★安永七年四月~閏七月

江戸庶民の楽しみ 46
★安永七年四月~閏七月
★四月
七日○九過(略)土物店より白山前馬場(略)上餌差町、牛天神茶屋(略)隆慶橋冷水番所(略)筑戸明神(略)八幡の坂(略)神楽坂の上へ出、肴町観音(略)肴町円福寺(略)平安本満寺日蓮の開帳へ(略)七軒寺町宝龍寺談義を入て見、同所多門院毘沙門開帳(略)穴八幡下へ出、高田馬場脇茶やに少休み、雑司谷胤居(略)鳥居脇より護国寺開帳甲州大聖寺(略)波切坂下(略)猫股橋より原町、西門より帰廬、七半過也
八日別録○森田座頑要
十二日○九ツ過(略)土物店より加賀脇、湯島若松や(略)女坂より竹町、山下弘徳寺前へ出、三河屋に休む(略)浅草参詣、内陣にて拝し奥山を廻り(略)海老屋に休む(略)馬道より聖天横町、新鳥越町痔仏前より右折、玉林寺山門(略)正極寺(略)真崎仙右や(略)楼船二三艘着(略)土堤へかかり大恩寺(略)円光寺へ(略)紫藤満開(略)根岸より乞食坂、日暮見晴しにて土器投る見、青雲寺門より暮少前帰る
十三日○九半(略)西ケ原牡丹花屋へ行、坐敷客在賑し(略)百余種有、爛漫奪目(略)無量寺へ詣(略)和泉境へ出、建部館間(略)庚申塚へ(略)雑司谷近道を習ひ、直南行四達より西折、雷盆山の北へ出、旧年通りしねりま道より御鷹へや(略)梅塚寺坂(略)茗荷や(略)護国寺参詣、開帳巳閉帳故猫股橋にかかり、西門より暮前帰る
十九日○今日お浅(娘・阿佐子)着に就板橋休へ迎ひに出(略)和泉境より竹部わき野通り、板橋一里塚(略)染井を五半(略)四半過頃飯田へ(略)豊田本陣(略)前路を帰る(略)十二三町来て巣鴨の七の鐘聞ゆ(略)田畝中を六阿弥陀前に懸り龍志門へ入庭を見、庭うちより茶屋へ出、龍志在少休む(略)本道より牡丹華やへ行、出る時股引の客七八人来る、帰廬暮前
二十日○九ツ(略)浅草参詣(略)富士裏谷中通り(略)上野延寿院脇にて吉田侯行違ふ、上野うち諾侯参詣多し、昇風坂より出三河やに休み、直に俵町より参詣(略)伊勢や(略)神門にて花卯木買ひ(略)山下(略)広小路にて植樹を見、中町(略)湯島にて若松や・伊勢や鄽仕廻ゆへ大坂やに休み、問ヘハ鄽婆昨夜半女児を産し由(略)加賀わき財木屋にて財を見、本郷より帰る、吉祥寺わき岡崎や前(略)七ツ少過帰廬
廿五日別録○中村座頑要
廿七日別録○市村座頑要
 四月の『武江年表』には「○四月朔日より牛込圓福寺にて、京本満寺祖師開帳、○同日より、護國寺にて、甲州大聖院不動尊新羅三郎像武田信玄像開帳」が記されている。町の様子で特に変わったことはなかったようで、信鴻は観劇の3日を含めて、開帳を覗いたり8日出かけている。その他で、気になったのは、二十日の湯島の顔なじみの「鄽婆」の記述である。「鄽婆」とあるから、かなりの年齢の女性と思っていたが、「女児を産し」とある。ただ、「十八年めにて初産の由」とあり、一体何歳なのかわからない。なお、信鴻の側室・お隆は、安永七年時で四十四歳である。
★五月
三日○九半前より上邸江行(略)吉祥寺前(略)本郷通り朝日山に休み、通町、駿河町より河岸へ出、比丘尼橋より鑓屋町通り(略)河岸より山下門新道口より入る(略)八過着夕餉喫(略)幸橋(略)通町通り万古鄽へ立寄、今川橋(略)筋違橋(略)湯島へ(略)大坂猿屋に休む(略)土物店にて挑燈付け、六過帰廬
十四日○八半過より湯島へ(略)土物店より行、聖廟拝礼若松屋に休む、女坂下にて秀鶴・十町・路考・杉暁・薪水錦絵買(略)中町松屋にて烟管ニツ求め、(略)茶碗はちやにて植木鉢買ハせ(略)六弥陀脇水茶屋に待合せ、山内より六少前帰る
 五月は、体調を崩して2日しか外出せず、町の様子に関しての情報は少ない。なお、中村座で『二人与作』、烏山検校事件を仕組み評判となっていた。
★六月
七日○八半より湯島参詣(略)追分角三河屋水茶屋に休む、加賀脇(略)湯島(略)聖廟拝し、若松や(略)暫休み女坂より下り、坂下(略)中町(略)広小路にて咲分仙翁花を求(略)池端穴稲荷へ参詣、観音拝し法住寺前桜木大和茶に休み、白仙翁花を買ひ、世尊院前(略)暮時帰廬
