安永五年一月~六月の楽しみ

江戸庶民の楽しみ 40
★安永五年一月~六月の楽しみ 
○ 安永五年★一月
 この年の元旦も「福寿草を貰ふ」。二日に「風巾貰ふ」。三日「夕園にて羽子を突」。と、これらが信鴻の正月らしさを感じさせる記述である。一月の信鴻は、以下のように6日も出かけている。
七日○九半前(略)首振坂にて宇平次庭へ(略)坐敷梅鉢植飾り見事也、感応寺(略)刀を預け五町見物(略)新町より裏通り二町目一町目を見る、豊後語り花人七八人鄽先にて芸をなすゆへ群集、江戸町一丁目末も見物して群集の様子(略)田町通行人賑ハし(略)浅草裏異門より入る、参詣群集(略)
十二日○四過より六本木・新堀へ(略)白山前より伝通院うち(略)紀伊国坂下川側(略)六本木(略)九過着、八前起行、南門より出、長坂より新堀(略)八半比起行(略)七ツの鐘切通し水野前(略)日本橋(略)駿河町(略)本郷一町口より乗輿、薄暮帰廬
十四日○九つ(略)車坂より御徒町(略)御蔵前、柳橋、両国橋(略)亀沢町通り(略)津軽前(略)中橋(略)亀戸橋へ出、梅見甚少く遊客稀也(略)遊客少し梅真盛也、吾妻橋(略)小梅へ出(略)堤上人さはき河中を臨む容子也、聞しむれハ流死骸、数ケ所金瘡有由(略)吾妻橋を渡り浅草へ(略)帰路広徳寺稲荷(略)谷中通り五少前(略)
二十日○九ツ(略)白山前より伝通院(略)牛天神参詣(略)恵方にあたれハ当杜参詣(略)水道橋(略)霊雲寺前より油島参詣(略)広小路橋北大名参詣、見物にて人群集(略)弘徳寺(略)浅草へ(略)前路を帰る(略)七過起行・山内より帰る、七半過帰廬
廿二日○八半(略)角いせやより西行(略)瘡守稲荷参詣、氷川坂を下り大学前より南行茗荷谷縛地蔵参詣(略)目白参詣、崖下を望み水車を見る(略)四谷町通り、雑司谷鷺明神参詣(略)七ツの鐘不動にて聞ゆ、茗荷やにて蕎麦を喫す、中坐敷也、左右客在賑ハし(略)安藤前にて挑灯つけ帰廬六過
廿五日○八半頃より油島参詣(略)土物店のかた塗甚悪く見ゆれハ直に神明参詣(略)谷中通いろは(略)山内より広小路(略)女坂下にて似面絵買ひ、聖廟拝礼、人叢分かたし(略)五条天神参詣、山下より山内前路をかへる、不動坂植木やにて梅棒木買ひ(略)幕時帰廬
 これらの日記は、町の様子を信鴻の目で見たものをよく伝えている。七日は、まず吉原に入るには、「刀を預け五町見物」、続いて当時の吉原の正月らしさを示す賑わいを記している。十二日は、母への新年の挨拶であろう。十四日は亀戸天神へ出かけ、注目したのは「死骸、数ケ所金瘡有」である。以後の日記も含め、現代の三面記事のような当時の賑わいを綴っている。
 『武江年表』に「正月二十八日より、柳島法性寺妙見宮開帳」がある。なお、この開帳は翌月、信鴻も出かけている。江戸の町には、特に他の出来事はなかったものと思われる。
★二月
四日○九ツ(略)本郷より加賀裏(略)油島参詣(略)妻乞稲荷参詣、巫女神楽を上る、参詣多し(略)広小路松坂や脇より(略)浅草へ(略)西の宮稲荷参詣、爰にても巫女神楽上る、山門あき甚群集(略)吉原へ(略)中の町賑し、新町辻より九郎助参詣(略)江戸町手前にて扇や女郎連続出来(略)所謂有景気也、二町目より明石稲荷参詣(略)大恩寺前にて花子坐頭の身ふりをして仙台上るりをかたり人立多し(略)感応寺中にて晩鐘聞ゆ、寺前左右紅梅満開(略)笠森参詣(略)
