★庶民の見世物が流行

江戸庶民の楽しみ 19
★庶民の見世物が流行
・元文四年(1739年)二月、根津権現開帳を含め3開帳が催される。
 ・三月、市村座で『初鬙通曽我』続演大当たり 
 ・四月、下谷善立寺開帳が催される。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・八月、谷中感応寺、従来の富突に加えて年三回の増富興行が許可される。
 秋頃、小日向妙足院開帳を含め3開帳が催される。
 ・十月、豊後節を禁止(歌詞が煽情的で心中をそそのかすような語り口であると)する。
 ○舞子の花簪が流行りだす。
 ○回向院での大和二月堂開帳を含め2開帳(開帳期間不明)が催される。

・元文五年(1740年)一月、疱瘡が流行する。
 ・二月、市村座で『姿観隅田川』が大当たりする。
 春頃、回向院での信州善光寺開帳を含め6開帳が催される。
 ・四月、谷中瑞輪寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・五月、竹田からくり人形大当たりする。
 ・閏七月、人馬という芸、軽業を交えてするもの多し、禁止される。
 秋頃、小石川氷川明神開帳を含め5開帳が催される。
 ○吉宗、近郊で度々放鷹・追鳥狩を催す。
 ○上方節が大流行する。
 ○伊勢国府の弥陀開帳(開催地・開帳期間不明)が催される。

・元文六年(1741年)二月、浅草寺中日音院で開帳が催される。
・寛保元年(1741年)三月、市村座で『熛鐘入曽我』沢村宗十郎が大当たりする。
 ・三月、吉原仲之町で季節ごとに梅や桜の植替える、夜桜の初めとなる。
 ・四月、永代寺での鎌倉八幡宮開帳を含め5開帳が催される。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・七月、南伝馬町の湯屋に女湯風呂が許可される。
 ・八月、中村座で『酒呑童子』が大当たりする。
 ・十月、魚鳥野菜の初売りの利を抑制する。

・寛保二年(1742年)二月、高田穴八幡で開帳が催される。
 ・三月、市村座で『今様七変化』が大当たりするが、六月の大喧嘩で中止となる。
 春頃、浅草寺で人馬に似た軽業興行、大当たりするが、五月に禁止となる。
 ・五月、品川宿で飯盛女の取締、63人を吉原に下げ渡しにする。
 ・六月、魚鳥蔬菜の売出し季節を奨励する。
 夏頃、本所押上最教寺開帳を含め4開帳が催される。
 ・七月、浅草栄蔵寺で開帳が催される。       
 ・七月、中村座で『女夫星福名古屋』が大当たりする。
 ・八月、台風で利根川堤切れ、江戸大洪水となる。
 ・九月、富士講が禁止される。
 ・十一月、浅草仙蔵寺で葛西下小松村照明寺の開帳が催される。
 ・十二月、火事見物を禁止する。

・寛保三年(1743年)三月、市村座で『女雷神』菊之丞大当たりする。
 春頃、上野清水堂観音開帳を含め4開帳が催される。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・六月、諸大名の留守居役らが、茶屋などで遊興することを禁止する。
 夏頃、浅草西福寺での京清水圓養院開帳を含め8開帳が催される。
 ・七月、芝浜松町で草市が始まる。
 ・七月、中村座で『吉例佐々木鐙 』が大当たりする。
 ・七月、湯島社内での大阪天王寺開帳を含め4開帳が催される。

・寛保四年(1744年)一月、疱瘡が流行する。
 ・二月、中村座で芝居興行開始百二十一年の寿狂言興行を行う。 
 ・二月、浅草寺中観智院開帳を含め4開帳が催される。
 ○寺社地に山猫と名づけられた茶屋女が増える。
・延享一年(1744年)四月、回向院での伊勢白子子安観音開帳を5含め開帳が催される。
 ・六月、風邪が流行、風邪の神送りと称し屋台に提灯を灯し川へ流すことを禁止する。
 ・七月、市村座で『浄るり坂幼敵討』が大当たりする。
 ・九月、神田明神祭礼が催される。
 秋頃、護国寺での碓氷郡松井田金剛寺開帳を含め5開帳が催される。
・延享二年(1745年)二月、茅場町薬師境内での信州蓮池院開帳を含め5開帳が催される。
 ・二月、六道火事、2万8千余軒が焼失する。
 春頃、中村座で『羽衣寿曽我』天人羽衣の所作が大当たりする。
 ・四月、回向院での大坂一心寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・七月、回向院での伊勢朝熊岳金剛證寺開帳を含め2開帳が催される。
 ・九月、徳川家重、九代将軍になる。
 ・十一月、中村座で大切所作事『奴丹前』が大当たりする。
 ・十二月、中村座で『帰花北山桜』平九郎が大当たりする。
 ○石川流宣『江戸案内巡見図鑑』刊行する。
 ○風邪が流行、「お七風」と呼ばれる。
 ○盲と女の相撲が初めて行われる。
 ○元文四年に禁止された豊後節が大流行する。
 ○三田実相寺門前の勘助が子供の踊りや物真似の寄席を開業する。

