★幕府の思惑も絡んだ芸能界の既得権争い

江戸庶民の楽しみ 8
★幕府の思惑も絡んだ芸能界の既得権争い 以下の一部に問題となる語句・表現があるが、元資料やその背景を鑑み、そのまま使用している。
・寛文五年(1665年)一月、森田座で『曽我』大評判となる。
 二月、日傭座が設立される
 四月、大和守邸で操り『祇園の本地』上演する。
 五月、町中で男伊達若者の無法を取締る。
 六月、町中での花火遊び禁止、辻立、辻鞠・辻相撲を禁止する。
 七月、猿楽金春、本所で4日間能興行をする。
 七月、結城孫三郎、葺屋町に操人形座免許、興行する。
 十月、出家・山伏・行人が在家を借り仏壇を構えての人集めを禁止する。
 十月、市村座で『梅が妻』大当たり。
 十一月、町中の売太女を新吉原町の者に検索させる
 ○神田明神社境内に玉川久三郎座が設立する。
 ○市中一般の銭湯が徐々に盛んになる。
 
寛文六年(1666年)二月、幕府、諸国山川掟を定める。
 五月、市村座で玉川千之丞『忍び車』の所作事又々大入り。
 六月、山王権現祭礼催される。
 六月、町人の素人芝居禁止する。
 七月、吉原で喧嘩した罪により、表坊主(オモテボウズ)四人が斬刑となる。
 七月、将軍、二の丸で花火を観覧する。
 九月、伊勢大掾座で薩摩浄雲浄瑠璃大入り。
 十月、雇月行事が禁止される。
 十一月、博奕の御家人らが処刑される。
 十二月、大和守、新芝居玉川主膳座へ見物に遣わす。
 ○中村惕斎『訓蒙図彙』刊行する。
 ○雑司ヶ谷鬼子母神の堂舎造営、参詣者多くなる。
 ○中村勘三郎、芝居で総踊を始める。
 
・寛文七年(1667年)二月、本所で金剛太夫頼佑、四日間の勧進能を興行する。
 三月、中村座で『太平惣踊』長唄出ばやし大当たり。
 六月、流行正月を祝う。
 七月、正月の門松を禁止する。
 十一月、端午の節句の飾物や雛祭の調度の華美を禁止する。
 ○金剛太夫勧進能事件起きる。
 ○大和守邸などで操り・狂言、度々有り。
 
・寛文八年(1668年)三月、武家・町人の間で、観桜が盛んになる。
 三月、堺・木挽町の芝居小屋と新吉原の遊女屋に倹約令出る。
 三月、農民の勧進能・相撲等の見物を禁止する。
 三月、御用達町人のみ帯刀が許される。
  六月、山王権現祭礼、上覧なし。
 七月、大和守「立野狂言尽し」を見せに遣わし、脇北村の宮前に1500~1600人も見物有りと。
 七月、武家屋敷での花火を禁止する。
 九月、市村座で『伊勢踊』『梅がつま』大当たり。
 ○大和守邸で操り・狂言、度々有り。
 ○吉原に散茶女郎が生まれる。
 ○木挽町大芝居3軒、小芝居3軒。
 
・寛文九年(1669年)二月、路上の病人等を隣町へ送出を禁止する。
 八月、大和守邸で源左衛門『関寺小町・海道下り』を舞う。
 十一月、甲府藩主松平綱重が浜屋敷(現浜離宮庭園)造営を始める。
 ○大和守邸での操り、度々有り。
 ○堺町で天満八太夫、繰座興行する。
 
・寛文十年(1670年)一月、都伝内の都座、堺町に設立する。
 五月、秋まで造酒、酒の辻売・振売禁止する。
 六月、山王権現祭礼される。
 七月、市中の遊女捜索令出される。
 七月、武家屋敷での花火を禁止、ただし海岸地では可。
 七月、町中での花火遊び、仕掛花火、流星を禁止する。
 八月、町中で茶屋構えして女を置き商売することを禁止する。
 十一月、出家・山伏・行人・願人らの町中で仏壇を構えること、念仏講・題目講を禁止する。
 
