★冬の物見遊山・安永三年十一月十二月

江戸庶民の楽しみ 37
★冬の物見遊山・安永三年十一月十二月
 江戸市中の十一月、十二月は、大きな出来事がなかったようである。十一月の信鴻は、十二日、十四日、二十四日と3回も芝居見物に出かけている。人は、楽しいことに対しては、どんなに朝が早くても起床して、出かけるものである。信鴻も同様で、十二日は別録によれば、「丑に眠覚、今日、寅に起るゆへ、すぐに起き、七半より」とあるから、まだ暗い午前4時に起きて5時に出発している。季節は現代の暦で12月14日だから冬である。まだ夜は明けておらず、「本郷四丁目にて、挑燈消」と、現在の本郷三丁目交差点あたりまで来たところで、やっと明るくなった。
 行き先は、市村座日本橋葺屋町・現在の日本橋人形町三丁目辺り)である。当時の芝居は、幕開けが午前6時頃から、そして「打ち出し」が午後6時頃という長丁場であった。当日の演目は、「児桜十三鐘」・浄瑠璃「色勝日吉弊」である。信鴻が客席に着いたのは午前9時頃と思われる。しかし、信鴻達の座席は決まっておらず、「次第に桟敷極り、三度所を替」とある。
 それ以後も「第二幕の書幕(略)桟敷不定、始り遅き故、一幕ぬける」とある。そのような舞台進行ということもあって、観客の方も真剣に芝居を見る人ばかりではない。信鴻も、「鹿子餅を貰ふ」、また「甘糕折詰つかハす」とある。午後2時過ぎ頃、ミカンを貰ったり、幕間に劇場から出て、食事をしたり、今と比べると何とも気ままな観劇である。この日の芝居は、「無類の大入り」と人気があったものと思われる。ただ、日記の記述からは、何が面白かったか、どこが良かったかは計り知れないが、信鴻はたぶん満足したものだろう。
 芝居の打ち出しは「五つすぎ」、午後8時頃終わった。そのまますぐ帰るわけではない、その後、蕎麦を食べて、「五半」午後9時頃帰路に着く。「帰りお玉が池にて亥の時拍子木聞へ」。午後10時頃現在の神田駅東側、岩本町を通行していた。そして、帰宅したのは「四半過かえる」と、午後11時を廻っていたものと思われる。なお、この行程には、十人ものお供がいた。彼等がどのくらい楽しかったか、それとも勤めとして割り切っていたかはわからない。彼等は何らかの荷物を持って、早朝、夜中と歩行している。その距離は、六義園から日本橋まで、片道6㎞以上である。
 十四日は、大当たりの評判が伝えられる森田座『一ノ富突顔見世』に出かけている。二十四日は、「六半前」に出発し「五半帰る」とある。信鴻の芝居見物はすべて丸一日がかりである。また、他の物見遊山も盛んで、七日、九日、十七日、二十五日、二十九日に出かけている。

 まず、「七日 快晴大寒凍如巖昼微地震○九半より珠成同道真崎へ行、供(略)富士前不動坂より日くらし(略)舟繋松にて眺望、宝晋堂を見、崖下水茶やに休み、大黒山脇より乞食坂、道滑り大難渋、白玉やに休み、宗仙寺脇にて真崎近道へ行たる時、四十計の男、今日道甚恐し本道を行給へと懇に云て別る、行かけ千石やにて帰掛に立寄んと約し稲荷へ行、仙石やへよれハ今道を教し男出て挨拶をする、則鄽主なり○茶飯(略)暮前起行、穴沢先導三谷町へかかり、上野へ行んと二町計入る、兎角浅草道の様に思ヘハ町家にて向ふ上野の道に非る由いヘハ引かへし、いつもの道より帰る、屏風坂へかかり挑燈を付げ、六ツの拍子木聞ゆ、(略)六半帰着」。
