★江戸っ子の本領

江戸庶民の楽しみ 25
★江戸っ子の本領
 「江戸っ子」という言葉が川柳に登場したのは明和八年(1771年)である。その背景には江戸の庶民が自分たちこそ、主役だと考えるようになった事実がある。ちなみに「江戸っ子」の条件は何かというと、江戸城下で生まれ、江戸の水の産湯につかり、宵越しの金を持たず、食べ物や遊び道具に金をかける。さらに生粋の生え抜きであり、「いき」や「はり」を本領とする、この五つが「江戸っ子」の気質として求められた。
  その「江戸っ子」らしさが最もストレートに開花したのが、遊びの世界である。闊達でアイディアマンでもあった江戸庶民の文化的特徴は、文学や絵画という高尚なジャンルではなく、仲間うちで楽しむ卑近な行動文化の中で本領を発揮した。浮世絵にしろ、歌舞伎にしろ、遊びの達人であった「江戸っ子」の活動に伴って生まれたものである。そしてその行動文化の中心はといえば、とりもなおさず庶民の行楽活動である。
 遊びの中に生きる喜びを見いだす。そんな庶民の熱気が、江戸時代中期にはすでに見られた。安永七年(1778年)六月朔日から始まった回向院の開帳には、今の博覧会にも負けないくらいの人が押し寄せていた。この信州善光寺如来の出開帳は、「空前の人出」だと、平賀源内(『菩提樹之弁』)や大田覃(『半日閑話』)も書いている。
 源内は開帳の人寄せに協力し、「名號牛」の見世物の企画を企てた。名號牛とは、黒毛の子牛の背に、白毛で「南無阿弥陀仏(orなむあみだぶつ?)」という文字が浮き出たもの。「牛に引かれて善光寺」という諺にあやかろうという向きも多く、見物客が押し寄せた。これは、もう源内の「悪戯」であると思って、間違いないだろう。
 また、他にも、開帳に合わせて、千年土龍(タヌキを千年を経たモグラの王と宣伝したもの)、鬼娘などの見世物が出た。当時の庶民は、これらがいずれも、うさん臭い出し物ではあることは知っていた。が、参詣もそこそこに、あやしげな見世物や露店へと大勢の人々が向かった。
 では、このような、荒唐無稽の見世物を目当てに参詣した人は、どの位いたのだろうか。大田覃は、回向院周辺を訪れた人数について1603万8千人と具体的な数字で示している。この数は、当時の江戸の人口(約百万人)や日本の人口(約三千万人)を考えれば、過大であることは一目瞭然である。だが、この驚異的な数字から見て、江戸の住民の大半が訪れていたことはまず、間違いない。しかもそのほとんどは、下層階級の人々であった。
 この年のイベントを武江年表などから見ると、開帳(開扉を含む)は何と20余所で催された。他にも、深川八幡宮境内の相撲興行が、8日間から10日に伸びている。また、将軍の上覧があった山王権現祭礼、亀戸天満宮祭礼なども行われた。さらに、柴又の帝釈天で庚申の日を縁日とし、参詣者が多く訪れるようになったのもこの頃。季節ごとの行楽も盛んだったと見え、花見時の茶番が流行り、賑わった。花火も盛大だが、翌年の仙台河岸伊達邸の花火は、見物人が多すぎて、橋から人が落ちるという事故まであった。
 このように祭りや行事が連続して行われている状況から、江戸時代中期の庶民は、はけっこう遊び歩いていたことがわかる。彼らにとって、遊びは仕事の息抜きではなく、生活の中心であったと言ってもいい。彼らは、貧しくても楽しく暮らす術を持っていたようだ。江戸の人々がそんな風に呑気にかまえていられた理由は、難なのだろうか。
 一つには、下層階級の人々はその日その日の生活が送れればそれでよく、無理をしてお金を貯める必要がなかったということ。また、相互扶助の精神が浸透し、仲間を押し退けてまで仕事をし、金を貯めようとという人が少なかったこと。つまり、現代のような競争社会ではなく、意外にストレスが少ない社会であったことなどが上げられる。
 もちろん、まったく心配事がなかったわけではない。いつの世でも生きている以上、悩みはあるものだが、彼らはそれを遊びで解消していた。どのように解消していたかは、江戸っ子たちが明治になって求めた娯楽を見ればよくわかる。
 明治時代の中頃に活躍した人というのは、江戸時代に生まれ育った人である。天保年間(1830~44年)に生まれた人は、40歳代の中年である。彼らの生活感は、しっかりと江戸に根を下ろしていた。そのため明治になっても、江戸っ子の遊びは、基本的に江戸時代と変わらず、政治的に混乱していた幕末期より盛んであった。開帳に祭り、寄席などを楽しむ姿は、東京市民というより江戸っ子そのものであった。
 彼らの遊びを見ると、文明開化ならではの欧米レジャー、スポーツなどには目もくれなかった。明治初期、庶民の行動や嗜好を反映する娯楽というと、江戸を懐かしみ、失われつつあるものを追いかけるようなものばかりであった。たとえば、落語・義太夫浪花節、そこに彼らは、人情の機微、熱い心を求めていた。
 彼らは、「笑い」一つをとっても、落語の「さげ(落)」に示されるようにいくつもの種類を知っていた。また、義太夫では、面白くても泣き、嬉しくても泣きと、様々な「泣き」を楽しんでいた。明治になっても、笑ったり泣いたりという気持ちの振幅を大切にして、感情の襞を失わないようにつとめた。
 現代人は、自分たちは江戸っ子より知識が豊かなことから、感性も豊かだと思い上がっている。心の不安さえも理性で解決しようと躍起になっている。だが江戸庶民に限らず、生きていく上でのストレスを解消するには、体だけでなく、心の緊張をほぐすことが何よりも大切である。それには、江戸っ子が追い求めた、細やかな感情を育むような遊びが必要だ。

