★安永六年一月~四月

江戸庶民の楽しみ 42
★安永六年一月~四月
○ 安永六年
★一月
 この年の元旦も「福寿草を貰ふ」。「九ツ過珠成・お隆同道御霊殿へ行御容拝す」などの参詣。三日には「数の子」「小豆」「海鮮・かすていら」「九年母」「串柿」「蜆」など続々と食べ物が届く。そして、十三日には前年と同じように三河万歳が訪れている。これが安永六年の信鴻の正月のようだ。一月は、母が亡くなったことで以下のように信鴻は7日も出かけている。
七日○九過より浅草参詣(略)恵方ゆへ争杉の白髭へ参詣(略)楓橋より伶人町(略)坂本三辻(略)屏風坂下(略)誓願寺後より俵町四連へ出、太神宮門(略)新堀へ急行ゆへ、並木通り(略)浅草見附(略)當沢町(略)爺父橋(略)日本橋木戸(略)京橋よりすきや河岸、さへき木町、土橋、有馬前、隠岐わき、増上寺(略)森元町、中の橋より七半過着
九日○九過より魚藍、目黒へ願掛に(略)十番の橋より肥後殿橋(略)魚藍参詣、白銀台、熊本侯門前より高野寺前(略)目黒不動参詣(略)御殿山へ(略)品川新宿の真中へ出、高縄へ(略)白かね台へ上り、魚藍前より前道を帰る(略)七半過帰る
十日○中の橋より森元町、西久保通り大和前より金毘羅門前にて拝す、大群集、兼房町河岸通り行人甚多し、直行新橋(略)木挽丁猿屋(略)漂軽飴うり日傘さし二人浅葱頭巾棲衣にてかそへ唄うたひ来るを呼ハせ鄽先にて云ハせ聞、飴并に唄の板行求む、人立多し(略)紀国橋より水谷町へかかり材木町にて石燈籠(略)江戸橋手前(略)松屋へ立寄(略)人形町(略)筋違橋(略)昌平橋(略)油島参詣、伊勢やに客多き故大坂屋に(略)加賀裏(略)暮前門へ入
十二日○四半前より新堀へ(略)白山前、伝通院(略)牛込御門、飯田町馬場、一番町半蔵御門(略)霞ケ関より九鬼前、栄螺尻、虎門(略)まみ穴より十番橋を渡り九半過着(略)赤羽の門より増上寺(略)神明参詣、香煎求め日陰町人群集(略)布袋屋前(略)銀坐やき物鄽二所へ寄、十間店(略)昌平橋(略)油島へ(略)加賀前(略)帰廬
十三日○夜八半前新堀より甚御大切の由しらせ(略)七少前玄関より(略)吉祥寺にて上邸印の挑燈を燈し(略)小石川通り(略)水道橋(略)一ツ橋より入、和田倉橋(略)内桜田御門(略)虎門にて月既入
十四日○江戸見坂下(略)爰にて明六聞ゆ(略)森元町通り六少過着(略)五半頃起行(略)中の橋より増上寺うち御幸門へ出、隠岐前、烏森より中川裏門前通りより行、銀坐二町目(略)日本橋二町目(略)本銀町より西側横裏へ入直行、青物町より土井前、昌平橋(略)油島袖摺前茶や(略)加賀裏へかかり九ツ時帰廬
廿一日○御葬礼に就、御見立に新堀へ(略)本郷通、今川橋(略)京橋二町目(略)土橋(略)長井町(略)中の橋(略)黒田、有馬の間の道より東の門へ(略)御出棺八少前、八半頃又東の門より帰る、黒田やしきわき、中の橋(略)虎門(略)霞ケ関三軒や(略)御厩谷、牛込御門、牛天神にて珠成ハ伝通院(略)天神の坂(略)暮少過帰廬
廿八日○四半頃(略)土物店(略)伝通院前(略)牛天神わきより隆慶橋半町東へ下り又南行、神楽坂茶やにて各服を脱く、崖下藤棚茶やに紫縮麺着たる美夫人の長袖来、各見る(略)御細工町、加々やしき五壇わき(略)先松竹庵へ立寄(略)八過起行、小倉侯昨夜焼失の由、下館の家根に越後侯消口の札、くやまと書たる札なと有、昨夜五過牛込辺火事見へたるは爰許也、高田罵場に将を萩にてをかしく結ひ、仮門たて仮桟敷なと今立る様子にて竹やらいたと囲ふ、問ヘハ来る六日にやふさめ有由、老中見分有なと答ふ、(略)路にて娵菜買ひ雑司谷参詣、稲荷脇水ちや屋(略)護国寺内より波切不動(略)大学裏道にて酔漢の武士道に倒れ(略)猫又橋より和泉境にかかり七半過帰廬
