★安永七年十一月~十二月

江戸庶民の楽しみ 48
★安永七年十一月~十二月
★十一月
朔日○九過より浅草参詣(略)富士前(略)山内屏風坂(略)御堂前(略)観音参詣、御手洗へ鰻放し、明石反畝を見(略)伊勢屋に休む(略)田原一丁め(略)感応寺内より浜田屋へゆき蕎麦を喫ひ、七面脇坂より、野通りお手鷹裏より笹原村、酒井氏館脇へ出、暮少前帰り
四日○九ツ過(略)原町より小出下館(略)御薬園より戸崎町、柳町、伝通院うち、諏訪町、とんと橋より河岸通、左内坂、市谷八幡裏門より入り社脇観音拝し(略)芝居近日初る由賑か也、尾侯前、坂町、伊賀町(略)北寺町安養寺・延寿院・浄運寺(略)四谷御門へ入、糀町心法寺(略)平河天神参詣(略)原の西側千木屋(略)万町へ懸る、御厩谷(略)とんと橋(略)隆慶橋角にて科人縄付三人もつかう乗一人(略)安藤坂(略)六半前帰廬
六日○九過より湯島参詣(略)鰻堤通り直に聖廟参詣、男坂いせ屋(略)女坂下二而箱天神求め、中町宜石鄽(略)同千切屋にてひいとろ簪二本求め(略)広小路にて両人来るうち錫細工をするを見(略)山下山王下鶴市園へ入一幕見る(略)車坂より入、瑠璃殿前にて七の鐘聞え、谷中より暮少前帰る
九日○九半前(略)浅草参詣(略)御鷹部屋(略)板倉前(略)山内より車坂三河屋に休み・田原(略)参詣、寺内賑也、太神宮前にて白梅求め内陣にて拝す(略)女四五人此方よりも見認し様成女なからたしかに誰とハ不認(略)出ながら数顧回看し予也と咡き出る(略)御手洗水へ鰻放し堂左へ(略)伊勢屋に休み(略)弘徳寺(略)山下より藤屋へ(略)中町通、湯島切通しより本郷通りを暮時帰る
十一日別録○森田座頑要
十四日○九半前より他行(略)肴たな大工店(略)湯島参詣、聖廟拝し伊勢屋男坂の鄽にハ武士客在故本店へ(略)中坂より石川表門前通り、長者町、三絃堀より鳥越・西福寺うら門へ入る、鞍岡寺中宝林院へ行、安部墳墓(略)宝池院拝礼、安倍先侯同断、北門より出、新堀常念寺橋を渡り立花表門より山下へ出(略)車坂より入、瑠璃殿手前にて七の鐘聞え、谷中通、世尊院前へ懸り暮前帰る
十五日別録○中村座頑要
十八日○九ツ過(略)浅草参詣(略)富士前より行、明王院に大師在、甚群集、参詣、車坂より下り塗中賑也、三河屋に休む、田原町(略)参詣、内陣にて拝す、閣上大熱閙、御堂廻り御手洗へ鰻はなし、奥山廻り豆蔵を少聞、伊勢屋に休む(略)並木を下り三丁目(略)三河屋(略)山下へ出植樹を見る(略)棒松を買ハせ、山内を帰る山中賑也、暮少前帰廬
廿一日○九過(略)浅草参詣、土物店通(略)湯島参詣、男坂伊勢屋に休む、少娘在、女坂より中町通、山下より広徳寺前、明日御溝ゆへ御堂の内へ入見る、甚賑なり、直に参詣、御堂廻り御手洗へ鰻を放し、仁王門(略)伊勢屋に休み(略)広小路藤屋(略)池端(略)首振より世尊院前へ掛り暮頃帰る、
廿五日○九過(略)谷中通、車坂より行、広徳寺前より御堂参群集難分御堂中熱閙、引返し三河屋に休む(略)山下より広小路、中町通、女坂より湯島参詣、伊勢屋に休む、鄽婆在、甚群集、植樹を見(略)裏門より出(略)松悦へ立寄(略)七少過帰廬
廿八日○九半前より他行(略)神明原より谷中通、上野広小路へ出、六阿弥陀辻より東折、加藤前、三絃堀(略)鳥越原へ出、閻魔堂脇より蔵前、萱町(略)中径にて東折、大六天うちより両国へ出、廻向院へ行、一言観音(略)寐釈迦堂拝し、門前茶屋に休み、両国より薬研堀不動参詣、群集熱閙、植樹を廻りて見西王梅求め、横山丁、馬峻丁、新橋、藤堂脇(略)妻乞坂(略)男坂上の伊勢屋(略)本郷通、暮前帰廬
廿九日別録○森田座頑要
 十一月は、浅草や湯島などへ12日も外出している。九日などは、下駄でなければ歩けないにもかかわらず出かけるなど、冬にしては暖かかったのだろう、出かけ先はそこそこの賑わいがあったようだ。十一日に観た森田座の『伊達錦対将(ダテニシキツルノユミトリ)』は、大当たりをしていた。また、深川八幡で勧進相撲が催されている。
★十二月
二日九半頃より王子稲荷参詣(略)笠志鄽にて立乍ら逢ひ、飛鳥山を廻り稲荷参詣、石数多集め普請の様子、帰り山通り橋手前西側茶屋に休む、客在、田楽焼せ酒を飲、前路を帰る(略)茶の荷背負し二十四五の男、予に向ひ腹痛甚く丸薬を乞ふ故麝香丸与ふ(略)七過帰る
五日○九過(略)浅草参詣(略)谷中通、延寿院脇にて家中の者と見へ頭巾着る者、予を見て跡へ引返し明王院の方へ行、車坂より下る、明静院路次明たる故庭を覗く、仮山水橋杯有(略)戸係(繋)伊勢やへ寄仁王門(略)参詣、御堂廻り御手洗へ饅放し、裏を廻り前路を帰る、新堀橋西(略)谷中通り七半前帰る
