★徐々に盛んになる庶民の遊び

江戸庶民の楽しみ 5
★徐々に盛んになる庶民の遊び
寛永十二年(1635年)五月、日本人の海外渡航・帰国禁止となる。
 六月、山王権現祭礼、上覧あり。
 六月、参勤交代が制度化する。
 十月、将軍、板橋で鹿狩、捕獲鹿五百余頭を大名や町人に分賜える。
 十一月、寺社奉行が設置される。
 ○薩摩小平太、堺町で人形芝居興行し好評。
 ○風呂屋(丹前風呂)繁昌し吉原が衰退する。

寛永十三年(1636年)一月、江戸城の層構が完成する。
 六月、寛永通宝を鋳造する。
 ○上野寛永寺で観桜が催される。
 ○村上座で「取角カ砂子踊」を興行する。
 ○井之頭弁財天社が建立

寛永十四年五月(1637年)、江戸に風流囃子物流行する。
 八月、将軍、近臣に猿楽・囲碁・将棋・射的をさせる。
 十一月、島原の乱が起る。
 十二月、風呂屋に置く女を一軒三人に制限(違反した吉原大門内の風呂屋磔刑)する。

寛永十五年(1638年)春、杵屋勘五郎の『酒呑童子』評判で前年より引続き興行する。
 四月、幕府が沢庵のため東海寺を建立する。
 夏より翌年にかけて、伊勢参りに出かける者が増加する。
 十月、品川・牛込に薬園が開かれる。
 ○虎屋喜太夫、堺町にて説教浄瑠璃を興行する。

寛永十六年(1639年)三月、中村座で『横笛』『貴船の道行』大当たりする。
 五月、旗本に奢侈禁止の遵守通達
 六月、山王権現祭礼催される。
 七月、鎖国の完成(南蛮船入港禁止)。
 ○吉原の遊女屋が、湯女風呂で遊女に売春をさせ処罰される。

寛永十七年(1640年)六月、髪結職に町奉行が鑑札を与える。
 九月、毛利家品川御殿に家光を茶に招き、その後二十日にわたり庶民が群衆する。
 ○吉原の夜間営業禁止、昼見世となる。
 ○芝居町小芝居で『飛騨踊り』『ひんだ小唄』大当たり。
 ○禰宜町の放下師喜七芝居より出火する。

寛永十八年(1641年)三月、慶長以来の大火(木場が日本橋から深川へ移転)
 六月、山王権現祭礼催される。
 八月、将軍長男家綱誕生の慶賀に慶宴・猿楽は良いが風流踊りなどは禁止

寛永十九年(1642年)二月、浅草観音堂焼失する。
 三月、山村小兵衛が京橋木挽町狂言座「山村座」を建てる。
 三月、寛永の大飢饉、窮民に粥を施す。
 八月、飯田町の相撲見物で徒士と町人が喧嘩、双方とも処罰される。
 十一月、歌舞伎狂言女形禁止。
 ○『あずま物語』刊行(初の吉原細見記、遊女987人)

寛永二十年(1643年)六月、山王権現祭礼催される。
 八月、深川富岡八幡宮の祭礼が始まる
 九月、大名火消し任命される。
 ○土地永代売買の禁止令
 ○『あづまめぐり』刊行

寛永二十一年(1644年)一月、秀忠十三回忌、城内で猿楽を催す、町人の観覧を許し、折櫃物ヲ下賜する。
 一月、竹木の植殖と山林の繁山を奨励する。
 二月、大山参りで、布団を重ねて馬に乗ることを禁止する。
 五月、家光、隅田川で鵜飼を見る。
 八月、江戸城で風流踊開催(家光三男の綱重誕生祝)する。
 ○京橋木挽町に岡村長兵衛(二代目より村山長兵衛座と改め)の芝居始まる。
 寛永年間○浄瑠璃語、説教語、人形廻し等、京・大坂より下る。 
 ○貴賤鶉を飼い、椿を弄ぶ              
・正保一年(1644年)十二月、幕府が国郡絵図・諸城図の作成命ずる。

・正保二年(1645年)四月、家綱元服の祝儀に城内で猿楽能、町人の観覧を許す。
 六月、山王権現祭礼催される。
 七月、辻番の増設が命じられる。
 十月、男女打ち交わりの狂言を禁止する。
 十二月、日本橋富沢町から出火吉原全焼する。
 ○風呂屋に女を抱え、客を宿泊させることを禁止する。 
 ○芝神明社で、江戸初めての宮芝居が行われる。