 当時、庶民に娯楽を提供していた人々と言えば、経済的、社会的に地位の低い人々、下賤な者として社会的な差別を受けていた人々が圧倒的に多かった。イエズス会が編纂した『日本大文典』(一六〇四年)には、下賤な者として社会的差別を受けている人々に、猿楽、田楽、ささら説経、鉢こくりなどの呼称が挙げられている。
 しかも、猿楽の中には太夫をはじめ鼓打、狂言、大鼓打、脇、地謡、笛などが含まれていたから、芸能に携わるほとんどの人々が賤民的な地位に置かれていたといってもいいくらいだ。歌舞伎の役者が、「川原者」と呼ばれて、長い間低い扱いを受けていたのをはじめ、他の芸能に携わる人々も大半が下賤な者とみなされていた。当時はそれだけ、芸能に対する社会的評価が低かったのだろう。興行についても、下層の人々が関わることが多く、その傾向は江戸時代を通じて変わらなかった。
 もっともたとえ身分は低くても、芸能の分野において下層の人々の権限が想像以上に強かったことを示すいくつかのエピソードがある。寛文七年(1667年)、江戸で金剛太夫と名のる者が能を興行しようとした時の話。八十間もの芝居の桟敷を設営し、諸大名や町人らが観覧する中、能が開始された。まさにその時、えた頭である弾左衛門は、金剛太夫がことわりなく興行したことに腹を立て、手下約50人を従え、舞台に乱入、興行を中止させた。
 この時は、金剛太夫弾左衛門に前もって挨拶をしなかったことについて、詫びを入れるという形で決着。弾左衛門の狼藉については、老中は一切不問にした。これは、弾左衛門ら賤民の習慣的特権(櫓銭や祝儀等の興行税を徴収する権利)を、幕府が初めて公に認めたと見ることができる。
  また、寛文年間(1661~73年)には次のような事件もあった。江戸の堺町で、大坂から来た天満八太夫の芝居を興行しようとしたところ、説教の頭・日暮の長兵衛という者が弾左衛門に無断で芝居を差し止めた。長兵衛は処罰されたが、同時にこの事件後、堺町の芝居興行の支配権は弾左衛門の手から離れたという。
 幕府は同業者内での弾左衛門の立場は一応認めたものの、彼の権限が強くなりすぎることには警戒心を抱いたのかもしれない。ただ、芝居へ出入りし、見物することについては、引き続きお構いなしとされた。
  興行権への幕府の干渉は、次第に強化されていった。宝永五年(1708年)の「勝扇子」事件はその好例。と同時に、太夫や役者などの芸能者にとっては、自分たちがエタの支配下ではない、つまり「素人」として身分的地位が保証されたという点で、狂喜したできごとでもあった。
 まず、京都の繰師小林新助が、浄瑠璃太夫薩摩小源太をはじめ人形遣い等20余人を連れて安房で繰芝居を行った。安房・館山で興行していたところ、弾左衛門が手代を使わして無断興行をなじった。話がつかないうちに新助らが次の藤谷村で興行を始めると、今度は弾左衛門の手下が、300人ほどやって来て芝居小屋を打ち壊した。
 そのため、新助は、江戸に引き上げ、町奉行所に訴え出た。一方弾左衛門は、元来歌舞伎芝居や操り芝居は自分たちの支配下にあり、江戸と同じく、櫓銭などの興行税を徴収するのが当然であるという主張を展開した。
 その結果、判決は、寛文七年(1667年)の金剛能事件の時とはまったく逆で、弾左衛門の敗訴となった。芝居小屋を破壊した責めで入牢や島流しの刑に処せられた。その上、弾左衛門自身も、今後奉行所で公認した芝居興行について、異議を申し立てをしないという証文の提出を命じられた。
  当然ながらこの判決を受け取った太夫や役者など多くの芸能者たちは、狂喜した。江戸歌舞伎の第一人者であった二代目市川団十郎でさえ、それまでは自らを「人非人」と卑下していたが、この事件を聞いて「是歌舞伎の輩、不浄の徒に不有の証拠潔白の書也」と喜んだ。事件の記録を小冊子にまとめて『勝扇子』と題し、家宝として秘蔵したという。また、浄瑠璃太夫の四代目長門太夫も『浄瑠璃系図』に、この事件によって自分たちが賤民でないと認められたことを記録に留めている。
 この事件とその後の経緯をよく見れば、幕府はあくまで興行権の所在をはっきりさせたにすぎず、芸能者の身分的地位の保証を行ったわけではなかった。それでも、強いて芸能者にとってのメリットをあげれば、弾左衛門の特権が薄まり、賤民の地位が低下したことによる、相対的な地位上昇ということだろうか。幕府の真の狙いは歌舞伎などが盛んになり、売上が多くなるにつれて、それを弾左衛門たちに独り占めされるのを阻止したいという点にあった。
 十八世紀初めになると、幕府は賤民の芝居入場の自由についても制限を加えるようになった。これに対し、賤民等は自由入場権を放棄するかわりに、今後は芝居に不可欠な太鼓、鼓、三味線などの革製品の提供を差し止める旨を申し入れた。もともとは、権力によって強制された仕事とはいえ、完全な独占体制であったので、賤民らの申し入れは強力な対抗策となりえたのであった。