 一月の日記には、母の葬儀について触れている。大名の母親にしては、意外と簡素なので詳細は紹介しない。夫れより興味があったのは、大名屋敷の火事である。「消口の札」「仮門たて仮桟敷なと今立る様子にて竹やらいたと囲ふ」「老中見分」など、その後の対応がよく分かる。
 また、当時の風俗として「漂軽飴うり」、信鴻はよく見ている。どのような飴を売っていたか、そこまではわからないが、芸を見せながら売り歩いていた人のいたことを、信鴻は伝えてくれる。
 『武江年表』には、「正月二十一日、暁青山御手大工町焼○浅草報恩寺、親鸞上人持物什賓を拜せしむ」が記している。
★二月
四日○九時より月桂寺参詣(略)白山の坂にて人々火事の由(略)神楽坂例(略)御細工町(略)月桂寺へ行、門内供廻り夥し今日六日矢鏑馬平シ有し由(略)雑司谷道にて娵菜買ハせ直に雑司谷参詣(略)護国寺(略)波切不動(略)猫またの上の橋より加賀わき西門より入る、園中にて六の鐘聞ゆ
六日○九過より浅草参詣(略)富士裏へ(略)動坂(略)法住寺前の橋へ出、谷中通(略)見明院(略)三河やに休み御堂(略)太神宮前に松本侯供廻り在、行人賑ハし、芥子蔵を少見(略)堂後より(略)岡場所の女郎らしき者駕にて十四五挺通る、吉原へ行成へし(略)山下手前の小路より(略)中町千切や(略)油島へ(略)加賀裏へ(略)帰廬六少前
十四日侠講○九前より(略)今日彼岸の終り阿弥陀参り往来甚賑し(略)平塚明神鳥居前より坂道を下り、利島郡へ行、行人にて塗甚込合、五歩六歩に路上仏を居へ、村姥数人念仏を唱へ、或ハ太鼓・鐘をうち建立の法施を請者夥く、折癩の乞僧路上に満ち、辻博突有、畝中路上皆貝売雪の如し利島村第一番の弥陀へ詣(略)第二番目の弥陀へ詣、堤上癩人多く支離夥し、念仏をいふ姥に望み二所にて踊を踊らせ見る(略)第二の弥陀にて相撲取を見る(略)利島の渡し(略)荒木田の原(略)氷川大明神(略)大橋を渡り西宿(略)新宿女郎鄽賑し(略)小塚原より(略)今戸の橋(略)浅草裏門より入る地蔵へ参詣(略)禿数十人参詣、無程起行、参詣甚夥し(略)谷中門にて挑灯(略)六少過帰廬
十七日別録○中村座頑要
廿四日○四半比より(略)白山前より伝通院(略)諏訪町(略)河岸へ出、市谷御門少し手前(略)月桂寺へ行、松竹庵(略)御墳墓へ参り(略)加賀やしき(略)二三町伊勢館前へ出、山伏町、神楽坂の上寺町より赤城社へ(略)下町より服部坂(略)名荷谷、大学前、氷川うち、加賀わき西門より帰る(略)帰時七少前○
廿六日○(略)動坂植木やへ(略)山内垂桜・桃満開(略)屏風坂より下り柳稲荷(略)地蔵参詣(略)本堂参詣(略)聖天前今戸橋新鳥越総泉寺前(略)坐敷町(略)芸者多く通り遊客多く稲屋にて唄を弾声聞ゆ(略)河岸へ女三人三絃弾たて囃子て舟着ゆへ出て見る(略)馬道にて八ツを聞、真﨑を七頃起行(略)白玉や(略)江戸町一町目(略)坐敷に古竹田近江作(略)人形のからくり仕掛を見(略)芋坂へ(略)感応寺(略)本根津森預彼岸桜満開、雪の如し、暮少前帰廬
 信鴻の二月の外出は、菩提寺(月桂寺)、浅草などの参詣、平塚明神(北区上中里)から利根川沿いへ「春遊」などをしている。出た先々で出来事を記し、「疥癩の乞僧路上に満ち、辻博突有」「癩人」など信鴻の関心の広さを示している。
