御開帳

江戸庶民の楽しみ 13
★御開帳
・元禄十三年(1700年)一月、山村座で『けいせい浅間獄』(都の浅妻の怨霊の段の差込)大当たりする。
 ・五月、町人の不相応の服装等を禁止する。
 ・五月、音羽護国寺で嵯峨清凉寺の初の出開帳、貴賤群集する。
 ・五月、森田座で『大日本鉄界仙人』団十郎の分身曽我大当たりする。
 ・八月、葛西飯塚村夕顔観音堂、三三年目にて開帳を催す。
 ・九月、江戸府内で鳥類の売買を禁止する。
 ○水木辰之助らが七変化の所作を始める
 ○浅草見附に、公許の『太平記』の講釈場を開設する。 
 
・元禄十四年(1701年)二月、亀戸天満宮で詩歌連俳が興行される。
 ・三月、京眞如堂太泰太子江戸にて開帳を催す。                               
 ・春頃、浅草黒船町稲荷開帳を催す。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・夏、長雨に低温が続く。
 ・七月、規定外の規模の屋形船を没収、流行の唐独楽は堺・木挽町芝居小屋では許可される。
 ・十月、蛇を見世物にした蛇遣いが入牢される。        
 ・十一月、町々で独楽廻しと販売を禁止する。
 ・十二月、飢饉、御救小屋で施業される。
 ○麻布桜田観明院及び小石川厳浄院開帳(開帳期間不明)を催す。
 
・元禄十五年(1702年)二月、中村座で『星合十二段』勧進帳の初演、大入する。
 ・二月、高田水稲荷に眼疾に効く霊泉が湧き出て話題となる。
 ・春頃、牛込千手院で開帳が催される。
 ・春頃、葛西飯塚村夕顔観音、参詣群集する事夥し。
 ・四月、江戸城三の丸で花見の宴が催される。
 ・夏、回向院での伊勢山田順浄寺開帳を含め3開帳が催される。
 ・七月、中村座で『新板高館弁慶状』大当たりする。      
 ・八月、遊女町での遊興・物見・船遊山・賭博について制令が出される。
 ・閏八月、町奉行が南・中・北の3人になる。
 ・秋、芝高輪町知将院で開帳が催される。
 ・十二月、赤穂浪士、吉良邸を襲撃する。
 ○神田明神・糀町天神などの地内で繰芝居行われる
 
・元禄十六年(1703年)二月、中村座の『曙曽我夜討』が上演差し止め、時局・世相を内容とした小唄などの制作・出版・上演を禁止する。
 ・三月、遊女同然の奉公人や女踊子を禁止する。
 ・春頃、品川法禅寺開帳を含め11開帳が催される。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・夏、永代寺での成田山新勝寺開帳を含め6開帳が催される。
 ・七月、辻相撲・辻踊を禁止する。
 ・秋、市ヶ谷東円寺での上荻窪村光明院開帳を含め5開帳が催される。
 ・十一月、大地震で3万7千余人犠牲となる。
 ・十一月、水戸様火事で中村・市村座類焼する。
 ○谷中感応寺・赤城明神・牛込改替町長寿院・四谷多聞院などの地内で繰芝居行われる。
 ○三囲稲荷の狐、参詣人の前に姿を現わし名物となる。
・元禄年間○雑司ヶ谷鬼子母神に参詣者が多くなりはじめる。
     ○勧進相撲が盛んになる
 
・宝永元年(1704年)春頃、渋谷東福寺開帳を含め6開帳が催される。
 ・夏 市ヶ谷八幡開帳を含め7開帳が催される。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・七月、大雨で本所辺浸水永代橋等が損壊する。
 ・七月、大川筋で大からくり興行や花火を揚げることを禁止する。
 ・七月、護国寺土佐国五台山の開帳が催される。
 ・七月、女巡礼の市中群行、念仏講(僧俗が共に夜間に提灯を持って往来する)を禁止する。  
 ・秋、三田頂応寺開帳を含め2開帳が催される。
 ○両国橋西詰に幾世餅の店が初めて出て名物になる。
 ○山谷福聚寺・小塚原円花院などの地内で繰芝居が行われる。
 
・宝永二年(1705年)一月、中村座で『女工藤粧曽我』対面の場が大当たりする。
 ・二月、訴公などで出府の農民は用済み次第、滞在を禁止する。
 ・三月、回向院で播磨呉服の薬師及び護国寺で播磨久安寺の開帳が催される。
 ・四月、永代寺での下総成田山開帳を含め3開帳が催される。
 ・閏四月、伊勢お蔭参りが大流行する。
 ・六月、花火の打ち上げと販売が禁止となる。
 ・七月、回向院での洛東霊山正法寺開帳を含め4開帳が催される。
 ○山谷福聚寺・市ヶ谷八幡などの地内で繰芝居行われる
 
