★見世物の経済

江戸庶民の楽しみ 20
★見世物の経済
・延享三年(1746年)二月、隅田川木母寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・二月、坪内火事で中村座市村座が焼ける。
 ・五月、市村座で『一ノ富清和年代記』が大評判で大入りとなる。
 夏頃、浅草寺開帳を含め6開帳が催される。
 ・九月、森田座で『東山永代歌舞伎』が大当たりする。
 秋頃、本所弥勒寺開帳を含め6開帳が催される。
 ○本多安勝子『江戸めぐり』が刊行される。
 

・延享四年(1747年)一月、市村座で『玉櫛粧曽我』が大当たりする。
 ・二月、両国橋、新大橋を除く明地の床店取払、社寺境内での見世物に限り許可する。  
 ・二月、堺町豊竹肥前座で『伝授手習鑑』が大入り、百余日大当たりする。
 ・三月、中村・市村座で『菅原伝授手習鑑』が大当たりする。
 春頃、浅草寺中梅園院開帳を含め5開帳が催される。
 ・四月、深川永代寺での大坂御城鎮守開帳を含め6開帳が催される。
 ・五月、浅草大護院八幡宮修復のため8日間寄進能興行が催される。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・七月、回向院での羽州湯殿山開帳を含め5開帳が催される。
 ・八月、屋形船を飾って乗り回す川施我鬼を禁止する。
 ・十月、風邪が流行する。
 ・十一月、中村座の『伊豆軍勢相撲錦』、団十郎宗十郎・菊之丞三人の三千両の顔見世となる。
 ○牛込神楽坂行先寺開帳を含め3開帳(開帳期間不明)が催される。

 ○上野風月堂(東京都台東区)が創業する。


・延享五年(1748年)二月、上野不忍池が改修され、池之端新地が造成される。
 ・三月、三田台町泉福寺開帳を含め3開帳が催される。
 ・五月、中村座で『義経千本桜』四日目より大入り客止めとなる。
 夏頃、目黒祐天寺開帳を含め5開帳が催される。
 夏頃、中村・市村座で『菅原伝授手習鑑』が大当たりする。
 ・七月、朝鮮人風の衣裳を身に着けての辻踊りを禁止する。
 ・七月、鹿島神向寺町神向寺開帳(開催地不明)が催される。
延享年間○橋場真先稲荷への参詣者が増えはじめる
  ○常磐津を始める、義太夫節が流行
  ○両国女相撲初興行
寛延元年(1748年)十一月、中村座で『女文字平家物語』中村粂太郎が大当たりする。
 ○二本榎承教寺開帳(開帳期間不明)が催される。
 ○富本節、新内節が創始される。 
 
寛延二年(1749年)二月、森田座を皮切りに『仮名手本忠臣蔵』三座で競演する。
 春頃、回向院での常陸河内郡大徳村宝積寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・五月、青紙張目傘を人混みで差すことを禁止する。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 夏頃、回向院での三河山中法蔵寺開帳を含め6開帳が催される。
 ・七月、回向院での信濃石堂村西光寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・七月、江戸で富突まがいのことを業とするものを禁制にする。
 ・十一月、市村座で『頼朝軍配鑑』大入り大当たりする。
 ○雑司ヶ谷鬼子母神に麦藁の角兵衛獅子売り始める。 
 ○江ノ島弁財天の居開帳始まり、江戸より参詣(開帳期間不明)多くなる。
 ○不忍池弁財天開帳を含め4開帳(開帳期間不明いずれも自坊にて居開帳)が催される。
 
寛延三年(1750年)一月、中村座で『大餝徳曽我』が大当たりする。
 ・二月、下堤高岩寺地蔵尊の開帳が催される。
 ・三月、筋違橋御門外で観世太夫が、晴天十五日間の一世一代の勧進能を催す。
 夏頃、牛込高田感通寺開帳を含め4開帳が催される。 
 八月、町人などの異様な風俗を取締る。
 秋頃、浅草寿松院での越後西浄寺開帳を含め2開帳が催される。
 ・十一月、神田明神祭礼が催される。
 
