★武士と町人の遊び

江戸庶民の楽しみ 21
★武士と町人の遊び
 十八世紀も半ばに入ると、江戸の町は大きく変わっていた。江戸に幕府が開かれた当時は、大名の供をして地方からやってくる侍、関西などから上京して商家で働く町人、それに出稼ぎに来た田舎の人といった類の人間が多数を占めていた。が、江戸時代も一五〇年ほどたつと、江戸生まれの江戸育ちという割合も次第に大きくなっていった。このように江戸で生まれた人が、「江戸言葉」という独自の言葉を使い、京・大坂とは趣の違う都市生活を営むようになった。そして、その自負から生まれたのが「江戸っ子」という表現である。
「江戸っ子」という言葉が川柳に登場したのは一七七一年(明和八)のことだが、その背景には江戸の町人が自分たちこそ、主役だと考えるようになった事実がある。ちなみに「江戸っ子」の条件は何かというと、江戸城下で生まれ、江戸の水の産湯につかり、宵越しの金を持たず、食べ物や遊び道具に金をかける。さらに生粋の生え抜きであり、「いき」や「はり」を本領とする、この五つが「江戸っ子」の気質として求められた。
  その「江戸っ子」らしさが最もストレートに開花したのが、遊びの世界である。闊達でアイディアマンでもあった江戸町人の文化的特徴は、文学や絵画という高尚なジャンルではなく、仲間うちで楽しむ卑近な行動文化の中で本領を発揮した。浮世絵にしろ、歌舞伎にしろ、遊びの達人であった「江戸っ子」の活動に伴って生まれたものである。そしてその行動文化の中心はといえば、とりもなおさず庶民の行楽活動である。
  江戸の経済は十八世紀中頃を境に、町人によって完全に牛耳られるようになった。政治を行うのは幕府でも、実際には町人の経済力なしには何もできない状況になっていた。武士は、形の上こそ頂点に立ってはいたが、長い困窮生活によって無気力化し、頽廃的な生活を送る者も少なくなかった。
 「君と寝ようか五千石とろか、何の五千石君と寝よ」という俗謡は当時の武士階級の風潮を端的に伝えている。これは、一七八五年(天明五)、旗本の藤枝外記が吉原の遊女と百姓の物置で心中し、世間を驚かせた事件を歌ったものである。世は太平、かつてのような武士らしい気概や誇りは望むべくもなく、かといって、町人のように気ままにふるまうことも許されない、そんな葛藤を大半の武士が抱えていた。
 したがって、彼らの生活は徐々に堕落し、中には暇を持て余して良からぬ遊びにうつつを抜かし、あげくの果てに博打、ゆすり、さらには盗賊、殺人まで犯すなど、その無軌道ぶりが目立つようになっていた。
 こうして武士の遊びっぷりは次第にすさんだ感じになり、いくつもの情けない事件を引き起こした。水練の稽古と称して、隅田川に出かけ船を乗り出したまではよかったが、そこに芸者を呼び入れ痛飲。水練の稽古というのは名目だけで、一日中、それも夜遅くまで飲んで、長時間川風に吹かれているようなことが当たり前になった。ところがある日、仲間の一人が酔っぱらって、船から落ちたことに気づかないで、そのまま時を過ごしてしまった。ほどなく、溺死体が見つかり、詮議を受けると、偽りの申し立てをする始末。しかし、隠しおおせず、結局、侍の身分を取り上げられてしまった(1764年)。
 『徳川実記』によると当時、このような武士の不詳事が頻繁に起きていたようで、明和五年(1768年)には、なんと四件も起きている。最初は小普請内藤四郎兵衛が、下渋谷で行き倒れて死んでいたというものだが、何とこの侍、無刀の上にすっ裸だったという。二件目は、小普請荒川八三郎が先手組巡察になりすまし、往来で人をののしったために、追放を言い渡された。三件目は、大番下枝采女、この侍、博奕の常習者で身分の低い役者の真似をするなど行いが悪すぎるということで、遠島。最後は、小普請山崎縫殿助の伜菊三郎、彼は白山神社で旗同心西山勇次らと争って負けたらしく、二刀を奪われて、大恥をかいた上に押込処分に処せられた。