 十八世紀も半ばになると、江戸の町は、武士の街から町人の街に変わりつつあった。そして、その町人の中でも圧倒的に多数を占めていた貧しい層(庶民)に勢いがでてきた。とはいっても、流行り病や自然災害に火災と、心配事に事欠かなかった。頼りにならないことはわかっていても、神仏に頼ることでしかできないことが、信心と遊楽へ結びつきを強くしていった。
 開帳がこんなに多く催されるのは、信心と遊楽とが切っても切れない仲だからである。秘仏と見世物の違いは何であろうか、当時の人もわからなかったのではなかろうか。秘仏については何とも言えないが、見世物については多少言及できるのではなかろうか。たとえば、十七世紀中頃に登場したべら坊や徳利児などは、実際には物乞いに近いものであったが、奇妙さが勝る、として見世物の仲間入りしている。ちなみに、べら坊は、全身が真っ黒で頭は尖っていて、目はまん丸で赤く、あごが猿のような様相で、いってみれば「馬鹿の標本のような男」と書かれている。これが「べらぼうめ」の語源になったらしい。
  また、徳利児とは、両手のない人のことで、足を使って字を書いたり、弓を引いたりするところを見せたという。その他、身長七尺二寸(二メートル一八センチ)で掌が一尺(三〇センチメートル)に余るという大女房、身長一尺二寸(三六センチメートル)という一寸法師などの評判が高く大入りになった。
 もう少し見世物について見てみよう。見世物には、開帳に合わせて、場所を仕切ったり、簡単な小屋掛け芸を見せて、金銭を取るというスタイルとは別に、街中の辻や空き地など人の集まる場所で行うものも多かった。辻芸、辻説法、物乞い、また軒を巡る門付芸などがそれで、江戸時代の初頭から存在していた。これらの見世物は、通りすがりの客たちの興味をそそって、気に入ったら銭をもらうというもの。芸を見せるだけではなくスリルや興奮、時には優越感や哀れみを誘うことで金銭を得るといった類が多かった。なかには、質の高いものもあったが、大半は見世物特有の胡散臭さ、低次元の芸であったようだ。
 それが十八世紀に入ると、見世物は、蜘舞から一変した軽業(綱渡り、乱杭渡り、籠抜け、剣の刃渡り、人馬、梯子乗りなど)を中心に興行された。軽業は、動きが大きく、スリルもあり、中には美貌の女太夫が演ずるなど、話題性はあったものの、連日大入りというまでには至らなかった。それより、人々の関心は、まだ一寸法師や大女房などの奇人の類に向いていた。
 そして、十八世紀初期には、歌舞伎は人気が高まるとともに、元禄期までに天井も葦簾張り程度になり、享保期には瓦葺塗屋の大建築、楽屋も三層となり、見世物小屋とは格段の差がついた。そうした事情もあって、芸を見せる見世物の魅力は相対的に低下した。
 それに対し見世物は、十八世紀中頃には、茶碗や鍋釜などを噛み砕いて食い、茶を飲んだ後、さらに燃えさしを口に入れ、見物人を驚かすという「いかもの食い」が両国に登場。また、頭から手まで黒毛が渦を巻いたように生え、乳首や臍さえもわからぬような熊女が堺町で興行された。その他、蟹娘、鬼娘、曲屁男など珍奇な人を見世物にした興行が続いた。もっと妙なもの、もっと奇怪なものを見たいという庶民の側の要求に応えるため、エロ・グロ度がどんどんエスカレートしていったのである。
 このげてもの好きの傾向は、動物にも向けられ、享保一六年(1731年)の二頭八足の奇形牛を筆頭に、両国で興行された珍鳥八羽、雷獣、アシカ、駝鳥その他ほとんどペテンまがいの珍獣が続々登場した。そして、珍奇な見世物は、さらに女力持ち、座頭相撲や女相撲、延享二年(1745年)の盲人対女の相撲などが催されていった。
 このような見世物が流行した背景には、宗教が本来の役割を果たさなくなっていたことによるものと思われる。開帳しかり、祭り(会)しかり、判断してしまう。しかし、結果論かもしれないが、江戸庶民にとっては、人々を導くような強制的な宗教色のなかったことが幸いしたと思う。宗教のあるべき姿とは?、宗教本来の役割とは?、そんな簡単に答えの出るものではない。