 延享三年(1746年)の記述に、『江戸めぐり』の刊行が記されている。この情報は、『武江年表』から得たもので、著者齋藤月岑はこの年に刊行された書を入手したのであろうか。実は、本多安勝子の『江戸めぐり』は、享保十三年(1728年)に刊行されているので、再版となる。本の内容は全く同じもので、20年近く経っているが変わらなかったということだろう。
 江戸の地図を見ると、東は三ノ輪・浅草、北は白山・大木戸(四谷)・渋谷、西は池上・品川あたりとなっている。当時の江戸の認識は、山手線内より狭く、その中に森林や田畑が豊かな町という状況だった。その中で春から秋にかけて17もの開帳が催され、伴った見世物などで賑わっていた。翌年は、27も催される中で、二月に「両国橋、新大橋を除く明地の床店取払、社寺境内での見世物に限り許可」となり、開帳時の見世物集中が加速したに違いない。
 さて、再び見世物について触れると、元禄十四年(1701年)江戸、この年独楽廻しが大流行した。幕府は、日本橋堺町と京橋木挽町の芝居小屋以外での独楽廻しの見世物を禁止。また、独楽廻しの武家出入りに関する禁止令も出された。流行したのは唐独楽、半鐘独楽(形から)やごんごん独楽(音から)と呼ばれるもので、中国から渡来した。
 なぜ、独楽が禁止令の対象になったかというと、若者や子供が道で、独楽を廻すために往来の妨げになったり、けが人が出たりしたからだという。また、独楽廻しの多くは京都から下った若太夫であったが、いずれ劣らぬ美貌ということで、旗本たちは彼らを屋敷に招いて日々酒宴にあけくれるありさま。痴話喧嘩が絶えず、風紀が乱れるということも理由の一つだった。ともあれ、独楽は、太夫の美男ぶりを一目見ようという見物人でごった返し、定刻前にすでに客止めをするというほどの大入りであった。
 この独楽廻しは、もとは京都で大当たりを取ったもの。これを見て一山当てようと考えた置屋の主が、抱えの男児数名に独楽廻しを習わせた覚えさせた。京都では技術的に見劣りがするので、江戸へ下って堺町で興行したという。当時の見世物は、歌舞伎に押されてはいたが、武士も含めて、幅広い層に人気があり、やり方によっては儲かる商売だったようだ。
  では、珍奇見世物の料金がどのくらいであったかというと、十八世紀初めの元禄期、堺町の小屋にかかった一寸法師(人気者の雲楽)が六文、正徳年間(1711~16年)に同所で軽業も演じた一寸法師は十文となっている。享保期、両国で初めて出された鯨の見料が八文。十八世紀中頃の宝暦期に堺町で興行された熊女も八文である。また、十八世紀末の寛政期に浅草などに開場された孔雀茶屋が十二文、ちなみに、歌舞伎の土間でもっての見料は二十五文であった。
 十八世紀の見世物料金は、出しものがたくさんある場合には、二十四文というような高いものもあったが、珍奇見世物では大体六~十二文程度。なお、当時の見世物料金は、客の入り込み具合で変化したこともあって、資料にはあまり残っていない。
  経営的にはきびしかったと思われる反面、次々に見世物興行に挑む人がいたことから、うまく当たれば一攫千金という面もあった。珍奇見世物は、変わったものが見つかったという情報が入ると、早速買いつけに出かけた。享保十九年(1734年)に見世物に出された鯨は、下総国徳在高谷村(現在の行徳)で捕らえられた鯨の頭と尾を、香具師が三両で買ったものである。見料が八文で、連日満員で木戸銭の山を築いたほどであるから、飽きられるか腐るかするまでに百両程度稼いだのだろう。
  そうなると、次は出演者(芸人?)の給金が気になる。しかし、残念ながら具体的な金額は、わかっていない。歌舞伎と見せ物が渾然としていた十七世紀であればあまり差がなかったかもしれないが、十八世紀、しかも珍奇見世物の出演者などは食べさせてもらえればまだましな方で、給金をもらうというようなことはまずなかっただろう。
 軽業のような芸人になると、例外はあるものの、大半は最低の生活に甘んじるか、独楽廻しのように、客を相手に売春まがいのことをして生計をたてていたと思われる。そんな中で、十八世紀中頃に人気を呼んだ力持ち「ともよ」という女については、安永年間(1772~81年)読み物『力婦傳』(風来山人)のおかげで、珍しく出演料を想定することができる。
  『力婦傳』によればともよは、越後国の百姓の娘で、十両の借金のために江戸の私娼宿で六年の勤めをすることになった。容姿は悪くない上に、雪国特有の餅肌で、なじみ客も多かった。ある日店の内儀が、四斗樽を酒部屋に運ばせようとしたが、あいにく若い衆がいない。それを見たともよは、手鞠でも持つように軽々と運んで皆を驚かした。これを見た亭主は、見世物にしたら大当たり間違いなしと考えた。
 そこで、親しい香具師に相談の後、ともよに三カ月間力持ちの見世物に出てくれるなら、年季証文を破り、帰国の旅費も出そうともちかけた。日々故郷に残した老父を案じていたともよは、この申し出でに乗った。見かけによらないともよの怪力ぶりは、大評判になり、連日大入りの盛況となった。

 この時、十両の借金を棒引きにしている。とすると、ともよの三カ月間の稼ぎは十両以上になると見込んだのだろう。このような大当たりを取れる芸人には、他の小屋に引き抜かれる心配もあって、それなりの給金を払っていたものと考えられる。
 また、ともよの出演期間を三カ月間としたのは、この見世物が観客の人気をつなぎ止められる期間を三カ月間程度と見込んだためである。当時でも香具師といえば、見世物の流行期間や売上を予想するのは当然のことで、この三カ月という想定は今から考えても妥当な判断だと言える。江戸時代の興行主たちは、経験則を踏まえた、したたかな商売人であった。