 これらはいずれも、勤務時間外に起きたものと思われる。わかるのは、武士の生活がいかにすさんでいたかということである。遊ぶとは言っても一時の憂さ晴らしにすぎず、前向きの遊び方ではなかったのだろう。
 さて、こんな事件ばかり見ていると、江戸の町はどうしようもなく荒廃した場所のように思うかもしれないが、町人たちは闊達に遊んでいた。八代将軍吉宗から公認の遊び場を与えられた町人たちは、次々とさらなる行楽地を獲得。質素倹約に華美禁止と何かにつけてうるさかった吉宗がなくなったその年、上野不忍池周辺は、茶屋、揚弓場、講釈場などが軒を連ねる一大行楽地として繁盛していた。
 天下祭りにしても、華美を禁じる触が4年おきに3回も出されている。これは逆に言えば禁止しても、もはや抑えが効かないほど派手になっていたことを証明している。
 なお、三度目、一七五一年(宝暦九) の触は、屋台や屋台と紛らわしいものを禁止している。が、練り物や日覆いは可、さらには笛太鼓や三味線などはにぎやかでよろしいとのお沙汰。こうなると、幕府も祭りの贅沢を本気で禁止しようとしているのか、それとも建前だけで言っているのか理解に苦しむ。
 行楽地も以下に紹介するように徐々に増えていく。宝暦三年(1753年)には、谷中の嶺亥寺に会式桜が咲き、話題に。1756年には谷中の修性院の庭が公開され遊覧の場となる。1757年には橋場真崎稲荷に田楽茶屋ができ繁盛、とにぎわいが伝えられている。1761年、鉄砲洲の富士浅間神社に築山富士山が奉納される、これなどは講仲間の町人が自ら行楽地を作ったわけで、金回りもよく実行力に富んだエネルギッシュな町人の姿が浮かびあがる。1763年には根岸の円光寺のフジに見物人が集まる。
 開帳にしても、宝暦年間(13年間)に172回も行われ、床店や見世物で賑わう出開帳のメッカである回向院は19回(居開帳はその内1回)も行われている。そしてこの頃より、弘法大師八十八箇所参りも始まるなど、宝暦年間には実にさまざまな行楽活動が活発になっていたことがわかる。
 続く明和年間(1764~72年)、まず1765年には、芝浦で捕獲された3メートルを超える大マンボウが両国で見物に出された。1766年には亀戸龍眼寺の境内にハギが植えられた。1768年には回向院で勧進相撲が開催。なお、雷電為右衛門が市ヶ谷長延寺で、雲州釈迦獄右衛門を相手に一世一代の相撲興行を行ったのは、明和七年(1770年)であった。そして浅草の「酉の市」に人気が出てきたという記録によって、一年を通じて行楽に出かける場所ができたこともわかる。こうなると行楽先での飲食が楽しみの一つとなるのにそう時間はかからない。
 洲崎弁天に料理茶屋ができ、長命寺の「桜もち」や回向院の「嵯峨おこし」なども登場、人気を集めた。加えて、浅草・奥山銀杏木の下揚弓場の「お富士」や笠森稲荷「おせん」などの看板娘も誕生、歌や浮世絵にもその艶やかな姿を見せるようになった。つまり、行楽から派生して、それ以前にはなかった新規の楽しみが次々に生まれた時代である。
 こうしてみると、同じ時期でも武士の遊びは「気散じ」とよばれる、一時的なうさ晴らしにすぎない。それに対して、町人の遊びは、「気延ばし」とよばれる明日の糧になるような、前向きなレクリエーションであったことがわかる。