 「九日 朝曇昼晴八比より南東大雲晩に東へ流昼少暖夕西風寒○九半より珠成同道浅草へ行、谷中通、供(略)上野へ入、屏風坂上の門より出、山下門の手前の小路にて左折、宗延寺といふ法華寺のうしろ、板倉やしき前より茗荷や店にて軽焼求め、浅草へ行(略)境やにて休み(略)観音参詣、うらを廻り奥山へ行、見せ物等みななく甚寂塞、堂左より本堂前へ出しに、堂前女乗物二挺供廻り陸人等多けれハ、又本堂へ上りみるに、内陳に奥方らしき二十計の婦人、其余女中七八人皆綿を被り祈念、食頃はかり下向を待てとも間あり、漸祈念すみ堂右へ出る容子ゆへ容貌をよく見んとて堂左へ廻り、堂右へ出る頃彼婦人等堂を出行違ふ、人に聞けハ諏訪侯奥方のしのひ参詣の由、下向に黒門わき(略)、開運大黒にて実朝大宋より伝来の仏牙開帳ゆへ入て拝す、(略)夫より竹町の橋へ行、半迄渡りかへる、此橋を大川橋といふ、夫より並木を下り(略)、二町下りて西行、門跡前にて墨やへより机案を見、柳稲荷例のちや屋に休み、山下よりかへる、不動坂にて挑雌に火を点し、六頃帰家」。
 「十七日 朝六半過小地震五比地震風止快晴昼西風出八比より止大快晴○九過より浅草へゆく、供(略)谷中通り上野車坂門より門跡前にて筆屋の書棚・机を見(略)境やに休む、鄽に母在、本堂参詣久米平内を見(略)並木にて山川求め、瓦町角林屋へよりしつほこそはを喫、帰掛又門述前筆墨やへ立寄、山下より中町通り烟入やにて烟入を穴沢に求させ、榊原より根津へかかり、六過帰着」。
 「廿五日 快晴冱寒八前より大雲出没西風七半前北落し風大烈霾風冥々○八過より珠成同道油島参詣、供(略)吉祥寺へ入、本堂を見裏門へぬける、大雲西より東へ流る、森川宿にて鵠十羽空に舞ふ、加賀門前より裏道油島例の茶屋に休み、女阪下にて鸚鵡石・顔見絵尽買ひ、中町にて小道具を見、又絵本やにて似面紅絵買ひ、諸所小道具やへより、三枚橋内右側茶やに休む時、老人傀儡師鄽にて人形つかふ人立有、七過に彼処より上野へ入んと黒門近く行時、北風俄に忽り一陣のはやてふき出、土を吹立咫人も見へす、前行すへからす、土手の石垣の角へ皆こそり風を避くうち、人縦横には広小路一面土起り烟のことく一面土けふり空に満ち、町家もことごとく見へす、しハらくして土煙少しうすきゆへ池端を風に向ひ行、寒風当りかたかた西より南風雲みち木々鳴事雷のことし、塗中北風身冱へ、暮少前帰家」。
 「廿九日 晴有雲西風八比より快晴北に雲あり暮過大風出五過雨幽雷十声計にて止四過星光燦々○八半頃珠成同道近郊へ出、供(略)北行右折権兵衛庭を見、又屋布脇へ出、右側花屋植木二軒へ立寄、牡丹花やを見、華や仁平次植溜を見、二平次出、直に前行仁左衛門を見、仮山甚幽深、夫より飛鳥山手前にて左折、西原源五衛門庭を見、仮山よし、山上に小亭有て小休み、植溜を見右行、畔道を又大道へ出(梅・槇・桂樹有直を聞しむ)薪屋甚八へ新助をやり立寄ん事を申つかハす、僕出道霜鮮にて大滑ゆへ春来へき由断るゆへ帰る、二町計過て前の僕来、主人の通し申ささるを甚呵し由追つきていふゆへ、重而行へき由申遣し、暮れ前帰る」。
十二月
 「七日 快晴昼より雲出没乾風烈東に洞雲満七過少地震之由○九過より珠成同道浅草へ行、供(略)谷中通り、上野にて北風出次第に寒し、柳稲荷三河やに休み、境やに休む、お袖鄽上に有、浅艸にて尊像三ツ買、並木にて中車紅絵三ツ買、駒形手前迄ゆく、昨日並木街道湯漬家具よき由いヘハ尋しに見へす、又引かへし君か代しつほくへ立寄そはを喫、御堂前筆屋へ立寄、行し時見たりし中字筆を求め、お隆に約束の風呂を尋れとよき風呂なきゆへ、中町へ廻り、和泉前にて村井挨拶するゆへ見て通り、小室焼風呂を買由兵衛懐中、弓みせあたり迄ゆき引返し三升おさんの絵を買、三枚橋三河やに休み、雄島ハ池端近いといふゆへ廻りくらせんとて、珠成・雄島・由兵衛池端へ別れ行、又寒松院前にて穴沢稲荷の右へ分れ行、先にて丁度に逢、いろはにて珠成等二町計迎に出、首ふりにて挑燈つけ、不動坂にて六ツ拍子木打、暮過かへる」。
