★凧揚げ(安永二年閏三月・四月)

江戸庶民の楽しみ 28
★凧揚げ(安永二年閏三月・四月)
 閏三月は、現在の4月末から5月である。四月は現在の6月である。閏月をいれた暦、現代では何とも感覚的にしっくりしない。ただ、旧暦では四月から夏としているから、そう見ればわからないことはない。季節は春から初夏、梅雨へと移り、一年でも最も過ごしやすい時期である。天候も比較的恵まれていたものと推測され、信鴻は閏三月に凧揚げを6回も行っている。まだ大和郡山藩十五万石の大名であるのに、と思うと微笑ましくも感じる。そして、凧揚げについての資料は意外と少なく、実際に行った記録をあまり見ない。日常的な活動は、記録に残りにくい典型であろう。大半の記述は、正月の遊びであるくらいで、日時や誰がやったという具体的な記録がない。その点で、信鴻の記録は興味がそそられる。
 当時も凧揚げの主役は子供であり、大の大人が興じていたのを半信半疑読んでいた。しかし、よく読めば単に凧をあげるだけでなく、競って相手の糸を切り合い獲得するようだ。「前町の風巾を長屋の児等取んとて小風巾をあけ懸而二つ取られし故風巾緒を遣す」「総四箇を取り、万字ハ破れ、余二つ家中児輩へ遣し」など、面白かったのだろう。この年は三月七日から四月七日まで9回も行っている。凧揚げに夢中になったのは、信鴻だけではなかったようである。七年後に、大田南畝は「黄表紙評判記『菊寿草』(天明元年)に「草双紙と凧は大人の物になつたるもおかし」と記している。
 さて、信鴻は凧を「鳳巾」「風巾」と記している。「凧」は、中国では使われていない。日本で作られた国字である。鎌倉時代までは「紙鳶」と書かれ、使われるようになったのは江戸時代になってからとされている。実際、触れ等の正式な文章には「紙鳶」が使用されていたようだ。また、凧をあげる季節といえば、正月を思い浮かべるだろう。しかし、信鴻は現在の5月に集中している。正月の風物詩としての凧揚げ、いつ頃から浸透したのであろうか。そこで、凧揚げを禁止した触れ等を見ると、必ずしも正月ではない。
・正保三年(1646年)三月、紙鳶を禁止する
・承応三年(1654年)二月、紙鳶遊びを禁止
・承応四年(1655年)一月、子供らの紙鳶遊びを禁止
・万治二年(1659年)一月、町中の紙鳶・辻立・門立を禁止する。
 禁止の理由として、正保三年では「的場曲輪へ火を添えた紙鳶を投げ落としたもののあったことが理由」とされている。危険なことから禁止する理由はわかる。他には、凧が音を立てて煩いこと、子供が集まり喧騒であることが禁止の理由と、もっともらしく語られている。しかし、そんな理由で本当に禁止したのであろうか、安永二年以後に凧揚げが禁止された触れを見つけられなかった。もちろん、凧揚げがされなくなることはなく、子供だけでなく、大人にも人気が続いたことは言うまでもない。
 なお、信鴻の凧揚げは、翌年には2回しか記されていない。それも、正月の二十二日と二十三日であり、それ以後にはない。住まいが町中でなくなったため、周辺で凧揚げをする人が少なく、ゲームにならなかったためかもしれない。さらに安永四年には、全く凧揚げをしていない。安永二年の凧揚げは、周辺で凧が多く揚がっているのを見て、面白そうで誘われるように行ったものだろう。

閏三月
朔日 庚申晴雲あり
○庭花の台をなをす
二日  快晴大暖単服○夕かた大に陰り夕より又快晴巽風
三日  大霧五過より快晴南風西に風雲
○夕風巾をあくる、前町の風巾を長屋の児等取んとて小風巾をあけ懸而二つ取られし故風巾緒を遣す
○募頃要帰、鉢殖、目六にて貰ふ、お隆酒貰ふ
四日  雲あり
采女原へ交如遣し、楓鉢二箇求む(青葉・八しほ・名月)
五日 快晴白雲流○更馭○丑過より大風大起
○朝後房にて音字風巾をあけ、町へ取て遣る
○前町、万字風巾・松狐風巾・磐若風巾・今朝の音字風巾、総四箇を取り、万字ハ破れ、余二つ家中児輩へ遣し、赤豆糕与ふ
六日 繊雨蕭々タ晴
