★盛り上がる江戸の祭り

江戸庶民の楽しみ 22
★盛り上がる江戸の祭り
・寳暦六年(1756年)一月、日本橋心材木町から出火、中村座市村座も焼失する。
 ・三月、市村座で『梅若菜二葉曽我』六月まで大入りとなる。
 春頃、牛込久成寺での上総国埴生郡妙宣寺開帳を含め3開帳が催される。
 ・四月、回向院での安房国那古寺開帳を含め4開帳が催される。
 ・六月、米価高騰のため紙札幟を立てて奉行所へ参集する。
 ・七月、下谷玉泉寺で佐渡一谷妙照寺開帳が催される。
 ・十月、谷中修性院の庭、この年より開き、遊觀の場所になる。
 ・十一月、市村座で『今様道成寺』大当たりする。

・寳暦七年(1757年)三月、芝神明境内での近江多賀大社開帳を含め4開帳が催される。
 ・三月、市村座、初下り中村歌右衛門が大当たりする。
 ・四月、長雨で米価が高騰する。
 ・四月、喧嘩騒動で前年禁止された八丁堀坂本町の植木市が再開される。
 ・四月、回向院での安房清澄寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・六月、堺町で大坂下り竹田近江のからくり人形興行が大当たりする。
 ・七月、市村座で『兒源氏鎧襲』が大当たりする。
 ・八月、下谷坂本小野照崎明神祭礼、練物等を出す。
 ・九月、湯島で物産会を開催する。
 ・九月、深川富岡八幡境内で大蔵氏勧進能興行を催す。
 ・十月、相撲番付が刊行され、江戸相撲の制度が整い始める。
 ・十月、浅草御蔵前八幡で勧進相撲を催す。
 ○浅草真先稲荷に田楽茶屋が数軒でき繁盛する。
 ○回向院での越後高田善導寺開帳を含め2開帳(開帳期間不明)が催される。

・寳暦八年(1758年)一月、中村座で『時津風入船曽我』五月まで大入りとなる。
 春頃、回向院での常陸鹿島神宮開帳を含め4開帳が催される。
 ・三月、市村座で『富十郎七変化』が大当たりする。
 ・三月、深川八幡で勧進相撲が催される。
 ・四月、回向院での常陸真壁郡海老ヶ島新善光寺開帳を含め4開帳が催される。
 ・七月、宝暦事件起こる。
 ・八月、品川海晏寺で開帳が催される。
 秋頃、両国広小路で「珍鳥八羽」の見世物に群集する
 ・十一月、市村座大切り『矢ノ根五郎』が大当たりする。
 冬頃、両国で火喰い坊主興行し好評となる。
 ○広尾天現寺開帳を含め6開帳(開帳期間不明)が催される。

・寳暦九年(1759年)一月、中村座で『初買和田ノ宴』が大入りとなる。
 ・三月、深川八幡で勧進相撲が催される。
 春頃、回向院での出羽湯殿山本道寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・四月、本所弥勒寺開帳を含め2開帳が催される。
 ・五月、祭に屋台やその類似物禁止、笛・太鼓・三味線など賑やかにするのは可となる。
 ・六月、流行正月が祝われる。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・七月、堺町に赤い鯉の見世物が出る。
 ・七月、麻布善福寺開帳を含め2開帳が催される。
 ・七月、堺町肥前繰座の隣小屋で白髭松の見世物、大入りとなる。
 ・八月、高田穴八幡宮祭礼に山車練物出る。
 ・八月、堺町で熊女の見世物が出て大当たりする。
 ・九月、駒込明神宮祭礼、山車練物出る。
 ・十月、七五三の衣装の質素倹約を命じる。
 ・十一月、市村座で、富士田楓江が長唄を始める。
 ○孔雀の見世物が出る
 ○白陰が深川臨川寺で講説し、良賤群集する
 ○両国で碁盤娘の見世物興行が催される。
 ○亀戸妙義山開帳を含め開帳4(開帳期間不明)

