★将軍吉宗のお花見

江戸庶民の楽しみ 18
★将軍吉宗のお花見
享保十八年(1733年)一月、享保の打ち壊し起こる。
 ・一月、初午の祭礼の華美を禁止する。
 ・一月、御救米が2万余人に支給される。
 ・二月、貧民の地代・店賃支払が猶予令される。
 ・三月、音羽護国寺で1・5・9月に興行していた富突講を深川永代寺境内に変更する。
 春頃、浅草寺開帳を含め6開帳が催される。奥山に千本桜を植えられる。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・六月、富士講行者身録が富士山頂に入定自殺し、富士講が一躍有名になる。
 夏頃、回向院での山城嵯峨清凉寺開帳を含め6開帳が催される。
 ・七月、築土明神本地観音開帳を催す。
 ・七月、疫病流行、鉦や太鼓を鳴らし藁の疫神を海に流す風神送り流行るが禁止される。
 秋頃、回向院での甲府瑞泉寺開帳を含め5開帳が催される。 
 秋頃、中村座で『御堂ノ前敵討』が大入りとなる。     
 十一月、谷中感応寺の富籤を三年間6回の興行を許可する。   
 飛鳥山に、花見客のため十軒の水茶屋設置が許可される。
 

享保十九年(1734年)一月、青木昆陽、甘藷の試作始める。
 ・二月、出羽湯殿山注連寺開帳を含め4開帳(開催地不明)が催される。
 ・二月、行徳高谷村の浜に流れついた鯨二頭が、両国橋付近の広場で見世物になる。
 春頃、中村座で『風流相生獅子』が大入りとなる。
 夏頃、本所弥勒寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・七月、盂蘭盆会の諸用具を城堀への投棄を禁止する。
 ・七月、本所高野寺での行徳高谷村了極寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・八月、葺屋町に大坂から豊竹肥前掾が繰り座を設置、義太夫節浄瑠璃が流行する。
 ○吉田文三郎が人形遣いを始める。
 
享保二十年(1735年)一月、市村座で『尺八初音の宝船』が大当たりする。            ・三月、中野など庶民行楽地への無頼の輩の立ち入りを取締る。                ・閏三月、森田座に代った河原崎座で『漁船霊入間川』が大当たりする。
 春頃、回向院での下総古河大野村正定寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・四月、浅草本法寺での下総小金平賀本土寺開帳を含め2開帳が催される。
 ・四月、大名・旗本の遊里、芝居小屋への出入りが禁止される。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 秋頃、回向院での筑後善導寺開帳を含め4開帳が催される。
 ・十月、初めて雅楽に琴を加えて合奏する。
 ・十月、宮地芝居、百日間興行指し許す。
    ・芝神明社地   笠ヤ三勝
    ・芝神明社地   同三右衛門
    ・芝神明社地   同万勝
    ・芝神明社地   江戸七太夫
    ・湯島天神    笠ヤ長三郎
    ・市ヶ谷八幡   斉藤金八
    ・市ヶ谷八幡   江戸喜太郎(後に神明へゆく)
     ・浅草地     虎ヤ七太夫                
    ・赤城明神    市川長十郎
    ・平河天神    平松万太郎
    ・氷川明神    金谷三太夫
    ・氷川明神    さつま弥太吉
    ・此外三カ所有之名前不知
 ・十一月、雛人形・調度の華美を禁止する。
 ○回向院で下総新北野開帳(開帳期間不明)
 ○谷中感応寺で、富突が公認
 ○中野に桃植えられる
 

享保二十一年(1736年)一月、中村座で『明烏口説ノ枕』という浄瑠璃が大当たりする。
 ・二月、疱瘡が流行する。
 ・二月、市村座で、常磐津文字太夫が初演する。
 春頃、小日向還国寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・四月、回向院での山城粟生光明寺開帳を含め4開帳が催される。
 ・四月、市村座で『帆柱大平記』のタテが大当たりする。
享保年間○葛西半田稲荷社平井聖天宮参詣者多し
 ○浅草寺境内で霊全の辻談義、人の笑いを取る
 ○向島長命寺門前に桜餅の山本屋が開店する。
 ○浅草寺境内で葦簾張りの小屋で志道軒が狂講を演じる。
 ○弦巻川が蛍の名所になる
 ○大尽舞小唄が流行する。
 ○上野の不忍池の蓮が名所化する。
・元文元年(1736年)五月、西久保青龍寺門前に角力稽古場の設置を許可する。
 秋頃、回向院での伊勢津大宝院開帳を含め5開帳が催される。
 ○秩父権現開帳(開催地・開帳期間不明)が催される。
 
