を興行する。
六月、大雨で千住・浅草あたり洪水となる。
七月、人身売買等の禁止の高札が立てられる。
○湯女風呂が流行する。
○都伝内が免許を得て、堺町で芝居興行をする。
○中村座で「小舞踊り(猿若のおどり)」大に持囃される。
・寛永十一年(1634年)二月、城内で猿楽を町人に観覧させ、銀五千貫文を施与する。
三月、堺町に村山座を開場、歌舞伎芝居を興行する。
三月、王子権現の造営が命じられる。
七月、琉球使節、将軍に拝謁する。
八月、譜代大名の妻子を江戸に移す。
○当年より山王権現御祭礼備り大祭礼と成る。
三月、堺町に村山座を開場、歌舞伎芝居を興行する。
三月、王子権現の造営が命じられる。
七月、琉球使節、将軍に拝謁する。
八月、譜代大名の妻子を江戸に移す。
○当年より山王権現御祭礼備り大祭礼と成る。
寛永年間に入ると、中村勘三郎が猿若座を創建し、明石志賀之助は寄相撲と称して四谷塩町で六日間の興行をするように、庶民の楽しむ機会が多くなる。猿若座は、常設歌舞伎劇場の始まりで、中村勘三郎が座元となり興行を始めている。オペラは、国王や宮廷の有力者がパトロンとなり、演劇に大きく関与していた。それに対し、歌舞伎は幕府・大名の規制はあるが内容の充実に関わることはなく、これが西欧と最も異なることだ。庶民が実質を握り楽しむ社会、そのような仕組みが江戸時代の初期から始まっていた。
寛永二年(1625年)、京より下った幾島丹後が中橋で若衆歌舞伎を初興行する。この若衆歌舞伎は、前髪をつけた少年(若衆)によるもので、好色な歌や踊りを見せたようだ。美少年が売物で、男色などる風紀上悪影響があるとして承応元年(1652年)禁止となる。このようなお上の制約は多々あるものの、庶民は手を変え品を変え、臨機応変に形態を変えて対応できたことに注目したい。
寛永四年(1627年)、庶民の間で阿弥陀踊りが流行する。寛永六年(1629年)には目黒の滝不動が霊験あらたかとの風評が立ち、大勢の人々が出かけた。こうした例からもわかるように、庶民の行楽活動がしだいに目立つようになってきた。
寛永八年(1631年)、町人を取り締まる(司法・行政・警察)町奉行が設置された。それによって庶民の遊びがすぐに制約されたようではない。では、町人に対する幕府の対応はどうであったか、これは不思議なくらい甘かった。三代将軍家光は、寛永十一年(1634年)、手始めに江戸の主な町の町人を城内の庭に集めて、銀五千貫を配った。これは上洛の際に、京の人々を懐柔する意味もあって、銀貨を配ったが、それが思った以上に成果をあげたことによるもの。
幕府の土台も固まり、上洛もうまくいったとあって、将軍家光は上機嫌だったようだ。むろん、誰にでもくれたわけではない。江戸に20年以上居住していること、世帯主であること、などいくつかの条件はあった。それでもかなりの数の町人が恩恵にあずかったようだ。もらった町人の喜び様といったらなかった。湯島や浅草あたりでは、町総出で金をもらった祝いを何度も行い、「土人年中遊楽して絋歌の声絶えざりしとぞ」と書かれるほどの大騒ぎだった。このような町人の勝手にお祭騒ぎをすることが黙認されたのは、江戸時代ならではのことで、西欧都市ではあり得ないことである。
また、この年から正式に始まった「お能拝見」のイベントも町人を喜ばせた。場所は江戸城内大広間の舞台。その上、観世、金春、宝生、喜多の四座の能役者が総出演という豪華さ。演目は華やかで名の通ったものが選ばれたが、これも町人への配慮だろう。時間は午前八時から、昼夜入れ替え制でだいたい夜の九時ごろまで。酒や折詰も支給され、いいことづくめだ。ここまでサービスしてもらえば、よほどのへそ曲がりでもないかぎり、徳川贔屓になっただろう。
