平穏な安永四年一月~五月

江戸庶民の楽しみ 38
★平穏な安永四年一月~五月
★一月
 信鴻の日記から正月の様子を見ることにする。
元日○花屋権兵衛に福寿草貰ふ、浅野に鉢うへ接分梅貰ふ
三日○妹背山へ穴沢妻召連、羽子をつく○新助来、絵本四の時貰ふ、おりう羽子板・道中双六貰ふ
四日○妹背山にて羽子を突
五日○節分祝如例
十三日○三河万歳来、舞
十九日○昼お氷より年始の文来
廿一日○風神門内鳥取侯西台観式参詣人群集、観音へ詣
廿六日○新堀へ行(母・利知子宅)
廿七日○三花より年始状来
 信鴻の元日は、何か改まった儀式とまでいかなくても、新年を迎えた催しがあるかと思っていたが無いようである。また、元日に身内以外の人が訪れ、贈り物(福寿草)をしている。正月らしい事といえば、三日と四日に「羽子をつく」と羽子板が楽しまれた。また、「おりう羽子板・道中双六貰ふ」と、双六も行われたと思われる。
 そして、「節分祝如例」とある。何が行われたか詳細はわからないが、書き留めるほどのことはなかったのであろう。
 三河万歳が訪れ、舞っている。日にちは偶然かもしれないが、前年と同じ十三日である。
 十九日に「年始の文」。廿七日に「年始状」。当時も正月の挨拶状はあったとわかるが、元日に限らず、かなり遅れても良いようだ。
 現代では、元日の初詣は賑わいを見せるが、当時はなかったようである。信鴻の浅草の初詣は廿一日、「参詣人群集」と混んでいた。お参りに出かけた浅草は、いつも混んでいるのだろう。
 母親の所(新堀)へ廿六日に出かけた。新年の挨拶に伺ったものと推測する。
 以上の日記から、正月らしさは十分に感じられるものの、現代のような慌ただしさがない。いつまでにしなければならないことが無いようだ。信鴻を含む、江戸住民に影響を与えたのは、天候であろう。雪は立春に降り、次いで十五日からの雪は20㎝以上も積もる。二十六日には、春一番が吹いている。そんな季節の流れに応じて、暮らしいたものと思われる。江戸の一月のでき事としては、事件らしきものは無いようである。上げるとすれば、中村座の『垣衣恋写絵』、仲蔵の大日坊と葱売りの所作が大評判となったくらいであろう。
★二月
三日○明日初午にて久護稲荷終日太鼓打
六日○八より他行、供(略)谷中通り妙喜庵へ(略)かさ森参詣、夫より感応寺裏門に入る、(略)浅草へ詣んとて上野へ入り、森の内大師茶や前を過る(略)車坂より浅艸へ(略)錦絵似面を買ひ、坂下にてふくへ烟入を求め(略)直に山内よりかへる、御手鷹町にて挑燈つけ六過かへる
八日(別録)より○市村座頑要。
十一日○八過より(略)和泉境より巣鴨稲荷恵方ゆへ参詣、夫より巣鴨本道庚申塚手前にて右折、小径に入道大滑、御用林を廻る塗沼の如し、伊兵衛庭を廻り見る、庭中木葉埋み去々年より又々零落、和泉長屋前にて左折、西福寺稲荷へ詣、六阿みた前より本道へ出、薪や吟八へ(略)宗咋甚乾浄仮山奥深彼処(略)暮時起行
廿五日○八過より(略)土物店より行(略)加賀前より湯島参詣人叢分かたし、例の茶やに休み植木を見、松二本・榎一本求め(略)坂の角の茶やに休む(略)女坂より中町通り山下を廻り山王下の茶やに少休む、塗中甚賑し、黒門にて七ツを聞、五条天神・清水へ詣、日暮しへかかり、見晴しの茶やに休み(略)六時帰着