十二日○七半頃より西か原閑歩(略)龍志出茶屋(略)龍志前より末木観音昌林寺(略)又来路を帰る(略)表門より暮少前帰り
十五日○七より白銀観音参詣(略)湯島参詣、大坂屋(略)中坂より中の道へ掛る、祭帰りにて賑也、須田町辺甚群集(略)今川橋にて祭の屋台畳みたる牛車に行違ふ、直に観音参詣(略)紺屋町通りにかかり、富山丁より土堤旭山茶屋に休む・今日椛町の祭大喧嘩在・今日済す、駿河町辺に踟躕する由語る(略)昌平橋より本郷通り神田明神前に嚮に見し牛車の牛、今牽帰る、車も引捨在、本郷六丁目(略)加賀番所にて六の鐘聞へ、追分(略)六半頃帰廬
廿一日○今暁七過より起、浅草参詣、巣鴨六の鐘(略)酒井館にて六の拍子木打(略)谷中門内観成院前にて挑燈消す、屏風坂より下り車坂門より出、爰迄行人甚稀也、三河屋鄽未出(略)参詣内陣(略)御堂を下り伊勢やに休む(略)前路より帰る、参河屋に休み爰も無程出、車坂より入、荷堂前より行、桟崎(略)世尊院前(略)帰かけ上野荷堂前にて五の鐘聞へ五半前帰廬
廿九日○明七半頃起、六ツより廻向院開帳善光寺如来参詣(略)本郷通り昌平橋橋外番屋厠にて大解(略)柳原堤通り、和泉橋(略)両国橋群集(略)裏門へ入、甚群集(略)内陣へ通り拝す、善光善佐、弥生の前木像在(略)寐釈迦開帳堂左に在を拝し、太子自彫木像同断、弥陀尊像の板行十一枚・寐釈迦尊像一枚求め(略)両国橋西水茶屋(略)新橋(略)宗氏前通り(略)永勢前より湯島中坂(略)湯島伊勢屋(略)開帳越ケ谷目一地蔵明目より初る由、聖廟拝す(略)裏門より出、本郷六丁目(略)鰻堤(略)五半時帰る
 この月、江戸を賑わさせたのは、信鴻の日記から「椛町の祭大喧嘩」と「廻向院開帳善光寺如来である。なかでも開帳は数多く催され、『武江年表』に「○六月朔日より、御蔵前八幡宮にて、駿州富士裾野曾我八幡宮曾我兄弟の像、荒人神 玉渡明神虎御前也開帳、○同日より御船蔵前中央寺大日如来開帳、○同日より閏七月十七日迄、回向院にて、信州善光寺頭陀如来開帳。此時、開帳繁栄して詣人群をなす、暁七時より棹の先に挑灯多くともしつれて、高聲に念仏を唱へて参詣するもの多し。平賀鳩渓、鳥亭焉馬が求によりて工夫をなし、小き黒牛の背に、六字の名號をあらはし、見せものに出して利を得たりといふ、又鯰江源三郎。古沢甚平といふもの、細工にて飛んだ美宝と號し、あらぬ物を見立て、仏菩薩などの形に作りたる見せもの、鬼娘といえる見せものなど、いづれも見物多く賑ひしとぞ、○六月朔日より、御船蔵前南都大佛勧進所出世大黒天開帳、○六月廿三日より、多田薬師内にて、武州十條村真光寺正観世音光智法印像開扉、○高輪如来寺にて、常陸鹿島郡子生神宮寺辨財天開帳」とある。
★七月
四日○七半頃より北郊閑歩(略)野風呂披する、天晴西北横雲有南風折々至、植木屋へ立寄樹を見、竜志茶鄽へ立寄、竜志鄽を仕廻居たり、茶を呑暫咄し、煎餅遣し、晩鐘に帰る、表門より入る
五日○七過より湯島へ(略)土物店光林寺に九曜星幕打仮番所出来法楽(略)加賀裏に掛り湯鳥地蔵閉帳前にて甚込む故、先聖廟拝し開帳左の脇より上り人の後ろより見る、人多く地蔵見えす(略)伊勢屋に休む(略)鄽婆云、山王祭に彼者の方へ客に行し由、女坂中に聖徳太子の木像を出し勧化す、池端(略)蓮漸々開き未満開(略)お鷹部や(略)六過帰廬
十二日○七少過(略)浅草参詣(略)不二裏より行、法住寺橋手前川溢二間計水出(略)山内より車坂三河屋に少休む、田原町鰻屋(略)観音参詣(略)堺屋に休む、お袖在(略)前路を帰る、弘徳寺前にて六の鐘(略)広小路ふし屋へ(略)中町より切通し、金勝院薬師縁日(略)加賀裏本郷通り(略)富士前にて穴沢に蛬買ハせ(略)五の鐘を聞、門に入て穴沢追つく、お隆へ蛬・桃つかわす
廿二日○明七半過(略)富士前(略)清水門既開き(略)屏風坂より車坂門(略)三河屋(略)俵町鰻屋(略)内陣にて拝し(略)廻向院へ行、今日浅草参詣少し(略)柳橋にかかる、両国より群集昔日の如し(略)内陣にて拝し涅槃尊像を礼す、群集夥し(略)柳原新橋(略)長者町、横町湯島中坂、男坂上のいせや(略)聖庿内陣にて拝し延命地蔵も拝す、参詣少し(略)竟成院(略)坂上茶屋(略)海東禅窟前へ出、本郷六丁目(略)にて町竹輿に乗り四少前帰る