 庶民の遊びがいかに楽しいものだったかということは、江戸の祭りを見ればよくわかる。当時、江戸を代表する祭りといえば何といっても、天下祭り(1615年に始まった山王権現祭礼、1688年に始まった神田明神祭礼、そして、吉宗に止められたために1714年の一回きりに終わった根津権現祭礼の三つを指す)だろう。これらの祭りには多い時で百基を超す豪華な山車が登場、幕府公認の祭礼として、将軍の上覧を受けるなど、名実ともに、天下祭りの名にふさわしい催しであった。
  現在では、東京の祭りというと、若い衆が掛け声と共に自慢の神輿をかついで回るというイメージだが、江戸の祭りはゆっくりと歩きながら進む山車行列が主役で、観客も桟敷を構えて、のんびり飲食しながら見物した。経済的な面だけでなく時間的にも非常に贅沢な催し物であった。
 したがって、資金についても、神輿は幕府の全額負担だが、山車その他の費用は、町内で工面するという決まりになっていた。そして、町の面子とプライドがかかっているので、回を追うごとに、より派手になるのは当然であった。
『江戸惣鹿子名所大全』(1690年)の記録を見ると、山王権現祭礼には四六もの山車などの行列が出ている。人々の関心は、なんと言っても神輿の先を行く、趣向を凝らした山車や練物などからなる盛大な行列であった。そしてその際、町々の出し物に関する案を取りまとめ、資金調達に至るまでを取り仕切っていたのが、町の名主である。
  祭りの行列がどのようなものであったかというと、恒例の山車などに加えて、「付祭」と呼ばれる踊り舞台や地走り踊り、練物などが仕立てられた。そのため人々の関心は、行列のなかでもほぼ様式が決まっている山車よりも、毎年、新奇なアイディアを競う「付祭」に集まった。付祭は、勢い華美になり、そのため幕府による規制が何度も行われている。
 天下祭りの最初のピークと言えば、正徳四年(1714年)の根津権現祭礼であろう。行列の番付は五十番まであって、山車も百台を超えたようだ。たとえば、二番の「猿の山車」は、180人以上もの大行列。これは、当時でも空前のスケールと評判になったもので、いかに町人たちが熱を入れていたかがわかる。
 山王権現祭礼は、六月十四日の正午、山王権現(現在の千代田区永田町の日枝神社)における読経に始まり、祝詞、神楽と続く。その後、町中を、山車などが練り歩き、これを見ようとする見物人は、「桟敷を構え幕を張り、花筵毛氈を鋪、金屏風を立て、軒挑灯等きらびやかに調へて、今日より賓客を迎え、珍酒喜肴を饗し、夜もすがらさざめきて明けるを待つ」というような状況だった。
 十五日の未明には神輿や山車が山下門に揃い、半蔵門から場内に入って昼食をとった後、将軍の上覧場を通り、竹橋門より城外へ。常磐橋門からは、神輿だけが行列を乱さず町中をめぐる。この二日間のために人々は、何ヵ月も前から準備し、つぎ込む金も数千両(現代の一億円以上)に及んだと言われている。
『江戸名所図会』や『東都歳事記』の図を見れば一目瞭然だが、細工、工芸の技を尽くした、山車だけでも相当金がかかったと思われる。その上、練り歩く数十人もの人々の衣服も奴風あり、唐人風ありと趣向を凝らし、さらに傘や扇など小道具も洒落たものを・・ということで、次第にケタはずれの浪費になっていった。
  いくら幕府公認の祭りといっても、こうして贅沢なものになったので、たびたびチェックが入った。規制の最初は天和三年(1683年)である。この頃になるとさすがに年々華美になる行列を見過ごすわけにはいかなくなったのだろう。練り物や装束などについて制約を加えるとともに、見物人に対しても贅沢な着物を着ることを禁じている。まあ、それでも、町人などの奢侈を禁じるため舟遊びをたびたび規制したのに比べれば、こと祭りに関しては寛大だった。