・元文二年(1737年)三月、吉宗が飛鳥山を金輪寺に寄付し、桜などを植える(数年後自ら花見に出向き、以来花見の名所となる)

 ・三月、中村座で『大内鑑信田妻』が大当たりする。
 春頃、回向院で初の居開帳を含め6開帳が催される。
 ・五月、市村座で『結髪翡翠ノ柳』が秋まで大入りとなる。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 夏頃 回向院での京浄花院開帳を含め7開帳が催される。 
 ・七月、愛宕真福寺中玉蔵院開帳を含め4開帳が催される。
 ・九月、寺院建立勧化で、市中を騒々しく歩き回ることを禁止する。
 ・十一月、河原崎座で『閏月仁曽我』が大当たりして翌春まで続演する。
 玉川上水の小金井橋付近に桜を植える。
 
文三年(1738年)二月、吉宗、江戸高田八幡宮流鏑馬の式を催す。
 春頃、目黒不動開帳を含め4開帳が催される。
 ・四月、回向院で下総生実大厳寺開帳を含め4開帳が催される。
 ・五月、薬の販売が自由化される。
 ・五月、堺町小芝居に二形の奇人が出る。
 ・七月、密集地での花火を禁止する。
 ・八月、角の芝居岩井半四郎座『八百屋お七恋緋桜』が大当たりする。
 ・九月、神田明神祭礼が催される。
 ・九月、吉宗、琴を管弦と合奏させる。
 秋頃、回向院での常陸鳥羽田村龍含寺開帳を含め3開帳が催される。
 秋頃、市村座で『敵討巌流島』がますます大入りする。
 ○将軍一家、近郊各地で追鳥狩・放鷹を催す。
 飛鳥山に54軒の水茶屋が許可される。

 享保十八年(1733年)、飛鳥山に花見客のため十軒の水茶屋設置が許可された。元文二年(1737年)には、吉宗が飛鳥山の敷地を金輪寺に寄付し、桜などを植えた。その翌年元文三年には、飛鳥山に54軒の水茶屋を許可している。吉宗の桜への関心は深く、このように書いてくると、当の吉宗は花見に出かけたのかどうか、という素朴な疑問が出てくると思うが、その答えは大方の期待どうりである。「飛鳥山碑始末」によると、前記の記述と年代の相違はあるが、元文二年(1737年)三月十一日、おりしも飛鳥山は花の盛りを迎える。その上、飛鳥山の両側の田には一面に菜を作らせていたので、桜の花の季節には木の間から見事な黄金色が見え、素晴らしい眺めであったと伝えられている。(当時の飛鳥山には、吉宗の命によってすでに1270本のサクラの木が植えられていた)。この日、吉宗は飛鳥山に出かけ、お供の若年寄西尾隠岐守をはじめとする一行は、金輪寺で酒宴に加わったという話がある。
 さらにもう一話。吉宗は毎年花見の時分になると、お側に仕える御坊主などに、「今日は天気がいいから花見に行ってまいれ」と勧め、大量の食物や酒類を持たせた。御坊たちは、それを持って景色の良い場所に毛氈を敷き、誰彼なしに呼び込んで御馳走したというのである。
 花見時には、こうしたへだてのないふるまいが珍しくなかったとはいえ、御馳走にあずかった者たちがみな一様に驚いたのは、器にことごとく高蒔絵の葵の紋が入っていることであった。最初は「後がこわい」と尻込みしていた人々も、数年後には気にする者もなくなり、御紋つきの立派な盃や重箱から平気で飲み食いするようになった。それが実は吉宗のさしがねで、人々を喜ばせるため家来に命じたのだが、気づいた者は誰もいなかったという。
 これは、三田村鳶魚が書いた『江戸のお花見』という話の一節。これは、おそらく吉宗びいきの後世の人たちが、おもしろおかしく脚色した話だろう。
 ところで、江戸時代に一般に見られた桜というのは、実はいま我々が見ている桜とは違う種類のものが多い。「花見前線」という言葉で毎年話題に取り上げられるのは、良く知られているソメイヨシノという園芸品種だ。このソメイヨシノ、江戸時代の始めからあったものではない、江戸時代の末期に染井(現在の東京巣鴨周辺)の植木屋から誕生したらしい。
 では、江戸時代に多かった桜は何かといえば、まずは吉宗が遊覧地に植えたヤマザクラ、そして次がヒガンザクラ、八重桜などである。また、桜の植栽は、当然のことながら、吉宗以前から行われており、寛文年間(1661~73年)に品川御殿山に植えたという記録が残っている。
 その他、柏木村(現在の新宿区北新宿)円照寺内の「右衛門桜」と呼ばれる桜もあるが、これなども社寺内にあることから考えて、自生したものではなく、植栽されたと見るのが妥当だろう。