★安永八年秋・七月~九月

江戸庶民の楽しみ 51
★安永八年秋・七月~九月
★七月
十八日○七半頃よりお隆同道日暮里へ(略)富士裏、動坂佐竹脇植樹屋へ立寄(略)法華寺の門より入、既暮るゝ庭の山より太神宮へ詣、見晴しにて烟を弄し、さくらやへ行(略)桟崎酒屋脇より法住寺前首振坂七面へ(略)世尊院前より大観音参詣(略)松悦門内腰掛に休み(略)吉祥寺前にて喧嘩有(略)仙宅長屋へ立寄(略)四少過帰る
廿三日○四過より浅草参詣(略)富士の辺にて合羽脱、屏風坂より出、広徳寺少先湯屋の手前新茶屋出来、奥坐敷利休垣等よしありて志なし乾浄に見ゆ、三河屋(略)田原町二丁目より並木へ出直に参詣、御手洗へ鰻放(略)伊勢屋へ寄、南より村雨ふり出(略)田原町一丁目(略)広徳寺(略)御鷹部屋(略)八前に帰廬
廿五日○四半前より湯島参詣(略)吉祥寺(略)大番町(略)杜内に薬師開帳参詣少し、聖廟拝し伊勢屋少娘か方に休む、母も来る、植樹を見穴沢を残しおもと・小菊買ひ予ハ先へ帰る(略)神明より雨降出九時帰廬
 旧暦の七月はまだ暑い時期である。出かけたのは、現代の九月に入ってからである。浅草や湯島などの人出はあまり感じられず、信鴻の行動も午前(十時頃)に出て午後三時前に帰宅している
★八月
朔日○七少過(略)谷中通り大円寺(略)開運大黒拝す(略)谷中門を入清水参詣、山王にて暫眺望、中町通、女坂より男坂上の伊勢屋へ(略)今日少し参詣(略)暫休み地蔵・聖廟拝す、花表左側に札を建、上野新田大炊之介義重公尊、本尊、千手観音、義貞寺本尊不動来年三月朔日より開帳の由記す、薬師ハ唯今開帳にて念仏唱名賑し(略)西門より出、森川にて挑燈点し六半前帰廬
八日○九半(略)浅草参詣(略)谷中通、屏風坂より行、太神官にて今富を突様子、伊勢屋に休み(略)参詣、甚賑し、奥山廻る(略)馬道正直そはへ行客多し(略)土堤へ(略)聖天へ行、織殿玄関へ(略)参橋亭の額掛たり(略)聖天参詣、御堂廻り南行、姥か池通り観世音寺内江入、例の道を帰る、車坂より上り日暮れ帰廬
十三日○九半より米杜・お隆同道雑司谷へ(略)加賀脇より同道、原町、猫股橋、四辻姥か床机に休(略)護国寺内観音参詣、野にて女非人多く付く(略)直に鬼子母神参詣(略)御堂廻り直に和泉屋へ行(略)八半頃又鬼子母神へ(略)寮を廻り又和泉屋へ(略)薮蕎麦より右折(略)波切不動(略)安藤脇大学角(略)幽霊橋に掛り西門より六半頃帰る
十九日別録○森田座頑要
廿三日○四半(略)浅草并本所一ツ目弁天参詣(略)谷中通、山内車坂より出、山下(略)三河屋に休む(略)浅草参詣(略)並木鈴水升やと造花屋鄽へ立寄(略)諏訪町むしや(略)御蔵前大和茶亀伊勢やに休む(略)両国より丸屋金兵衛へ(略)柏屋と云茶やへ(略)舟よき由いふ故茶舟に乗(略)柳橘過て(略)筋違橋より上り本田原後ろより湯島へ(略)延命地蔵拝し男坂伊勢屋に休む(略)本郷通り、大番町手前にて花屋荷のいさ葉つはふきを買ひ、三軒屋(略)暮頃帰廬
 『武江年表』に「○八月より、深川八幡宮本地愛染明王開帳、○小石川無量院に、小野の小町の墓とて在、和州より移したる由也、今年小町の九百年忌に當り、八月八日に法事修業有、○八月廿五日、大風雨洪水、和泉橋落、日向下水道掛樋の岸廿間程崩る、○薩州侯、品川の前邸へ、琉球産の笋を始て植らる、請人これを珍賞す、世に孟宗笋と稱す」とある。
 八月の『武江年表』に対応する信鴻の日記は、廿六日の「泉池水一杯に成」である。前日台風でそれまでカラカラであった六義園の池が一気に満杯となった。その他では、深川八幡での開帳には訪れておらず、小野小町の件も触れておらず、「孟宗笋」については情報が入っていなかったのだろう。
★九月
イメージ 2五日○滝川弁天にて山伏火生三味の行をなす由ゆへ九ツより見に行(略)笠志鄽にて暫休む(略)一本桜より左折、権左衛門前(略)滝川内茶屋腰掛数所出し飴売等出賑也、参詣は未少し(略)滝川水瀬甚哭く、橋落茶屋に休む(略)滝不動正受院へ行(略)尾寺観世音の堂有(略)観音拝し本堂を見滝不動へ詣(略)滝の弁天参詣、水早く漲る(略)山伏二人素抱を着往来し法螺を吹(略)次第に参詣群集(略)竹垣結ひ畳の表敷見物囲遶、内に四間四方に卑く竹垣結ひ、東西面に壇を飾り、四方八大龍王の形を表したる作物を建、外囲の人ハ皆立て見る(略)仮の門より山伏八人、前後ハ木にて作りしさす股を持、心経を誦埒の間を廻り内へ入(略)九字を切経を読、大蔵院立て竪二間幅三尺計に堀て松材を並へ、下に杉葉敷たるへ火を打、付木にて火を所々ヘ移す、忽猛火烈々烟うつ巻山伏九字を切印を結ひ扇にてあふき、火の縁を廻りさす股にて材の火の行渡らさるを返すうち烟消烟火甚衰ふ、大蔵院護摩木に火を付口中に含、火の上を渡る、残七人東西より渡る、畢て材をさす股にて返せハ、又猛火炎々と近つくへからす、予ハ垣内東正面にて見る、畢而山伏火防の札を配分、予ハ先刻札を貰ひ(略)門を出る時甚込合本道へかゝり竹部屋敷前より七ツ過表門より帰廬
〔装束素袍裾くゝりあけ能狂言の如〕
六日○八比よりお隆同道東叡山辺閑歩(略)富士裏より御鷹部屋、動坂(略)青雲寺より入桜屋(略)谷中門(略)感応寺内より(略)観成院に大師在、直に参詣、瑠璃殿裏を廻り、中堂参詣、輪蔵を見、清水参詣、山王見晴しにて暫く眺望、烟を弄し、山下辺廻り弁天参詣(略)清水谷より瑞林寺前瘡守辺(略)桜屋へ帰る(略)雨つよく(略)駕つらせ迎に来る(略)田畑の橋(略)動坂(略)富士裏へ(略)五過奥口より帰廬
十六日○九過より神田明神参詣(略)神明にて二十五番の神楽秦する故参詣(略)甚群集(略)御鷹匠長屋より身代地蔵前(略)土物店より本郷へ出、四丁目より東折、森田屋茶鄽前より南折、春木町より本郷六丁目へ出、神田参詣、人叢夥敷祭に出し児輩数多来る、坂より下り湯島へ(略)聖庿・地蔵参詣(略)鄽へ行休む(略)金毘羅勧請故参詣、女坂より広小路山下(略)田原町二町目にかゝり戸繋芳やに休む(略)仁王門下(略)参詣、禿多く来り参詣多し(略)六郷反畝溜メ前通り(略)大雲寺前より戸田館前金杉(略)石橋外茶店(略)谷中通り暮時帰廬
十八日○九過より浅草参詣(略)谷中通り車坂より出、谷中門より内群集、車坂門(略)広徳寺(略)寺町通り、誓願寺前、浅草も甚群集、伊勢やに休み観世音拝し(略)山下へ出、塗中甚賑也(略)広小路植木を見、白菊を穴沢に求させ(略)池端蓬莱屋に庸軒流蘭山門弟挿花会札出し(略)挿花百種計有、見物込合ふ、爰を出上野へ(略)大師参夥し、観成院大師江参詣(略)谷中門より出、動坂花屋植溜を見、七半比帰廬
廿一日○四半比より上邸(略)本郷通り、森川にて太田山城来故組町を廻る、朝日山にて休み、通り町京橋二丁目(略)友庵へ(略)河岸より山下門、新道門(略)幸橋を出、塩留より猿屋へ(略)忠臣蔵(略)一幕見ん思しに(略)遅く成ゆへ起行、河岸通、新福橋渡り、本材木町通り、四日市へ出、江戸橋(略)照降町(略)□屋町ハ今子別の由(略)人形町通り、お玉か池、昌平橋より湯島崖上(略)男坂上の鄽へ行、少娘在、暫休み(略)西門より出、本郷六町め(略)六半時帰廬
廿二日○八ツより近村菊を見(略)西門より出(略)巣鴨佐太郎菊を見(略)稲荷の西の小路へ出、市左衛門・権左衛門夫より通へ出、弥三郎・八五郎・次郎右衛門菊を見、穴沢に小菊買ハせ六地蔵前の菊を見る、左右大幟建る十羅剃女と記す(略)庚中塚より右折(略)滝の川四ツ辻へ出畑中にて小菊買い(略)一本桜へ出(略)薪屋吟八菊を見る(略)七過表門より帰廬
廿九日○七過より湯島参詣(略)土物店通り男坂上の伊勢屋に休む(略)女坂より下る、広小路にて遠乗五騎のりに乗池の端より来る、池の端通りを帰るうち供追々駆来る、伊豆館前にて又七八騎、迹より駕同勢続き来る、加藤遠江の由、千騎樹にて挑燈つけ六過帰廬