 しかし、八代将軍吉宗になると政策は一転し、空前のスケールといわれた根津権現祭礼が停止された。享保六年(1721年)には屋台の禁止や随行人員も削減されるなどと、かなり厳しい制約が出された。その後も延享二年(1745年)にも同じような町触が、寛延四年(1751年)、宝暦九年(1759年)、寛政四年(1792年)、天保十二年(1841年)にも祭りを規制する町触が出されている。
 もっとも宝歴以降に出された町触を、皆が忠実に守っていたかといえば、そうでもない。ここでも江戸っ子は“巧みなカモフラージュ”を見せる。たとえば、幕府の「屋台禁止」に対抗して考案した「底抜け屋台」のアイディアがそうだ。根津権現祭礼の時のような大きくて派手な踊り屋台(一つの屋台に舞台と楽屋が備わり、三間ほどある)がだめなら、「近来差出来候通之練物」(舞台)や「日覆」(楽屋)という奇妙な名前で、踊りと囃子を別々にしたものを作った。
 実はこの「日覆」、呼び名は違っても「底抜け屋台」に相当するもので、中身はほとんど変わらなかった。四本の柱の上に日除けの天幕を張りその中で演奏する。町人たちがこうした苦肉の策を持ち出してまでも屋台を出したかった理由は、踊り屋台は、様々な芸が催された人気の出し物で、見物人からのリクエストも多かったからだ。
 では、天下祭りは常に規制を受けるばかりであったかといえば、必ずしもそうではない。文化・文政期(1804~30年)には、出し物に対して、幕府が補助金を出すという振興策もあった。補助を受けた町では、舞台練物に工夫を凝らし、新奇な趣向を編み出して、評判を取ろうとした。
 祭りをより盛大にしようと働きかけた仕掛け人は、実は大奥であった。時には、御雇祭と称して、特に出しものを申しつけることもあった。もっとも、大奥が多少の金は出したにしても、町方の方でもかなりの額を負担して作ったようだ。それを承知で御雇祭をひき受けたのは、やはり町にとって名誉というとらえ方が強かったからだろう。
 祭りの行列に参加した人数は、一体どのくらいだったのか。山王権現祭礼は、四十六番まである。一行列の山車や付祭に百~五百人規模が必要だとすると、全体では一万人を超える。さらに城内には入れなかったが、祭りに動員された人々や見物人をも加えれば、それこそ町中総出という感じであったはずである。
 また、江戸にはむろん、天下祭りのほかにも様々な鎮守の祭礼があった。天下祭りが制限された享保年間(1716~36年)にも、浅草三社祭をはじめ、山車や練物が賑々しく登場する祭が一四社も行われた。寛政九年(1797年)にはこれがなんと二七社にも増えている。
  したがって、江戸の町で繰り広げられた様々な祭りには、非常に多くの庶民が参加していたと考えられる。見るだけではおさまらず、自分も行列に入って町中を練り歩きたいと思った庶民は、大勢いたに違いない。特に、天下祭りともなると、注目度が違う。その上、城内に入って将軍の上覧を仰ぐという晴れがましさは、江戸っ子の憧れの的だったのだろう。
 実際、踊り屋台に娘を出すと、たちまち江戸中の評判になり、アイドル並みに一枚絵が売られたり、大奥から奉公の声がかかったりしたという。祭りに参加する町人の意気込みも大変なもので、『甲子夜話』(松浦静山)には、祭礼に参加するために妻や娘を芸妓に売ってその金で衣装を調えたという、とんでもない話が登場する。
 真偽のほどはわからないが、こうした話が人の口に昇ったということは、誇張はあるにせよ、まんざらでたらめでもあるまい。町中が祭りの虜となって、エネルギーを発散させていたことは確かである。