・正保三年(1646年)三月、凧(タコ)遊びを禁止する。
 四月、島津光久下屋敷で犬追物を再興させる。
 五月、中村座(元猿若座)に桟敷ができる。
 ○勝山、丹前風呂の湯女となる。

・正保四年(1647年)三月、隅田川木母寺梅若塚・浅茅原妙喜庵に参詣者群集する。
 三月、十八日の浅草寺縁日に参詣者群集する。
 六月、山王権現祭礼催される。
 六月、猿楽の役者等に家業の古法を守り衣食住の倹約を示達する。
 六月、蹴鞠名手外郎右近、禁制の曲足を行い、飛鳥井家から訴えられ大島遠島となる。

・慶安一年(1648年)二月、勧進相撲、辻での鞠蹴りや宝引、川端での的射等を禁止する。
 二月、町人の伊勢参・大山参における、華美な服装などを禁止する。
 二月、町人に衣服は絹紬、刀、脇差しは美麗に作らないことを示達する。
 四月、市中の湯女を禁止する。
 五月、公卿・門跡を城内に招き猿楽を催す(町人も観覧許され折櫃下賜される)。
 五月、端午の節句に華美な作り物を禁止する。
 五月、売太女の取締り、辻相撲の禁止、衆道、若衆狂いを禁止する。
 六月、川辺以外での花火、辻相撲を禁止 
 ○浅草寺五重の塔建立する。
 ○河原崎権之助河原崎座創設する。

・慶安二年(1649年)二月、雛遊びの道具の華美を禁止
 二月、『慶安の御触書』制定。
 三月、浅草三社権現祭礼(老中堀田の若党が喧嘩)催される。
 五月、城内で猿楽観覧、食事や青銅100疋が下賜、3千人群集する。
 六月、山王権現祭礼、神輿に副従する者へ触れ。        
 七月、町人の盆踊は賑やかにしてよいが、喧嘩・争論を禁止する。
 九月、下谷新町の売太女を取締る。

 江戸の人口は、慶長年間(1596~1615年)に比べ寛永年間(1624~44年)末頃には30~40万人と倍増していた。これには寛永十一年(1634年)に譜代大名の妻子等を江戸に住まわせたことにもよるが、それ以上に町人層の増加が効いている。江戸の町は、徐々に勢いを増し、京や堺を凌ぐようになっていく。そうした中で町人たちが遊ぶようになったというのは、彼らの生活が豊かになったことを如実に反映したものである。
 でもまだ、この時期の幕府は、町人の日常のささやかな行楽に対しても、理解を示している。たとえば正保四年三月、隅田川木母寺梅若塚や浅茅原妙喜寺に参詣者が集まっているのを知った将軍は、庶民がこのようにのびやかに遊んでいるのは「苛政」が行われていない証拠だと言って、喜んだ。またその年は、浅草寺の縁日が多く、参詣でごったかえすという理由で、将軍は浅草周辺で予定していた狩りをわざわざ麻布辺に変更するという、驚くべき配慮を見せている。
 むろん、これには、古くから住んでいる人や家主・町役人のような有力者を囲い込みたいという政策上の理由もあったのだろう。が、それと同時に将軍家にも政権が安定してきたという安堵感があり、それがお膝元に住む町人対して、気前のよい態度を取らせたのかもしれない。
 もっとも、娯楽には縁の薄かった町人に、こともあろうに幕府がそのおもしろさを教えてしまったという側面も否定できない。お上から与えられる、たまの楽しみで満足しているうちはいいが、町人も力をつけてくると、その程度の遊びでは満足しなくなります。当時は予想もしなかったであろう、江戸中期以降の町人の盛んな遊びっぷりは、実は幕府自身が種をまいた結果と言えなくもない。
 実際、町人の楽しむ様子を余裕をもってながめていられたのは、そんなに長い期間ではなかった。間もなく、町人が贅沢したり、風紀を乱したりすることを厳しく取り締まる時期がやってくる。
 慶安元年二月に出された市中取締り令には、カルタや賭け事等の禁止とともに、辻相撲や辻での鞠けりを禁止している。伊勢参りや大山参りについては、華美な風俗は禁止しているものの、行くこと自体は禁止していない。同じ年に相撲取の下帯に絹布着用を禁止したように、とにかく「贅沢」をしないようにとブレーキをかけている感がある。逆に贅沢さえしなければ少々のことは大目に見ようということか。これは慶安二年七月に「町人の盆踊りは賑やかにしてよいが、喧嘩・争論をしてはならぬ」という触が出ていることでも分かる。