○八ツ前霞関芸州侯向ふやしき火事、火気よく見ゆる、皆出る、寐所より出て町へやへ行、火事を見る、無程消火
七日 くもりのち子より雨
○風巾あくる、前町、万字の凧を取る
八日 雨森々
○栄蔵、親紡の花持参、花筒に投す
九日  霖淫蕭々寒
十日  霖雨昼夜不晴夕かた止む又繊雨
○夕雨止み菜をつむ
十一日  快晴艮風
○昏過せの帰、桃鉢うへを貰ふ、お隆陶酒を貰ふ
○暖龍庭のさいかち持参
十二日  大いにくもる未より雨折々至
○庭の蕪菁を摘み六本木へ奉る
○蔦細道の蔦を鉢へうつす
十三日  陰勝凱風大烈万□爽風颯昏繊雨少至雪と大雨如覆瓶亥止
○欐来、針殖つはき、花菖蒲貰
○風巾あくる、南風大猛、前町に取らるゝ
○八過風殊に烈しく馬場の杉二株倒るる
十四日  大にくもる東風
○海石榴鉢置を欐に貰ふ
○風巾を上る
十五日  大陰四過大時雨辰頃月色清
○お隆に藤鉢殖を貰ふ
十六日 立夏雲あり大にくもり昼より霂霡折々至七過より大快晴月色清
十七日 快晴
○風巾を揚、東風よくあかる
○もと花壇芷・一八・菖蒲花咲ゆへ掘らせ鉢へ殖る
十八日 晨朝過雨二度朝晴昼雲る八過より西方軽雷昏前巽方に納る白雨夜又白雨甚雷
十九日 雲靉□八半より坤微雷白雨如□甚者一声昏而雷雨止
二十日 朝快晴凉九過より坤方雲出幽雷七八声南に去天色よし八過雲通り夕晴
廿一日 雲有冷気東風
○雪下蚫に殖たるを貰ふ
廿二日 雨滂沱夕過次第に晴るゝ
廿三日 快晴
廿四日  快晴風
○舟廻し石燈・梅接木着、梅ハ枯損一本、薄も着
○交如を愛宕へ遣し一楓鉢殖三ツを求む(野村・手前山・鴫立沢)
○お隆五半過帰楓接分一鉢貰ふ(鶊山・限鴫立沢)
廿五日  陰勝蒸暑
○九半啜龍等来、楓鉢置貰ふ(今錦)
○千両二鉢・唐橘一鉢、駒込へ奉る
廿六日 陰九より雨滂沱艮風
○要につき分楓鉢うえ貰ふ(二五三かきり)
廿七日  雨折々至雲冥々
○四過六本木より御出、楓接分鉢殖二つを給ふ
廿八日 雨風さはかし北風夜冬のことし
廿九日 朝雨四過より大に晴くれに陰
○園の蕪菁をつみ、町母へつかハす
四月
朔日己丑 はるゝ
二日小満 大快晴
○園の蕪菁をつみ、町母へつかハす
三日 大陰
四日 九前より雨沛然
五日 次第にはるゝ
六日 天気よし南風除
○鳳巾あくる
●午の日、築地小田原町浪除稲荷祭、町々より山車練物出す
七日 快晴
○夏菊花を木俣に貰ふ
○鳳巾あくる
○暮前住かへる
八日 快晴夕大にくもる東風
九日 薄陰八過より蕭雨
十日 晴て南風爽々
十一日 薄雲九半比北一面黒色幽雷二声昼頃巽へ去る八前より大快晴
○段兵衛より楓鉢うへ四ツ貰ふ(浦苫や・初楓唐棧錦・猩々)
十二日 快晴
十三日 霞夏景
十四日 陰昼より小雨森々終夜不止
○木俣・雄島、愛護にて練くやう有、鬼・幽霊なと出すよし風聞ゆへ見せにつかハし、夏菊貰ふ
十五日 辰より雨滂沱南風烈八比より雨止蒼天見夜風大猛
○町に鉢うへ目六にて貰ふ
十六日 陰雲八前より折々南止風強
十七日 雲次第にはれ風爽夕快晴月清無程雲る[比頃袷単物の時候]
十八日  快晴少暑今日より八畳に往
○庭南へ葭簾さしかけ、折衛門・仲衛門等造る
十九日  十九日大快晴暑昨日より暑し月清夕南風
○折衛門等庭へよし囲ひを造る
廿日 大に曇り南風爽々
廿一日 快晴大昊薫風涼  
廿二日 朝曇南風出次第快晴風爽颯
○染井より花菖蒲十七品来
○半左衛門より蔓萩貰ふ
廿三日 雨蕭々折々止大蒸熱夕大晴東風一陳大冷忽雨止
梅入廿四日 快清すゝし
○森衛門に石竹夏気白長春貰ふ
○交姑宕山へ行、葱草二・石菖菊求来
○立三・松悦・仙順・愛宕土産に夏菊貰ふ
廿五日  霞すゝし
○町に楓接分鉢うへ貰ふ(青したれ・手向山)
○筆に釣り惹・かよに鎧通桃・糸薄鉢うへを貰ふ
廿六日 陰涼し東風颯々東風[爽風]タに大に涼し
廿七日 大冷気快晴次第に霞
廿八日 陰涼夜より蕭雨
廿九日 大陰霂霡少、夕霂霡折々至昏より蕭雨更て沛然
三十日 淫霖大澍
○藤田よりいさ葉いてう貰ふ
●四月、相州江ノ島上の宮弁財天開帳に江戸より参詣者が多数訪れる