放屁男と開帳

江戸庶民の楽しみ 34
★放屁男と開帳を楽しむ・安永三年三四五月
 三月以降の出来事を『武江年表』から示すと、行楽シーズンの到来を受けて開帳が続々と催される。「三月十八日から魚籃観世音開帳○四月朔日より六月二十一日迄、大師河原平間寺弘法大師、中瀬稲荷、回向院にて開帳○同月四日より六月八日迄、本所表町本久寺祖師開帳○四月八日より五月十八日迄、木下川薬師如来○永代寺内丈六観世音腹龍佛開帳○四月十八日より六月八日迄、浅草寺観世音開帳○西門跡御対面所にて、信州植科郡白鳥山康楽寺圓光大師御影、親鸞上人木像開帳○二本榎廣岳院にて、仙臺往生寺孌牛済度圓光大師開帳○六阿彌陀末木観世音開帳、西が原昌林寺○同三番西が原無量寺観世音開帳○四月十八日より六月八日迄、浅草寺内日音院雨寶童子、松壽院おたふく辨才天開帳○五月十六日より、龜戸天満宮が開扉を催す」。そして、四月にこの年最大の話題となった、「放屁男」の見世物が両国で興行を始まる。『武江年表』には、「放屁男見世物に出づ、霧降咲男と云ふ、大評判、平賀溪放屁論と云草子を作る、咲男は錦畫にも出づ」とある。
 この「放屁男」は、平賀源内に『放屁論』を書かせた。では、どのようなものであったか、『放屁論』などによると、小屋前には「昔語花咲男」と書いた大幟が風に翻り、入り口には絵看板が掲げられていた。その絵を見ると、奴扮装の男が尻を上に立てて、その尻から梯子を初め三番叟の鈴、さては水車等が吹き出ている。木戸を這入ると、舞台の中央に中肉中背で、藍色の単衣と緋縮緬の襦袢を着た花吹男が控へて居た。先づ最初は、目出度三番叟を屁で放ち、自から口上を述べ終るや、下座の囃子に合はせて、トッピヨロ・トッピヨロ、ピッピッと拍子よく放る。次に東天紅一番鶏の馨をブ・ブウーブウの屁で髪鴛たらしめ、其後で長唄浄瑠璃に合はせて、調子よく鮮かに放り分ける。最後に淀の水車と就けて、ブウブウブウと放りながら、已が身体を車返りにする態は、さながら水車の水勢に依って回転しつつ、汲んでは移す風情があったという。かく花吹男の曲屁は、見世物初まって以来の珍興行で、然も近古の御伽物語として名高い「福富草紙」の織部(絵巻物には秀武)が曲屁もご三舎を避ける程巧妙であったから、江戸市中の人気を一身に集めて、附近で興行の見世物が潰したとの噂が高かった。
 
 さて、信鴻の日記から三月を見て行くと、「朔日甲寅  曇東風晩北風夕霽○ひいた立る○禿一対雛・上下人形、お律へつかハす」とある。恒例の雛飾り(雛祭)は朔日から始められ、五日の日記に「お隆、米駒へ禿人形遣す」とあり、その後は人形に関する記載がない。前年は、二月二十七日に最初の記載があり、三日には「雛酒饗応」が行われていることから、雛飾りは五日間ほど飾られていたのではなかろうか。
 
 次は花見、「朔日○七前より啜龍・珠成同道、供(略)飛鳥山王子権現(略)稲荷、帰路路考か茶屋へ立寄、父に逢(略)碑に順ひ岩窟弁天へ行、磴道を下り窟に入る、百姓葱を滝の川に洗ふ故か窟中甚葱くさし、門前より直道をゆき南行、風北に成、陰少し晴るゝ西天入旦麗し、左右春朧雲雀の声所々に聞ゆ、洞津侯前よりかへる、屋市北角にて提燈とほす○飛鳥山華未開」。開花は、前年安永二年(西暦4月11日開花、16日満開)より遅れている。信鴻の庭のサクラの満開は、十二日(西暦4月22日)で、寒かったのだろう。信鴻が飛鳥山へ出かけるのは、二十二日(西暦5月2日)である。「途野人等多く風流ならぬ」と人出があったことから、サクラは咲いていたものと推測される。