 二月は、各稲荷で初午が催された程度で、一月と同様、大きな事件らしきものはなく、江戸の町は平穏無事ということだろう。なお、信鴻の日記からは、ガーデニングに忙しかったと見えて、外出が少ない。出かけた場所で気になる記述は、「伊兵衛庭」である。かつては江戸随一との評判の植木屋であったが「庭中木葉埋み去々年より又々零落」とある。通称、「霧島屋」、伊藤伊兵衛が経営する植木屋だろう。
★三月
一日○八過より(略)谷中通天気暖和春光熈々無一拳雲影、上野へ入、広小路梅本やに休み、御幸小路より柳原の河岸通り、両国水茶屋に休む(略)帰り並木通り榧寺へ参詣、駒形より西折、御堂前通り(略)弘徳寺にて晩鐘聞ゆ(略)広小路藤や(略)六過起行(略)上野うちより帰る、千駄樹にて六半拍子木聞ゆ、六半過帰宅
二日○雛人形・雛菓子を小兵衛女児に遣す
十三日○(略)九過より出(略)谷中通上野本筑御修復御小屋林中にかかる、屏風坂より北門弘徳寺前三河やに休み、浅草参詣、吾妻橋(浅草群集)三囲参詣、野遊の人多し、牛御前参詣、牛絵馬を僧に借り、弘福寺を廻り秋葉参詣、池辺茶やに休む甚賑也(略)三辻の茶やに休む、(略)吾妻橋にかかり(略)広小路ふしやにてそはを喫し(略)油島参詣(略)加賀まへより本郷通り肴店手前にて六の鐘聞へ、挑燈つげ六過かへる○八半よりお隆王子飛鳥遊行
十六日○八半より(略)日暮へ行、人叢難分、土器投を見(動坂にて児輩喧嘩)感応寺内町家五十余の親、二十四五の子を折濫するを見る、上野より清水参詣花見少し有、山王へ行、単桜・桃李満開、広小路梅本に休む(略)根津通り帰る(略)帰宅六の鐘聞ゆ
 三月の節句、雛祭りは今年も行われたのであろう。二日に「雛人形・雛菓子」を「女児」にあげている。
 信鴻は、三月に3日しか出かけていない。その理由は、庭の手入れに執心していたこともあるが、土筆や春草摘みに熱中していたためだろう。なんと、「土筆・水菜・車前・艾・蕗・蒲公・野韮・早蕨・娵菜・なつな・萱草」を24日も摘んでいる。
 出かけた日で気になるのが、十三日の浅草から三囲付近で、「浅草群集・野遊の人多し」とある。お花見とは言わずに、「野遊」と書いていることである。読み方は「やゆう」。信鴻は、この時の様子を散策、自然探勝と感じていたのではなかろうか。
 次に気になるのが十六日、「動坂にて児輩喧嘩」と「感応寺内町家五十余の親、二十四五の子を折濫するを見る」の記述。子供の喧嘩は、江戸ではよく行われていたことを読んだことがあり、そのことか。その次、文字通りに解釈すれば、50歳ほどの親が24・5の子を折檻していたのか。この解釈で正しいかは不明、詳細はわからないい。
 三月の江戸の出来事として、『武江年表』に以下が記されている。
○三月十七日より、回向院にて、京清水圓養院景清守本尊、千手観世音、毘沙門天、勝軍地蔵尊開帳
○同廿九日より渋谷長谷寺にて、京音羽山清水寺奥院、千手観世音毘沙門天地蔵尊二十八郡衆開帳
 なお、青山長谷寺での開帳には、境内に見世物、芝居、曲馬等が多数出て、両国回向院より参詣者が多かったと。
○大井来福寺、櫻樹を栽繼く(サクラの木が植え継がれたとあるが、詳細は不明。)
 その他、深川八幡で勧進相撲が催された。
★四月
六日○春草を摘○八半他行(略)谷中通上野より三枚橋南水ちや屋に休み、花荷を見、九輪草を買ひ、山下を廻り又三枚橋にかかり中町通り(略)油島参詣、例の茶やに休む、男坂角の茶やへ烏山侯西台来、二階にて遠眼鏡を見るゆへ夫を見、又女坂より上野みちをかへる(略)
八日立夏○他行(略)灌仏会につき伝通院・護持院等庭をみする日ゆへ(略)伝通院裏門より入行客男女賑し、門しまるよしいヘハいそきて入、庭ハ山の下にて羊腸坂を下る、園池を廻る(略)祥雲寺へ入庭を見る(略)白山上より鶏声窪へかかり、街道を行き姫路侯角より東折、花やへより鉢うへを見、庄八雰嶋を見、入相頃に帰る 