イメージ 1 信鴻は、五日「滝川弁天にて山伏火生三味の行」を見に出かけた。「火生三イメージ 4」は、浅草などで催された見せ物とは異なり、完全な修行で、見る人を圧倒したものと推測される。その場所は、現在の滝野川音無もみじ緑地公園にあったもので、『江戸名所図会』に描かれた「松橋弁財天窟 石神井川などから当時の状況を想像したい。

イメージ 3

 『武江年表』に「○九月十五目、牛御前祭祭礼、御輿を渡し産子町々より、出しねり物を出しけるが、其後中絶す」とある。江戸の祭としては、信鴻が十六日出かけた神田明神祭の方が賑やかで人出が多かったものと思われる。
 ガーデニング好きとして気になったのは、十八日に見た池端蓬莱屋で催された「庸軒流蘭山門弟挿花会」である。「挿花百種計有、見物込合ふ」と信鴻も日記に記すほど堪能したものと思われる。「庸軒流」と言えば、藤村庸軒の庸軒流茶道(
https://blogs.yahoo.co.jp/koichiro1945/25235825.html)が思い浮かぶ。生花にも流派があっても不思議ではないが、詳細は不明である。なお、十月にも「挿花」に触れている。
 九月の出来事として、『武江年表』に記された「○去年暮より、伊豆大島焼出、夜毎西南嗚動して、江戸迄も響渡れり」がある。