 そして注目するのが、八代将軍・吉宗により、享保二年に隅田川の木母寺前から寺島村上り場にいたる堤に植えられた桜である。五十年余前に植えられたのであるが、「木母堤、桃桜を並へ殖る事三四町はかり」と健在であり、江戸庶民を楽しませていた。3~4百m程に、サクラだけではなくモモも植えられていた、とある。本当に、モモが植えられていたのだろうか。信鴻の植物知識から、モモとサクラの違いは判別がつくはずである。
・三日 快晴南風烈八過一挙雲出七過雲去風止○八過より他行、供(略)富士前より谷中通清水へ詣、山王より広小路、例の茶屋にて少休み、今日大師谷中口蓮光院人叢分かたし、殖木数百本出、松・楓等の直を付る、中町より雛鄽少し有、八寸切禿直を付る、不負、又却行山下を廻り広小路より(略)油島参詣、京屋にて喫飯(略)○座敷見はらし都東一面(略)暮頃起行、本郷通り大番町入口にて挑燈をとほし、六過帰家
・七日、快晴孤雲飛北風勤寒つよし○八前より他行、供(略)動坂より日暮里、舟繋松にて遠鏡を見る、直に上野清水山王にて休み、浅草境やへ寄、お袖不在、裏門より聖天町、真崎稲屋離亭にて支度(略)七半頃起行、土手白玉やにて小休、日よけ通りかへる、いろはより提燈とほす、六半比帰家
・八日 大快晴寒○昼九半よりお隆、真崎、日暮里、五町々に遊ふ、夜四頃かへる由、供(略)
・十一日 五雨止大霽四比より弧雲出没西方の雲夕かた一面にみち暮に小雨南風大暖○八前より米社同道他行、供(略)富士前より日暮里(略)日暮の門へ入らす、直に佐竹前より阪道にかゝり、女花子に道を問、日暮の後ろより日よけ石橋へ出、正等寺へよる、楓樹数百株為林、白玉やに休み堤を南へ、堀船宿三河や江(略)舟を借らせ、直に平駄にのり三囲桟橋へつく、浪不温、稲荷参詣、牛御前より白髪前(略)木母寺へゆく、木母堤、桃桜を並へ殖る事三四町はかり、木母寺茶やに小休み、寺を出、角田のわたしへ出、大神楽五人・町人一人舟待し居たり、舟ハ西岸に在、岸より呼ふ、漸々に来、大神楽と同船、風つよく汐時あしく波高く、舟七八度うねり舳へ浪をうちこむ、真崎へあかり稲荷へ詣、稲やに休む(略)七半頃西方の雲黒く一面に満つ、程なく起行(略)土手より行し時の通り日暮後にて先導石河道に迷ひ、半町はかり左小径へ入、又本道へ帰り出、日暮脇より提燈とほし、六過帰家
・十二日(4月22日)  小雨○此頃庭前の桜満開
・廿六日晴霞暑○七つより飛鳥山へ行、(略)途野人等多く風流ならぬ故、黒闇坂より田畔を左行、左右麦隴長し、風景好、道行人群集道灌山にて野童土器を投、(略)日暮岡人群集、繋舟松の遠目鏡、霞みて見へす、感応寺のうちより大師参詣、夫より弁天参詣、広小路例の茶屋に休み油島へ行、祠前二間め水茶やに休み、榊原前より根津通り、お鷹へや前にて日暮、六過かへる