十五日○今日、他行、帰掛廻向院開帳(注・先月十七日より催された)浅草へ行、委在別録
廿五日○八半過より(略)土物店より行、鰻堤にて樹屋へ寄、加賀屋敷前より行、群集分かたし、花屋左右に盈つ、例の茶やに休む(略)野村楓斑牡若を買ひ(略)山内より感応寺内より日暮里へかかり、見晴し水茶やに休み、寺門鎖ゆへ裏を廻り黄昏帰家
廿九日○七つより浅草参詣(略)谷中通上野中山下門より三河やに休み(略)駒形堂へ行、河水を望む、浪甚高し、直に観音参詣、御堂廻り下向、境や人なし、伊せやに休む(略)屏風坂門より入、人群集屏風坂込合近み難し、迹へつき行く、今日三十日大師屏風坂下より清水門へ移るを送る人也、清水門辻にて人みな尽き、いろはにて六の鐘聞へ、二丁計過て提燈つけ、六半頃かへる
 四月の信鴻は、先月からの「春草摘み」が雨天を除く十七日まで続いた。また、ガーデニングに熱中ということで、六日の「他行」も草花購入が目的。八日は、灌仏会であるが、お参りより庭や植物の方に関心を向けていた。その後の出かけも、植木探しを欠かせない。
 『武江年表』から江戸の町中についての記述を見ると、以下のように開帳など活発なことがわかる。○四月朔日より、神田上水源大盛寺、井頭辨財天開帳○津久土明神、八幡宮開扉
○四月、芝切通し時の鐘再興○亀戸聖廟に楼門建、屋上に四神有
○大川中洲築立地へ家屋建続、町名を三股富永町と号し、川辺に芦簀囲ひの茶店をかけ並べ、夏月納涼殊に繁く、絃歌畫夜に喧し
○四月より目黒明王院にて、鎌倉杉本寺観世音、同岩殿寺観世音、同賓戒寺観世音、鎌倉廿四番の内、一番地蔵菩薩開帳
★五月
七日○七半前より(略)谷中通り首振坂にて森衛門帰りに逢、上野にて七分鐘撞、明日御幸ゆへ広小路掃除、梅本に暫く休み、中町にて石竹求め、榊原門前(略)根津通り千駄樹にて六の鐘聞へ、備後館にて拍子木を打、挑燈を点し六過かへる
十三日○七つより閑歩(略)上野中広小路梅元に休み、広小路にて紫陽花・鬼石菖・姫百合・紅黄草求め、中町通り油島参詣、例の茶屋に休む、芝居崩れを見、前道をかへり、中町墨屋(略)又梅元に休み、蓮池通り備後前にて六拍子木聞へ、上野の鐘響き、御鷹部やにて寺々の鐘聞へ、六過帰る
十九日○四過より龍興寺開帳へ行(略)土物店右へ十間計にて大門也、門内一町余五十幅三問に掛る、参詣多し、奥の問に兆殿司水鏡の像有、僧縁起を演説、帰り鶏声、窪土井門前沼の如し、石橋より道よし、姫路侯裏門前より右折、又光岸寺後ろより伊せ屋角、九ツ時かへる
廿二日○浅草へ(略)谷中通上野のうち山下門より行、三河屋に立なから休み、御堂前にて番淑の木を買、直に浅草参詣(略)西宮社内因果地蔵拝し、境やに休む、お袖鄽に在、雷神門にてあちさい求め、(略)弘徳寺前にて六の鐘聞へ、上野本堂前にて提燈つけ、備後館にて六半拍子木聞へ、五前かへる
廿五日○八半過より(略)谷中通いろは鄽悉さして有、上野中延寿院脇砂利を敷、道を掃除す、問ヘハ明後日新門主御着之由、寒松院前同断、梅もとに休み(略)油島へ行、群集分かたし、下向に例の茶屋に休み植木を見、布袋竹・釣葱を買ふ(略)梅本へ立寄、(略)又山うちよりかへる、暮前帰廬
 江戸の町は平穏であったようで、信鴻の日記も湯島へ出かけた時「群集分かたし」とあるくらい。彼の関心事は、湯島や浅草などに出かけた途中での植木や草花である。