寛延四年(1751年)二月、市村座で大詰『左甚五郎』が大当たりする。
 ・三月、不忍池の茶屋・揚弓屋・講釈場などが軒を連ねて繁盛となる。
 春頃、浅草寺開帳を含め17開帳が催される。
 ・四月、回向院での甲斐板垣村善光寺開帳を含め7開帳が催される。
 ・五月、家重の厄払いの祈祷のために、高田馬場にて流鏑馬挙行する。
 ・五月、山王権現祭礼での華美が禁止、山車その他に関しても注意される。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・七月、回向院で下総羽生村法蔵寺開帳が催される。
 ・七月、中村座で『恋女房染分手綱』が九月節句まで大入りとなる。
 ・九月、中村座で『けいせい福引名護屋』が大当たりする。
 ○吉原に女芸者というもの始まる。
 ○深川富岡八幡宮の鰻料理が有名になる。
 ○この頃から開帳で神仏によらず幟を立て始める。
・寳暦元年(1751年)○大師河原平間寺開帳を含め四開帳(開帳期間不明)が催される。

・寳暦二年(1752年)一月、紋尽、人形などで賭博行為を禁止する。
 ・一月、火事場で野次馬行為が禁止される。 
 ・二月、見圍稲荷明神を含め8開帳が催される。
 ・三月、湯島天神での伊豆八丈島為朝明神開帳を含め8開帳が催される。
 ・四月、回向院での京知恩寺を含め6開帳が催される。
 ・四月、森田座中村座で『一谷嫩軍記』を上演する。
 ・六月、池之端新地の茶屋五十九軒を、淫らであるとして引き払う。
 ・七月、回向院での埼玉郡不動岡村惣願寺開帳を含め4開帳が催される。
 ・十一月、中村座で『赤沢山相撲日記』が好評大入りとなる。
 ・十二月、琉球正使江戸上り。
 ○静観房好阿『当世下手談義』が刊行(滑稽本のはじめ)される。

・寳暦三年(1753年)一月、中村座で『京鹿子娘道成寺』初演六月迄興行、大入りとなる。
 ・二月、駒込目赤不動尊開帳を含め2開帳が催される。
 ・三月、身延山祖師開帳を迎える人、品川より日本橋まで続く。
 ・三月、深川八幡で勧進相撲が催される。
 ・三月、薩摩座で、からくり人形芝居が興行される。
 ・四月、湯島天神での武蔵一宮簸河神社開帳を含め6開帳が催される。
 ・五月、歌舞伎芝居の曽我祭が始まる。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・七月、浅草本法寺での相州龍の口祖師開帳を含め5開帳が催される。
 ・八月、神田橋・一橋・田安門外の空き地での放鷹を禁止する。
 ・十月、谷中嶺玄寺に「會式櫻」咲き始める。
 ・十一月、市村座で『芥川紅葉柵』が大当たりする。
 ○麻疹流行で「麻疹送り」と称し太鼓を叩き屋台を引き賽銭を集めること禁止する。
 ○西村重長『絵本江戸土産』が刊行される。

・寳暦四年(1754年)一月、中村座で『矢の根』大当たり、「矢の根蔵」が建つほどという。
 春頃、回向院での陸奥会津若松高巌寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・四月、人馬其の外軽業が禁止される。
 ・四月、四谷角筈新町長楽寺開帳を含め4開帳が催される。
 ・六月、谷中三崎に新幡随院を造営、参詣者多し。
 ・八月、市村座、春の不評を取り返す大当たりとなる。
 ・十月、町触を知らない者は処罰の町触がでる。
 ・十二月、家治の婚礼祝いに、御能拝見が許され、町々に銭を支給する。

寳暦五年(1755年)二月、防火用水の天水桶・水溜桶を設置するよう各所に命じる。
 ・三月、牛御前社頭修復成就の開扉が催される。
 ・三月、深川永代寺での開帳に美女の神楽あり。
 ・三月、回向院で明暦の大火犠牲者の百年忌取越法事行われる。
 春頃、谷中妙法寺で豆州玉沢法花寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・四月、回向院で小金東漸寺開帳を含め4開帳が催される。
 ・四月、江ノ島上の宮弁財天開帳(江戸より参詣者多し)が催される。
 ・五月、山王権現祭礼での華美が禁止される。
 ・六月、江戸城付近と人家多いところでの花火遊びを禁止する。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ○江戸店で、博打や女遊びのため金銭の横領事件が多発する。