では、招待された町人はコチコチに畏まっているかと思えば、そうではなかったらしい。奇抜な衣装で現われる者、銀製の徳利を持ちかえろうと奪い合いになる者。世話係の役人に無理な注文をつける者、果ては雨傘片手に住吉踊りを踊りだしたり、休憩時間に得意芸を披露して喝采を浴びる者が・・・と。無礼講状態。意識としては物見遊山に出かけるのと大差なかったようだ。将軍もそんな町人の様子をニコニコ顔で見守っていたというからおもしろい。しかも、こうしたありがたいイベントは一回限りではなく、寛永二十一年の二代将軍秀忠十三回忌の法要など、折々に催している。
寛永二年(1625年)、京より下った幾島丹後が中橋で若衆歌舞伎を初興行する。この若衆歌舞伎は、前髪をつけた少年(若衆)によるもので、好色な歌や踊りを見せたようだ。美少年が売物で、男色などる風紀上悪影響があるとして承応元年(1652年)禁止となる。このようなお上の制約は多々あるものの、庶民は手を変え品を変え、臨機応変に形態を変えて対応できたことに注目したい。
寛永四年(1627年)、庶民の間で阿弥陀踊りが流行する。寛永六年(1629年)には目黒の滝不動が霊験あらたかとの風評が立ち、大勢の人々が出かけた。こうした例からもわかるように、庶民の行楽活動がしだいに目立つようになってきた。
寛永八年(1631年)、町人を取り締まる(司法・行政・警察)町奉行が設置された。それによって庶民の遊びがすぐに制約されたようではない。では、町人に対する幕府の対応はどうであったか、これは不思議なくらい甘かった。三代将軍家光は、寛永十一年(1634年)、手始めに江戸の主な町の町人を城内の庭に集めて、銀五千貫を配った。これは上洛の際に、京の人々を懐柔する意味もあって、銀貨を配ったが、それが思った以上に成果をあげたことによるもの。
幕府の土台も固まり、上洛もうまくいったとあって、将軍家光は上機嫌だったようだ。むろん、誰にでもくれたわけではない。江戸に20年以上居住していること、世帯主であること、などいくつかの条件はあった。それでもかなりの数の町人が恩恵にあずかったようだ。もらった町人の喜び様といったらなかった。湯島や浅草あたりでは、町総出で金をもらった祝いを何度も行い、「土人年中遊楽して絋歌の声絶えざりしとぞ」と書かれるほどの大騒ぎだった。このような町人の勝手にお祭騒ぎをすることが黙認されたのは、江戸時代ならではのことで、西欧都市ではあり得ないことである。
また、この年から正式に始まった「お能拝見」のイベントも町人を喜ばせた。場所は江戸城内大広間の舞台。その上、観世、金春、宝生、喜多の四座の能役者が総出演という豪華さ。演目は華やかで名の通ったものが選ばれたが、これも町人への配慮だろう。時間は午前八時から、昼夜入れ替え制でだいたい夜の九時ごろまで。酒や折詰も支給され、いいことづくめだ。ここまでサービスしてもらえば、よほどのへそ曲がりでもないかぎり、徳川贔屓になっただろう。
では、招待された町人はコチコチに畏まっているかと思えば、そうではなかったらしい。奇抜な衣装で現われる者、銀製の徳利を持ちかえろうと奪い合いになる者。世話係の役人に無理な注文をつける者、果ては雨傘片手に住吉踊りを踊りだしたり、休憩時間に得意芸を披露して喝采を浴びる者が・・・と。無礼講状態。意識としては物見遊山に出かけるのと大差なかったようだ。将軍もそんな町人の様子をニコニコ顔で見守っていたというからおもしろい。しかも、こうしたありがたいイベントは一回限りではなく、寛永二十一年の二代将軍秀忠十三回忌の法要など、折々に催している。