九日○九過より油島参詣(略)谷中通、吉祥閣前にて太田備後に逢、中町より女坂下にて秀鶴錦絵買ひ、男坂上いせやに休む、少娘在、宗匠らしき老一人休在、聖廟拝し本郷通り(略)松悦方に休み七過帰廬
十一日○四少過より愛宕下上邸へ(略)本郷通筋違旭山(略)石町辺(略)京橋手前にて伊達侯よりの婚礼に逢ふ、銀埜(略)加賀町(略)八官町、土橋(略)八前より新道通上邸へ(略)八半過起行、横地方へ(略)山下門、猿屋(略)京橋(略)中橋過て大に群集忽くつれ来り、危き故辺の鄽へのほる、気違ひ女の人を追欠る由、湯島妻乞より行(略)大坂屋に休む(略)西門より出、大番町(略)六過帰廬
十四日○九過(略)浅草参詣(略)谷中通(略)山内より車坂、戸繋伊勢屋に休む(略)来掛田原町二丁メ通り、内陣にて拝し御手洗へ鰻放し、寺内廻り仁王門外にて九鬼休翁に逢、田原町小道具屋にて一蝶固坐頭之画を穴沢に買わせ(略)竹町(略)山内より帰る、谷中薬舗(略)動坂花や植溜を見、暮少前帰廬
十六日○四少過(略)六本木へ(略)白山四逵(略)さすかへ町(略)伝通院内より例の通、菊堂方へ(略)牛込門より御厩谷・平河二丁メより獣店、珠成等狼・猪・鹿・狐・河獺等を見(略)紀侯門(略)赤坂門より河岸、田町二丁日、氷川脇、南部坂(略)市兵衛町(略)六本木西門八半頃暗く(略)皆雨具なく手傘徒跣に(略)長井町(略)稲荷前中川(略)猿屋へ案内に遣し直に行、酒を呑、湯豆腐等(略)通町より帰る
十七日○九半前(略)浅草の市へ(略)谷中通(略)車坂より出、広徳寺前去年程の込合也(略)御堂前より熱閙、大神宮門より甚込合直に観音参詣(略)込合中を奥山へ出、北の茶屋へ立寄田楽・酒等云付暫休む客多し、爰にて皆々買物(略)淡雪門より甚込合(略)並木を二丁下り御堂前へ出、前刻三河や(略)客甚多し(略)広小路藤や(略)山下(略)中町通(略)女坂を上り聖廟を拝し(略)加賀脇(略)六半過帰廬魔
十九日○九半前より湯島参詣(略)土物店(略)聖廟拝し男坂いせ屋に休む(略)中町通り六阿弥陀の富ニツ同し札あかりし故、此程打こハせし由いせ屋にて語る故行て見、山下へ(略)車坂門に入、坂本寿昌院大師へ参詣、信濃坂を上り御門主前より谷中通、備後門前にて植樹屋へ立寄万年青買ひ、七半前帰る
廿五日○九半頃(略)湯島参詣(略)聖廟参詣、男坂上伊勢屋に休む、少娘在(略)梅二株買ひ植樹鄽を見、又伊勢屋に休み地蔵参詣、鍵屋茶屋(略)女坂より中町烟管屋山城屋へ行烟管を見一ツ買ひ(略)鳥屋へ行穴沢に照鶯買ハせ、又烟管屋へ行(略)切通しより帰る(略)本郷六丁メにて餌入買ひ、七少過かへる
廿七日○九過(略)浅草参詣(略)谷中通り、山内、信濃坂より金杉通、樹屋にて梅を見、大忍寺前、反畝、馬道へ出(略)矢太臣門前海老屋(略)観音参詣、御堂廻り御手洗へ鰻を放し、鄽所々へ立寄(略)弘徳寺稲荷門並餝籬出来(略)広小路藤屋(略)中町日野やにて羽子板求む(略)女坂より湯島へ行地蔵拝し、男坂上伊勢屋に休む(略)聖廟拝し天沢寺前にて地黄煎買ひ日暮帰廬
 十二月も信鴻は10日も外出している。恒例の浅草の市は、前年と同じ程度の賑わいであったらしい。日記の記述を見る限り、江戸の町は平穏である。


 安永七年の信鴻は、75日程、ほぼ5日に1日の割合で物見遊山に出かけている。行き先の場所は、浅草と湯島を主に、通りがかりの上野、両国、亀戸、鬼子母神などである。目に付いた行動として、正月の「富くじ」買い、二月の稲荷廻り、三月は2回の観劇、四月は3回の観劇と開帳、五月は体調を崩して近場に2日しか出なかった。六月の「廻向院開帳善光寺如来参詣」は、賑わいを伝えている。七月の「野風呂披する」と閏七月の「千年土龍」は、信鴻の好奇心であろう。八月は町中の賑わいを記し、九月は観劇と菊見。十月は13日、十一月も12日と出かけ、信鴻らしい観察をしている。
 なお、この年の江戸には他にもいくつかの出来事があった。先ず、二月十二日の日記にも記されていたように、江戸東辺で大火があった。また、廿一日に記された「ホコンホコンフラソコを貰ふ」は、ビードロ玩具だろうと推測し、信鴻の日記にあるくらいだから流行していたのではなかろうか。三月半ばから四月には、三原山が噴火し、その影響もあってこの年は低温気味であった。六月の出来事は、江戸から離れた北海道で、ロシア人の通称要請があった。『武江年表』によれば、七月に9箇所で開帳があったように、八月以降も盛り場は賑わい、この年は総じて、大きな出来事もなく、平穏な年であったことを感じさせている。