★三月                                           九日○珠成同道八時より春遊(略)富士前(略)青雲寺門前にて車にもちの大樹をのせ動坂の花屋治衛門枝を伐居たり、日暮のうち大に群集す、宝晋堂を其ままにて坂下へ引おろし、人歩共集居たり、見晴らしの茶屋を過、所々桜・桃満開(略)太神宮前より山下の群集を見(略)感応寺裏門より谷中へ入、行人夥し(略)浅草へ行(略)太神宮鳥居外より浅草参詣(略)帰路前路に同し、山下(略)黒門うちより帰る(略)六過帰廬
十一日○七過より閑歩(略)日暮へ行(略)佐竹脇(略)青雲寺門(略)谷中門より入塗潦多し(略)広小路より中町へかかり(略)女坂より油島へ上る、十五日開帳ゆへ階子へ莚道を作り仮の神楽堂出来(略)本郷(略)帰廬迄折々十計電を見る、帰時暮六ツ
十九日○九過(略)富士前より行、法住寺(略)谷中門より春遊甚多し、山中禿十四五人、遣手、若者附添来、車坂門より行、三河やに休み御堂内(略)明日より開帳、甚群集、縁の綱を引、堂下に竹将俵つみ上げ寄進、直に拝し奥山を廻る、みせ物囲諸所に在、女力持友世・竹田繰・軽業力持仙之助等の看板(略)阿部川町(略)広小路梅本へ(略)中町通、油島女坂より杜内開帳を見(略)広小路出口(略)上野中よりかへる、動坂花屋へ立寄、帰家七半過
廿一日○七少過(略)土物店(略)加賀脇より油島へ行、伊勢屋に休む、参詣多し、伊勢屋に暫休む(略)軽業へ行、木戸甚込合右方桟敷にて見る、三絃三調太鼓若衆子口上を云、綱の上にて裏付上下も上立にて化粧したる男駒下駄にて渡る、左手に青傘をさし、後に下駄をぬき居合をぬくを見(略)女坂より中町通り、広小路にて浅野に風くるま買ハせ(略)池端通り婦人春遊甚多し、門に入時六の鐘聞ゆ
廿四日○九時(略)動坂(略)感応寺中より谷中門に入、車坂より下り、柳稲荷(略)浅草群集(略)直に参詣、群集分かたし、奥山雷獣見せ物・竹田操・馬の相撲・ひいとろ吹有、友世を見んと(略)甚込合て出さる故(略)今戸橋より三四町過、横町地蔵挑燈出る所より右折、痔仏前(略)寺中裏の木戸に大山同木不動開帳の高札有(略)真崎へ(略)仙石や(略)亭の客、主人籏本らしく婦人皆眉有(略)八半頃起行今戸町(略)白玉やに休み此ほとの人形を出させ見るうち人立在(略)大恩寺前にて七の鐘聞ゆ、伶人町にて裏門らしき処より見込めハ、藤棚十数間花盛にて仮山水有(略)春遊の人多し、円光寺の藤とて名物のよし(略)根岸(略)感応寺内よりいろはへ出、法住寺へ入、参詣多し(略)七半頃帰る
廿六日別録○市村座頑要
 三月の信鴻は「春遊」「閉歩」として浅草、湯島などに出かけている。行楽シーズンということもあって、行く先々で大勢の江戸庶民の中に入って、賑わいの様子を記している。『武江年表』によれば、「○三月廿五日より、湯島天満宮、本社建立成就に付開帳、○三月、目白新長谷寺境内、観世音開帳、○浅草唯念寺、稱念寺、溜池澄泉寺にて、七日づつ下野高田天拜一光三雲開帳」が催されていた。信鴻の日記には、『武江年表』に記された以外にも開帳あったことから実際は、もっと多く催されていたと思われる。
 その他の事として、「肥前座・外記座」の太夫が評判であったこと。中村座で『鐘掛花振袖』中村富十郎娘道成寺が大入りであったことがあげられる。この頃、富突き、福引、福富などの博奕が厳禁となる。