 四日に「野風呂披する」とある。これは、戸外で風呂に入ることなのだろうか、露天風呂出あろうか。風呂については、六月三日に「今日初めて湯浴」との記述がある。これまで、入浴について触れていないことから、信鴻は頻繁に入っていたのだろうか。当時の江戸庶民は、意外と銭湯に入っていたと思われるが、実態はどうだろうか。
 『武江年表』によれば、七月にも以下のように9箇所で開帳があった。「○七月朔日より、芝愛宕祀地にて、千佳勝専寺鷲大明神開帳、○牛込七軒町多門院、三身毘沙門天開帳、○三田寺町慈眼寺、糸引正観世音中将姫蓮糸にて織給ふ所なり開帳、○七月朔日より、湯烏社地にて、武州埼玉郡野島地蔵尊開帳、淨山寺、○七月八日、北割下水花巌寺、薬師如来開帳、○七月十六日より、浅草清水寺、千手観世音本堂建立成就に付、開扉、○七月、浅草寺中壽命院妙見宮、本堂坦立入佛に付、開扉、○七月廿八日より、浅草寺中智光院にて、信州善光寺越村往生寺、苅萱感得彌如来聖徳太子御作といふ、苅萱影、親子地蔵尊開帳、○下落合村薬王院、釈迦如来開帳」。これらの開帳に加えて、六月から催されている開帳もあり、信鴻も訪れていて賑わっていたことがわかる。
★閏七月
三日○七過より湯島(略)土物たな通、加賀脇、天沢寺前(略)秩父屋へ行、千年土龍を見る、狸の如くにて中猫程有、茶色の中に黒き毛目の脇・額に有、手ハ土龍の如し、何獣なる事を知らす、窖の中へ出し由、始めハ寐て居たりしを起して見する、沙汰の如く日光王御覧に入千年土龍と名を賜はり、日々御城初所々へ行(略)三組町(略)伊せや少娘か鄽へ行、侍一人在、今日甚群集分かたし(略)聖廟拝し地蔵尊ハ今閉帳、大に込合(略)観音拝し、祠後を廻り女坂より下る、塗中人叢粉々袋屋(略)広小路にてあんけら飴唄うたひ売るを聞、植樹を見廻り(略)六阿みた脇水茶屋(略)此辺も甚群集、池の端(略)榊原脇より天沢寺三辻へ出、加賀脇(略)吉祥寺前(略)松虫を買しめ六半前帰る
七日○明七過起(略)明六頃より廻向院参詣(略)本郷通り(略)柳原通り参詣賑也(略)両国人多く群集熱閙、橋左へかかり北向下向門より入る(略)例御初穂金納め内陣にて拝す(略)新橋を渡り(略)藤堂脇(略)御徒町にて五の鐘聞ゆ、長老町より中坂(略)男坂(略)伊勢屋本鄽(略)聖廟を拝し延命地蔵へ詣(略)本郷(略)大番町(略)不動前(略)五半少前帰廬
十四日○七過より湯島へ(略)富士前より谷中通り、瑞林寺千部にて行人多し、谷中門より広小路へ出、中町(略)女坂より湯島へ行、地蔵参夥し男坂いせや(略)聖店拝し本郷通りを帰る、森川にて六の鐘聞へ挑燈付る(略)大番町口(略)土物たなより塗好、六過帰廬
十八日○七過起巣鴨の暁鐘後起行浅草参詣(略)富士前(略)御鷹部屋(略)谷中門より入、屏風坂(略)弘徳寺前人行夥敷田舎者多し三河屋(略)田原町(略)浅草御門前木戸際茶屋(略)参詣、行人多し(略)伊藤鰻を買来り御手洗へ放し(略)堺やに休む(略)山下にて広小路へ出(略)中町より湯島参詣・女坂を上り角トの伊せや(略)聖廟拝し地蔵同断(略)松悦へ立寄大解、少休み五半過帰廬
 閏月の信鴻は、先月見れなかった「千年土龍」を見物し、その詳細を記している。なお、『見世物研究』によれば、「千年土龍と號けたのは、本郷大根畑麹屋の空室に棲んで、夜な夜な出でて食物を竊んだのを生捕つたので、全くは年を経た貒(マミ)であつた。是を買取つた香具師は、本名の貒では一般民衆の耳に疎く、客足を惹かなからうとの懸念から、其足が土龍に似てゐるので、是は千歳を経た土龍の王であると宣伝して開場したが、それが利いたのであらう、大いに利潤を得たといふ」とある。この「貒」は、タヌキまたはニホンアナグマらしい。タヌキであれば、すぐにバレると思われるが、どちらかは判断できない。