・廿八日 快晴○八半より雑司谷へ行、供(略)辻番より西行、火番町、原町、二枚橋より畔道、猫また橋前より大学の舘の中道より波切不動、護国寺内(略)水茶やに休み、雑司谷淋し、福山やにて蕎麦を喫ひ、かへり同断、猫また橋より和泉境、暮過かへる
四月
三日  快晴飛雲東風昼過より雲多暑八半比よりすゝし○九半頃より川口善光寺へ行、供(略)稲付左側水茶屋に休(略)稲つき迄直路五十町計、右折六七町川口川仮橋百間計、橋を渡、三町計右折、大門先五六町、善光寺也、塗中参詣の帰、群集辻博突数所、本堂霊宝開帳、堂左に霊宝場有、心橋をわたり又心堂に霊宝有、門前左側二間目、民家茶屋を出せる奥に、四畳葭囲ひかりや有、那処にて弁当、供ハ蕎菱を喫、無程帰賂、日色かくれ涼し、来時ハ単物にて暑し、稲付右側山上道灌墓所浄勝寺をみる、澄道たかし、小堂に道灌の木像開帳、老人一人有て縁起を演説す、彼と咄す、小堂下則墓所也、堂外左側田中道灌親殖五葉松を見、小札五絶二首を題す、幡松岡いとふ稲荷参詣、路考茶屋に休み王子へ詣つ(略)七過牡丹花屋の前の水茶やにやすむ、行時比壮の花を見んと内へ入しに、門中大名奥方の供群居、門に紫幕を打、入へからさる故直に行、帰時も未かへらされハ無程帰るへけれハとて、四半時計那処に待つ、半下女唄うたひ左右二三町の間を歩く故いまたかへらさるを知る、供にとへハ洞津侯西台のよし、無程かしこを去り暮前帰る。
○七比より、お隆、染井の花や・西原・飛鳥山遊行、供小枝・五味・上田・上村・庄左街門・文右衛門・折衛門・宗治・森右衛門・幾浦・喬松院・袖岡・住・八百・谷・苓・筆・石・仙橘・万吉・大吉・かよ・さま・半下二人、六過帰
・八日  快晴○九過より龍華庵灌仏会に行、お隆同道(略)家中婦人参詣、庭をみする、程なく帰る
・九日  快晴昼一より薄かすみ○八半より回向院開帳へ行、供(略)富士裏より桟崎、不忍へかゝり、長老町、堅町、和泉橋、柳原より廻向院○清水門前にて桑名隠侯西台と行違ふ、塗中川口参群集、両国にて出石侯西台と行ちかふ、廻向院左側仮屋、大師河原平間寺の大師開帳(略)右側第一戸つなき茶屋に休み直に起行、新橋より直北行、絃水にて左折、妙仙院前六呵弥より広小路、例の茶や客有ゆへ北隣吾妻屋に休み、山うちより日暮里にかゝり富士前にて提燈つける、暮て帰家
・十八日 快晴昼より霞む○八半過より児輩三人同道、雑司谷へ行、供(略)番所脇より加賀辻番前直行、猫又の上の橋(略)大学舘小径より護国寺水ちや屋に休み、雑司谷左側入口角のちや屋へ寄、無程藤衛門新堀へかへる、蕎麦喫し前道を暮過かへる
廿八日 朝うす曇次第に晴る昼より大快晴暑帷子夜大蒸
〇七過より児輩同道浅草開帳へ行、供浅野・渡辺・村井・高橋、児輩浅野と先へ行、門前にて村井追就、千駄樹にて渡辺追就、弘徳寺前三河や水茶屋にて少休み、浅草夕かたゆへ群集ならす、雷神門中村坐提燈、堂左右吉原女郎やよりの提燈数多、銀杏女鄽にて楊枝買帰、かけ境屋休む、お袖在、取肴菓子、お律手遊西瓜割売の落雁土産に需む、上野にて暮六つ、提燈つける、五前帰る
五月
・十日  快晴暑猛月清七過風凪○七過(略)無程他行、供(略)谷中通り備後前にて子建追就、宇平次庭を見る、覚成院大師参詣、願鮮護摩頼み、広小路例の水茶屋に休み、其内向ひの鰻やにて浅野鰻を求む、同処にて岩檜葉・愛宕蘇求む、弁天参詣鰻を放す、無程日暮、谷中通をかへる、六半過帰宅