十五日○八半(略)富土裏にかかり御手鷹前(略)桃・彼岸序桜・木ぶし盛り也、塗中賑にて行人多し、塗甚よし、常行堂に涅槃像掛り参詣、男女参詣多し、車坂より行、小道具やの前へかかる、前人立多く喧嘩の体にて人散乱す(略)弘徳寺の通りへ出(略)御堂中より浅草参詣、山門あき参詣夥し(略)弘徳寺にかかり行く、喧嘩せし町家鄽を閉たり、未落着せさる(略)帰廬六ツ少過
十七日○七ツより俄に閑歩(略)不二裏より上野へ入、兼而浅草に行んと思ふ、上野にて日西に落るゆへ(略)油島参詣、いせやに休み聖廟を拝し加賀裏より帰る、吉祥寺にて挑燈つけ(略)六時帰る
十八日○九少前(略)法住寺万巻経供養初日にて賑し、塗中往来甚多し、谷中通り山内遊客大師参甚多し(略)広小路より山下裏通り弘徳寺前へ出(略)御堂うちより浅草参詣群集夥し(略)妙見開帳(略)吾妻橋に開帳挑燈あり、竹町角にも吾つま橋にも有、参詣往来甚多し(略)柳島法性寺妙見山へ入る、開帳賑也、役者・傾城挑燈多し、本尊を拝し境内をみる、志道軒人形有(略)並木へかかり門(略)徳寺械町より竹町横住吉や前へ(略)帰廬七半過
 信鴻は二月も、油島や浅草方面に出かけている。そして、相変わらず賑わっている様子を日記に記している。この月、『武江年表』には「風邪流行」とある。「お駒風」という風邪が大流行したらしい。それでも、信鴻の日記からは庶民が元気よく遊んでいるように見える。
★三月
六日○九過(略)富士裏より動坂植木や前迄行、引返し日暮にかかる、遊人多し(略)感応寺内より谷中門に入る(略)弘徳寺(略)浅草へ行(略)今日吉原にて里見山花相撲之由(略)中町通りより油島へ行(略)加賀前(略)伝通院前より六角へ行、中口(略)五半起行、
九日○七前(略)妙喜坂より牡丹花屋へ(略)牡丹少し開く、門前より東行(略)中里より光明山円松寺を見る(略)東白髭明神前へ出(略)青雲寺北小門(略)諏訪明神西側茶や(略)青雲寺の門既鎖す故裏を廻り帰る(略)筋野田蛙声多し、御鷹部やにて六の鐘聞へ六過かへる
廿七日○九ツ時より浅草参詣(略)富士裏より田畑へ出(略)日暮へ行、見晴し腰掛に休む(略)遊人多し、感応寺内へ入山内より車阪弘徳寺を過て(略)広小路山下手前より竹町へ(略)広小路にて鉄せん花・燕子華買しめ、中町より油島参詣(略)根津にかかり根つ裏華や石台の藤華を見る、長四尺計左右二間計花如織、動坂にて七ツ鐘聞へ裏門より七過かへる
 二月の末頃から三月に入り、雛人形や雛菓子などについての記述が多くなる。信鴻は、三月に3回出ていないが、人々が町中だけでなく、郊外にも出歩いている様子を伝えている。『武江年表』からは、「三月末より秋の初めまで、麻疹流行人多く死す」とある。まだ大きな影響がなかったのだろうか、中村座で『恋娘昔八丈』大当たり、市村座で『助六所縁はつ桜』大当たりなどが伝えられている。
★四月
一日○別録(信鴻も『恋娘昔八丈』を観劇)。
十七日○米社麻疹之由申来
廿三日○珠成より手紙、愈麻疹の由申越、即答○りの再麻疹
廿四日○八半前より浅草参詣(略)富士脇より行、大麦皆既刈畢る(略)谷中門より入、車坂三河や水茶やに休み、御堂うちより行直に参詣、奥山廻り(略)風神門内にて松平対馬行違ふ(略)児手槲を買ひ広小路梅本へゆく、主娘麻疹にて襖うちより顔出し(略)暮時帰廬
廿五日○四過より油島参詣(略)加賀裏より行、直に参詣、伊せ屋に小休む、参詣少し、植木を見、寒竹・石竹・花菖蒲・杜鵠花を穴沢・石川に買しめ、二人を残し中町通り五条天神へ詣(略)車坂より山内を行(略)首ふり坂(略)門へ入る時九の鐘聞ゆ
