★安永九年夏・四月~六月

江戸庶民の楽しみ 54
★安永九年夏・四月~六月
★四月
二日○九ツより湯島・浅草参詣(略)片町(略)本郷通湯島聖廟拝し地蔵へも詣(略)聖廟瑞籬奉加帳を見する、女阪より下る、中町(略)故竹町へかかり広徳寺へ出、塗甚賑たり戸繋いせ屋に休む(略)参詣甚多し、直に参詣、鰻放し直に帰る(略)車坂門より入る、山内群集、谷中門より(略)首振坂(略)七前帰廬、
四日別録○森田座頑要
五日○七よりお浅・お隆同道近郊へ(略)牡丹見に當行し由、直に牡丹花屋へ行(略)牡丹真盛也、障子に穴してのそく様予ゆへこなたはかり牡丹を見、引返し帰る時玄関へ数人駆出見る者多し、今日無寺如来供養結願故参詣、如来・観音拝し(略)表門へ出、笠志茶鄽(略)蒲公を摘(略)坐舗にて弁当遣ひ休む(略)暮少前傘・合羽にて起行(略)暮少過帰廬
八日○七過よりお隆・お浅同道日暮里へ(略)表門より(略)町裏反畝より富士裏御鷹へ屋後ろ田畑村へ入、石仁王前より日暮青雲寺門へ入、舟繋松(略)佐倉屋茶屋へ行、法華寺にて踊有、下方の難子聞へ見物甚多し、暮前見晴し崖上へ行見る(略)法華の門より出動坂(略)角伊勢屋(略)裏門より入奥口より暮比帰家
十六日○九過(略)本郷通り湯島(略)開帳拝し聖廟へ詣、甚人稀なり男坂のい勢屋に休み(略)津軽館の裏より松浦前、鳥越より御蔵前、浅草見附へ入り廻向院開帳へ行、群集也(略)目黒祐天寺本尊如来(略)人叢分かたし(略)金毘羅拝し(略)出金兵衛方へ(略)両国より柳橋第六天(略)西福寺裏門より(略)開帳、本堂東照君御内仏如来開帳を拝し(略)宝池院墓を外より拝し(略)善福寺橋を渡り河岸を行(略)安部川町より佐竹後ろ竹町へ(略)三枚橋より中町蘭麺へ行、客なし(略)根津通り町の西裏を行、権現の外植樹やを見(略)世尊院(略)千駄樹より鉄せん買に廻し松悦へ立寄(略)暫休み(略)吉祥寺(略)七半過帰家
十七日別録○中村座頑要
廿二日○八つ少過より浅草参詣(略)谷中通車坂より出、三河屋に休む(略)御堂(略)二王門(略)直に拝し御手洗へ鰻を放し、奥山廻り堺屋に休む、お袖在(略)前路を帰る(略)車坂門外にて焼飯形の米を買ハせ(略)輪蔵脇の番屋を貸り袷を着(略)七半過帰廬
廿五日○九半前より湯島参詣(略)富士裏にかかり谷中通り清水門を入、東円院大師参詣、護国院へ入、秋元隠侯墳墓拝し裏門より出、池端(略)中町(略)女坂よりお清茶鄽に休む(略)聖廟拝し、直に帰る、甚群集(略)本多下館前にて長尾息子を連来に逢(略)少過帰廬
 『武江年表』によれば、「四月朔日より、回向院にて、目黒祐天寺、阿彌陀如来、祐天大僧正眞影開帳、○四月朔日より、浅草西福寺。無量壽佛開帳、○四月朔口より、極楽水光圓寺元木薬師開帳、○四月十五日より、龜有村祥雲寺聖観世菩薩、深川寺町惠然寺にて開帳、○目白不動尊開帳、○浅草天王橋西の橋始で掛る、○四月十六日より、羅漢寺三匝堂建立、八月の頃成就、百観世者安置供養あり、四月、房州南浦異國船漂着、南京船、長廿八間七十八人乗といふ」とある。三月に続いて開帳が催され、信鴻もあちこちと訪れている。それに加えて、「牡丹見」と観劇(四日の観劇は「菅原伝授手習鑑」、十七日は「初紋日曲輪曽我」)、四月の物見遊山は、8日に及んでいる。主に出かける浅草や湯島は、相変わらずの賑わいがあり、町の様子は特に変わりなかったようだ。