・宝永三年(1706年)一月、回向院で明暦大火の犠牲者の五十年忌法要が営まれる。
 ・一月、神田から出火し中村・市村座が焼失する。
 ・五月、諸物価引下げ令、暴利の豆腐屋を処罰する。
 ・六月、女踊子・女奉公人、狂言芝居の野郎・浪人野郎・役者等の町中徘徊を禁止する。
 ・八月、町方の屋形船の数を百艘に限定する。
 ・九月、神田明神祭礼が催される。
 ・十一月、鍛冶屋のふいご祭り、ねだりや暴れる者多く、再発防止の町触れが出される。
 ・十一月、山村座で『泰平出世景清白梅旗』新しき仕組大当たりする。
 ・十二月、女性の踊子師匠を禁止する。
 ○浅草大護院・芝土器町観音寺等の地内で繰芝居が行われる。
 ○湯島天神開帳を含め2開帳(開帳期間不明)が催される。
 
  「行楽」という言葉は、江戸中期にはすでに一般に使われていたようだ。現代では、「行楽」というと、自然の中で遊んだり、散策したりというイメージだが、江戸時代の「行楽」はそれとは少し違う。八代将軍、吉宗の頃になると、上層の町人だけでなく、庶民にも経済的なゆとりが生まれたからか、庶民の遊びは活発化し、お花見や祭りに、開帳に、と積極的に出かけるようになっていた。
 当時の行楽は、別段「自然」に限定せず、江戸市中やその周辺を舞台に、気軽に出かけることを指していたらしい。「物見遊山」よりは目的が曖昧な冷やかし、散策、ぶらぶら歩き・・・当時はそういった行為すべてを「行楽」という言葉で言い習わしていた。
 春の行楽として人気の高かったものに「開帳」がある。ただ、最近では「開帳」という言葉を聞いても、なんのことだかわからない人が多くなっている。開帳とは、寺社で、普段参拝が許されていない秘仏を、一定期間帳 を開いて信者に見せ、結縁の機会を与えるという催しである。江戸時代には老若男女を問わず多くの人々が訪れていた。
 神仏を信仰するという気持ちが希薄になった現代人から見ると、なぜ江戸時代の人々がそれほど熱心に開帳に出かけていったか理解に苦しむ。もちろん当時は、娯楽が極端に少なかったから、暇つぶしに開帳に出かける人が多かったとも言えるが、神仏を信じその慈悲にすがろうという気持ちが根底にあったのは事実のようだ。 上は、祈祷によって病を直そうとする将軍から、下は日々朝参りを欠かさない庶民まで、宗教活動が人々の日常生活に深く浸透していた江戸ならではの風俗といえる。
 とはいっても、宗教には必ず遊楽がついてまわるのが当時の特徴でもある。開帳にも多くの茶店や床店、力持ちや独楽の曲芸といった見世物小屋などが立ち並び、庶民にとって開帳は行楽の場としても欠かせないものになっていった。また、寺社側にしても、本来、開帳は純粋かつおごそかな宗教的行事として行われたが、信者から奉納金品や賽銭がたくさん集まることがわかると、次第に募金が大きなウエートを占め、開帳もそれ目当てに行われるようになった。
 浅草寺の開帳は、承応三年(1654年)が最初とされているが、その時すでに、開帳の期間中の賽銭を入札にかけて金三百両で売り渡したという話がある。つまり、開帳が商売になると直観した人たちがいたということだ。
  江戸時代には、記録されているだけで何と1500件を超える開帳が催されているが、その中で純粋に宗教的な結縁を目的にかかげたのはたったの1件しかなかった。実際は、寺社が金を集めるために行ったものばかり。それも開帳の目的は九割以上が建物の修復助成とされていたが、集めた賽銭や奉納金品は、建造物などの維持管理に使われるより他の用途に回っていたようである。
 にもかかわらず、幕府が多くの開帳を許したのは、寺社に対する公の助成が当時十分にできていなかったからである。開帳はいつでも勝手に行えるというものではなく、寺社奉行の許可を必要とした。開帳を成功させ、大金を集めるには、とにかく大勢の人に見に来てもらうことが絶対条件であるから、当然、地の利のよい盛り場周辺の寺社に狙いが絞られた。地方の寺社は、江戸にある他の寺社の境内を借りて開帳を行うことになり、これを「出開帳」と呼んだ。
 出開帳は何も江戸に限ったことではなく全国各地でひんぱんに行われていた。だが、短期間で大勢の人を動員して自宗の勢力をアピールしようと思えば、やはり地方の寺社としては、大都市、特に江戸での出開帳に大きな魅力を感じたと思われる。それに対し、江戸にある寺社がご当地で行う開帳を「居開帳」という。寺社奉行による開帳差許しの規則によれば、同じ寺社の開帳については、33年に1度という規則が設けられていた。また、江戸の寺社が出開帳のために場所を提供する場合についても、1年に5件以内と定めていた。
  出開帳の最初は、延宝四年(1676年)に本所回向院で行われた近江国石山寺観音の開帳である。以後、回向院は出開帳のメッカとなり、多い年には年に四回も行っている。一回の日数は60~80日程度、ただ、長い場合は百日を超えるものもあったようで、信州の善光寺などは評判が高く常連であった。
 たくさんある江戸の寺社の中でも、特に回向院に人気が集まったのは、近くに両国橋広小路という江戸随一の盛り場をひかえ、またその先に本所・深川の遊里があったからだろう。一方、居開帳がもっとも多かったのは、浅草寺で、江戸時代に36回も行っている。してみると、前述の開帳差許しの規則は、実際にはかなり融通がきいたようで、寺社側は様々な大義名分を押し立てて許可をもらっていたようだ。