 四月の日記は、麻疹の記述が多く、信鴻の息子も2名罹った。江戸ではかなりの流行であったと推測できる。
★五月
朔日○七頃より大師参詣(略)不二裏より行、大師ハ袋谷勧善院也、大師を拝し(略)日暮里見晴しの茶屋へ行、酒をのみ肴云付詩を作らんと思ふうち、幽雷の様ニ聞へたれハ直に起行、暮前帰廬
十七日○明六少過より浅草参詣(略)富士(略)上野(略)戸繋一文字にやすむ、彼処のお市も麻疹にて、昨日より鄽上に出る由、大に群集、彼処にて竹植木を買ひ、直に参詣、裏門へ出、六郷反畝へかかる(略)寺町開善寺前より右折屏風坂門(略)彼処にて五の鐘聞ゆ、法住寺(略)動坂植木や(略)五半時帰廬
廿五日○五時より油島参詣(略)加賀裏より行、東海禅窟(略)直に参詣、いせやへよる、娘鄽上に在(略)葱・唐蓮・茄子苗求む、中町通り五条天神参詣(略)谷中門にて伊藤植木につき外を廻り待居たり、法住寺前水溢道へ流る、動坂植木やへ立寄、富士杜建改め井を掘を見、清兵衛も在、四ツ時帰盧、
 信鴻の五月は、出かけた先でも麻疹について記している。『武江年表』には、「○五月六日より八月八日迄、回向院にて、伊勢白子観音寺子安観世音開帳○五月朔日より、矢口新田明神本地十一面観世音開帳○同日より永代寺にて、六郷羽田弁財天開帳○此夏游冶の少年、大丸屋にのみこれあり、模様劍先嘉房菊、これは本町壹丁目奈良屋の隠居が仇名なり、其好みにて出来たる菊の小紋なり○夏より境町楽屋新道に女の力持でる、もとは大根畠の娼妓なりとぞ、力婦伝と云う草紙出る」との記述がある。
★六月
六日○七半より(略)谷中へかかる、富士幟竿猶在、上野山内より宝光堂参詣、下向小蛇を跨く、黒門内道を作る、梅木に休む(略)薄暮起行、池端通り護国院角にて六の鐘闘ゆ、彼処より挑燈付る、酒井館にて六半拍子木聞ゆ、鷹部や脇にて鷹数本居え行逢ふ、六半過帰廬
十五日○山王祭礼に就、お永より赤飯来○暮時より涼に(略)谷中通(略)不動阪に万燈やたい有て大に群集す、天王祭也、池端へ五ツ(略)広小路虫売等を見(略)山下へ出(略)中町より油島坂を上り加賀裏(略)土物店寺の門にて烟を弄し九時帰廬
十八日○七ツ起、七半より浅草参詣(略)瑞倫寺千部ゆへ参詣有、いろはより行人多し、今日大師ゆへ谷中門開く、大師参夥し、大師は下寺に在、車坂にて天明挑燈を消す、四面大雰ゆへ暁月見へす、塗中近年の群集(略)浅草にて伊勢や(略)因果地蔵へ詣(略)板倉前を廻り屏風坂へ出(略)谷中にて花うりの荷の岩檜葉を買ひ、棧崎にて仙翁花生華を買ひ、本根津にて桔梗を買ひ、植木屋を見(略)五少過帰廬
廿五日○七半前起、六前より油島参詣(略)富土前より行、谷中門にて挑燈消す(略)宝光堂・五條天神参詣、油島伊せ屋に休む(略)女坂より中町池端へ出、弁天参詣、南茶屋に休む、荷花満開、東風甚涼、池端より帰る、富士前にて五の鐘聞へ、五過帰廬
 六月の出来事として、十五日の「山王祭」と「天王祭」の記載がある。どちらも天下祭とされるもので、双方が同時に行われないと思われるのだが(正徳三年1713年・山王・根津・神田祭礼は天下祭りとし、三年に一回)。神田明神祭(天王祭)は、通常九月に催されているので、信鴻は勘違いしているのかもしれない。どちらにしても当日の夕刻には、大勢の人々が出て賑わったのだろう。その他には、中洲新地に天鵞絨(ビードロ)細工の見世物が出て人気となっていた。