・明和八年(1771年)一月、中村座で『堺町曽我年代記』が大当たりする。
 ・二月、市村座で『和田酒宴納三組』が大当たりする。
 ・三月、諸国で伊勢お参りが流行する。
 ・三月、深川卅三間堂で勧進相撲が催される。
 ・春頃、上野清水堂開帳を含め7開帳が催される。
 ・四月、内藤新宿に旅籠屋の営業が許可される。
 ・四月、回向院での埼玉郡市野割村円福寺開帳を含め6開帳が催される。
 ・四月、吉原揚屋町から出火、今戸・両国などに仮宅できる。
 ・五月、市村座で『都鳥春錦絵』羽左衛門菊五郎が大当たりする。
 ・六月、江戸に大地震が起きる。
 ・七月、浅草寺での鎌倉永谷貞昌院開帳を含め2開帳が催される。
 ・秋頃、森田座で『春駒』『山かつ』が十月十六日まで大入りとなる。
 ・十月、長谷川平蔵が盗賊改を命じられる。
 ・十月、深川八幡で勧進相撲が催される。
 ・冬頃、阿多福餅売り出され評判
 ○川柳に「江戸っ子」という言葉が初登場する。
 ○浅草寺源空寺開帳(開帳期間不明)が催される。
 ○深川永代寺に高野山を写す庭できる
 ○浄瑠璃宮古路薗八江戸に下り流行る
 
・明和九年(1772年)一月、田沼意次、老中になる。
 ・二月、浅草寺西宮稲荷神輿を渡す。
 ・二月、市村座で『菅原伝授手習鑑』が大入りとなる。
 ・二月、目黒行人坂火事、中村座市村座や吉原遊郭などを焼く。
 ・三月、不忍弁財天での京真如堂開帳を含め3開帳が催される。
 ・四月、両国薬研堀新地で曲馬興行、評判甚だし。
 ・四月、内藤新宿で伝馬宿再開、人馬継ぎ立て開始、飯盛女置かれ繁昌する。
 ・夏頃、小日向妙足院開帳を含め2開帳が催される。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・四月、疫病が流行る。
 ・八月、荏原郡鵜木村光明寺開帳が催される。
 ・八月、大風雨、賤民の困苦甚だし。
 ○三田魚籃観音開帳(開帳期間不明)
明和年間○浅草田圃の「酉のまち(市)」に人気が出る。
 ○谷中笠森稲荷境内の茶屋の美人おせんが評判高く、錦絵や手鞠歌に出る。
 ○浅草奥山銀杏木の下楊枝店のおふじ美女の聞こえあり。
 ○新内浄瑠璃が流行
 ○生け花の諸流が江戸に進出
 ○長命寺門前の桜餅、土平という飴売りが流行り、洲崎弁天に料理茶屋開店
・安永元年(1772年)十一月、回向院で勧進相撲が催される。
 
・安永二年(1773年)三月、深川八幡で勧進相撲が催される。
 ・春頃、牛島長命寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・四月、相州江ノ島上の宮弁財天開帳に江戸より参詣者が多数訪れる。
 ・四月、築地小田原町浪除稲荷祭、町々より山車練物出す。
 ・六月、疫病が流行る、前年からの死者19万人におよぶ。
 ・七月、湯島天神で摂州四天王寺聖徳太子開帳を含め2開帳が催される。
 ・七月、三座で『聖徳太子伝』の狂言、大当たりする。
 ・夏頃、洲崎弁財天開帳を含め7開帳が催される。
 ・十月、素人相撲興行での木戸銭徴収が禁止される。
 ・十一月、中村座で『御攝勧進帳』初演、大入りとなる。
 ・十二月、神田明神社仮殿にて祭礼の式を執行する。
 ・冬頃、厳冬で隅田川が凍り、通船が滞り物価が上がる。
 ○深川元木場材木町の金七が39貫200匁の力石を持ち上げ向島三囲神社に奉納する。