★五月
六日○お隆同道七頃より近郊閑歩(略)表門より笠志茶やへゆき暫休み東行(略)御用屋敷前(略)麦既半刈道々忍冬・卯花等を取(略)坂道下り流にて根岸(略)小はや・海老等を取桶に入、平つか坂下の橋にて夏蘿葡(略)にんしんを買ハせ、酒や庭の植木を見(略)淡盛草を穴沢に買ハせ、平塚明神観音堂拝し、笠志茶や江入り庭通り住居へ(略)弁当つかひ、杜鵡花の芽をとり(略)殿中暫や(略)覗き表門より帰る
十八日○五少過より浅草参詣(略)谷中通千駄樹(略)山内御普請小屋(略)宝光堂前の辻番より稲荷へ、観音堂拝し(略)山下を廻り広徳寺(略)観音拝し鰻を放し(略)戸繋いせ屋に休む(略)仁王門(略)孔雀屋(略)竹町通広小路植木を見る、八人芸の跡へ紅毛の覗き見せ物来る、姫百合買ひ金魚買(略)中町筆屋(略)湯島地蔵拝しお清か鄽に休む(略)聖廟拝す(略)開帳観音拝し西門より出、本郷通り(略)吉祥寺前(略)門へ入る時九の鐘聞ゆ
 信鴻の五月の外出は二日しかない。六義園でのガーデニングに忙しかったのか、穴沢らが王子辺に螢狩りに出かけているが、同行していない。
★六月
朔日○七半前より富士へ行、角伊勢屋(略)富士甚群集、裏門より入女坂より行、表門より出本道より神明原へ出、塗中大熱閙、清兵衛出、茶屋に(略)神明拝し御鷹剖屋前野通り、大観音参詣、土物店へ出、松悦方へ立寄茶烟を弄し帰る、塗中賑也信濃屋鄽此程建直し乾浄に見ゆ(略)六比帰廬
五日○七過よりお千重・お隆同道王子へ(略)少し先へ甚三郎を連さいかち原(略)妙喜坂(略)笠志鄽既仕廻ふ(略)飛鳥山へ上り(略)山越しに稲荷へ(略)帰る、飛鳥山下茶屋長岡屋へ行、日既暮奥坐敷中二階作(略)彼処にて弁当(略)王子の方へ螢取に(略)平塚(略)今夜螢甚少し、二三十計取来る、螢沢手前にて一ツ取、表門へ入時五半の由
六日○七過より谷中妙法寺開帳へ(略)富士脇(略)おたか部屋前(略)何佐門(略)動坂上(略)妙法寺へ行時、開帳今かた済し由いふゆへ、扉の外にて拝す、宗伯寺釈尊開帳也(略)いろは手前にて角力取見掛る、上野山内にても角力(略)黒門より出、中町三河や(略)湯島女坂下(略)伊勢屋母子鄽仕廻有、予を見て又鄽を作、直に立寄休む(略)聖廟参詣、切通し上(略)大番町門外茶屋へ立寄(略)六半前帰廬
廿九日○七過より近郊閑歩(略)さいかち原久伯前塗沼の如く(略)引返し山王山へ(略)山王山を下り(略)田畑円松寺より左折野へ出(略)白髭坂道を下り(略)飛鳥山へ行かハ(略)引返し、白髭より御用館の方へ(略)笠志鄽仕廻ゆへ(略)路次通り住居へ行、橡に腰掛酒なと飲(略)本道沼の如く、螢稀に飛ふ(略)妙喜坂南よりさいかち原まて脚五寸はかり泥に入る、六過帰盧、
 六月は、『武江年表』によるば「○六月大雨降續き、廿六日より江戸近在利根川、荒川、戸田川洪水、村々人家を流し、永代橋、新天橋落る、助船と以此難を救せらる」と大雨で荒川や隅田川などの洪水に見舞われた。信鴻の日記には、二十五日の「四半比より大雨覆甌の如く人語聞へ難し」と大雨の降ったことが記されている。その雨のため、廿九日になっても水の引かない場所が多く、「近郊閑歩」するのには散々なものであったことがわかる。そして、この大雨のために、七月には江戸の米価が高騰したと『武江年表』に記されている。