 「十一日 大快晴八過より西より北へ次第に洞雲出暮前北風大猛夜中殊に強○八ツより閑歩、供(略)土物店より鱣縄手樹屋を見、油島参詣、例の茶屋へ立寄、御旗本らしき侍二人来ゆへ無程起行、西より北へ洞雲満、女坂より下り中町手前墨やにて筆立買ひ、中町より山下、車坂、谷中通、千駄樹樹やにて室を見、紅梅鉢うへを買ひ、不動坂にて北風大に出甚寒し、暮少前かへる」。
 「廿三日 快晴北風、晩西南洞雲靉靆○九時より蟹龍・珠成同道他行、供(略)兼而堺町松やへ行んと思ふ、富士前にて止め浅草へ行、谷中通り、上野山中稲荷の前にて六十六部一人同行、笈に大坂天満と記すゆへ各いつ頃より修行に出しと問ふ、六部かいふ、去年七月故郷を出是より坂東を廻り奥州へ行、北陸を経て故郷に帰れハ四年計にて帰るといふ、珠成恐しき事の有やと問ふ、答て日、只二度野宿しはへる、丹後常津の山中にて行くれ山中の壊祠に宿す、丑の刻計に社人の如き白衣したる者来り、枕もとをあららかにふみ鳴すなといふ内に、予ハ車坂へ東行し、六部ハ三縁山に詣する由にて直行し終にわかる、柳稲荷三河やに休む、畷龍いへる、浅草の何某庵とかやいへる麦飯を喫せしむ、精菜にて家具甚乾浄の由、それに行給ハんやといふ、それこそ興あらんとて行、戸つなき堺やに下女有り、暫く休み右の庵を問ふ、答て日、夫ハ梅若の母の墓有て寐寝庵といふ由、馬道の富士やといふ餻屋にて右折、馬場にかかりゆけと云、観音へ詣し御影六ツ求め、岑願鮮の頭巾を賓頭盧に冠らしめ、直に裏門を出、ふしやの老姻に間ひ藪下馬場へ出、それより壷山聖天に詣、長川を眺望し真崎手前迄ゆく、石川前導余り遠くゆくゆへ道にてとヘハ、既に過行し札辻より行けといふ故、引かへして札の辻より北折、左右みた精舎忽二常に真崎へゆく道の濡地蔵の前へ出、その藪かげの庵妙寐の偏額をかかく、喜て内に入下、僕井端に米を洗ひ居たりし故、麦飯望にて来しといヘハ、今日主僧家に非るゆへ麦飯出来す、昨日も明日も麦飯有といふ、詮方たく庵を見て出、嘉七を仙石やへ今行事いへとて先へ遣し、梅若の母の墓を見る(略)夫より裏通り稲荷へ詣、仙石やへ行、菜飯.汁脇苔・漬物}唖・大平備讐。肉蛆。菜知・田楽、お昌みへす、問ヘハ先月揚や丁質屋へ嫁せし由、七半頃起行、楽やの垂を取て被る三待通り感応寺内を通り、彼処にて提燈をつけ、六半前帰家」。
 「廿四日 快晴北風寒夕西南風雲靉靆○四過より他行、供(略)庭より駕にて小石川通り、焼迹大かたかこひ出来、風大に寒し、角頭巾出来今日より被る、猿楽町通り、神田橋外両替屋にて駕を立、供不残袴を着、神田橋通り御溝永張つめる、上邸裏門より入、無程辰口御出しらせにて裏口よりかへる、九前也、烟袋貰ふ、新道より愛宕参詣、大に群集如例、女阪より行き北の崖側茶屋に休み、無程切通しより長井町万金丹の坂より六本木南門へ入、七ツに起行、南門より東行、十番橋より新堀へ行、(略)無程起行、中の橋より森元町、切通し、増上寺裏門前隠岐脇にて正隆に逢、土橋より鍋丁通り浜田や脇より通町、銀座二町目宮城野にて休み駕にのる、日暮挑燈点し駕にて六半かへる」。
 「廿五日 快晴北風昼過西南雲靉靆○九過より油島参詣、供(略)富士前より根津通り女坂より参詣、例の茶屋へ寄、少し先き三五郎・三四郎・友衛門来休みし由いふ、無程中町通り上野へ入、山王より清水へ詣、お隆・住・等頼みの賓頭盧を撫、夫より谷中通りかへる、西南雲次第に出風次第に募り、八半かへる」。
 十二月は寒く、『武江年表』には「この冬寒気つよく、両国川氷りて巳刻まで舟の往来絶し事あり」とある。信鴻の二十四日の日記は「神田橋通り御溝永張つめる」と、川が凍っていたのだろう。他に、『武江年表』には「投扇の戯行われ、貴賤是を弄べり」とある。同日に「愛宕参詣、大に群集如例」とも記されており、江戸市中は寒いものの活気があったものと推測される。