★安永九年秋・七月~九月

江戸庶民の楽しみ 55
★安永九年秋・七月~九月
★七月
四日○八半頃より浅草参詣(略)千駄樹坂の上長屋(略)酒井館(略)雲水塔前枯松を伐、東林に枳穀桓結切る(略)観音参詣、御手洗へ鰻放し伊勢屋に休む(略)並木を下り駒形堂脇にて川流を見る(略)少し水勢漲る、山下より広小路へ出る(略)中町より女坂へかかり湯島へ行地蔵参詣、伊勢屋武士客多き故鍵屋に休む(略)伊せ屋(略)聖廟拝し西門より(略)日蔭町より行く、森川(略)奥の口より六過帰る
八日○晩鐘よりお千重・お隆同道目暮里へ納涼(略)富士裡、御鷹部屋後ろ田畑より道灌山へ掛る(略)角抵場を見青雲寺裏より佐倉屋へ(略)涼台にて遊ふ、お千重ハ寺内を閑歩、菜飯(略)法華寺内より出(略)谷中へ出、首振坂、千駄樹神明うちより四半比帰る
十七日○六半過より浅草参詣(略)車坂より(略)孔雀庵にて後会の名を聞かせ直に参詣、今日参詣少し、初め日長原にて五の鐘聞ゆ、御手洗へ鰻を放し伊勢屋に休む(略)三河屋にて鄽娘と交語(略)坂車(略)四軒寺町福寿院太師参詣、谷中通り富士前にて雨少落忽止、門を入時四の鐘聞ゆ
廿八日○七すきより湯嶋参詣(略)天気晴尽南風爽々、土物店より行、聖廟・地蔵拝し伊勢屋に休む、おきよ在、母も来る、女坂より下り中町(略)池端通りを帰る、蓬來屋にのませ絹幕の女乗物在(略)女中三十人はかり繰帽子被り侍二十人はかり(略)女中ハ稲荷へ参詣(略)動坂にて六の鐘聞ゆ、挑灯は法住寺手前より付る、六過奥口より帰る
 『武江年表』には、「七月朔日より、回向院にて、丹後天橋立成相寺、聖観世音對王丸身代地蔵尊開帳」とある。四日の日記に、隅田川の水位はまだ高いことが記され、大雨の影響は続いていと思われる。また、十七日になっても浅草は「参詣少し」と、江戸庶民は六月の洪水被害の生活再建に追われていたと推測する。
★八月
十日○谷中通り車坂より出直に参詣、仁王門(略)御手洗へ鰻放し因果地蔵へ参詣(略)伊勢屋に休む、穴沢に土産買ハせ残し前路を帰る、米伯を孔雀屋へよせ後会宗匠を問ハせ車坂門より入(略)七軒寺町(略)御門主前へ掛り世尊院前より六半遇奥口より帰る
十七日○九過より浅草廻向院一ツ目金毘羅参詣(略)谷中通り車坂より出、直に観音参詣、今日甚賑か也(略)伊勢屋に休む(略)神門(略)並木通り第六天内を通り、廻向院丹後成相寺正観音開帳へ参る、参詣甚少し(略)頼朝・尊氏・光秀等の制書在、頼光の自書ハ板行にして売る、開帳縁起、尊像共に求め普門品納め一ツ目金毘羅参詣(略)金兵衛へ行、暫語り烟を弄し丸やへ茶舟に乗る(略)筋違橋河岸迄(略)御成小路より数寄屋町、中町卵麪へ(略)休し由、直に広小路藤屋へ行(略)蕎麦を喫、池端通り動坂(略)富士前にて六の鐘聞へ奥口より帰る
廿四日○九半頃より浅草参詣(略)谷中通り車坂門より(略)浅草広小路(略)直に参詣、彼岸ゆへ賑なり、御手洗へ鰻放し伊勢屋に休み帰路田原町より(略)中町蘭麺へ(略)女坂より湯島聖廟・地蔵拝す、伊せ屋みせを出さす(略)本郷通り松悦方へ立寄、茶烟を弄し暮前帰る
廿五日○九時より湯鳥参詣(略)天念寺前(略)暫交語、聖廟拝しお清廓に休む(略)植木を見、草花買わせ(略)伊せ屋へ(略)金魚買ハせ迹に残し前路を帰る(略)追分四辻(略)天念寺へ立寄、談義の間にて隆山和向鉦を打、念仏を唱居たり、聴衆未集ゆへ立出八時帰慮、
 八月に入り、盛り場の人出は戻ったようで、浅草は、十七日の日記には「今日甚賑か也」、廿四日は「彼岸ゆへ賑なり」とある。とは言え、全てではなく、七月から始まった丹後成相寺正観音の開帳は「参詣甚少し」とある。
★九月
四日○八ツ少過よりお隆同道雑司谷へ(略)原町より行、氷川祭の幟丁毎に建、猫また橋向の焼餅売る姥か床机に休む(略)不動前(略)護国寺(略)本堂参詣(略)堂前の敷石を敷直し土を穿人多く在、内陣にて拝す(略)暫く絵馬を見る、石盥前より(略)和泉屋離埜敷へ(略)薮そはより右折(略)護持院(略)安藤前より大学館へかかる、幽霊橋手前にて茶を飲み、爰より氷川坂下迄潦甚多し(略)三宅館(略)六半過西門より帰る
九日○六過よりお隆同道日光への発駕見に山下へ(略)神明内より谷中通、上野中黒門より出、直に五条天神南角近江屋へ行、六半過頃馬上にて被通(略)山下より浅草参詣(略)観音参詣、御手洗へ鰻放し淡島参詣、奥山廻り明石反畝を望む(略)今日寺内鄽皆不出伊勢屋に休む、妹在(略)山下より広小路へ出、中町より油嶋山藤屋へ(略)天神・聖廟拝し来掛地蔵拝す(略)松悦方にて休み(略)七半過表門より帰る
十一日○四時より六本木へ(略)土物店馬込合故横町より白山へ出柳(略)伝通院(略)諏訪町(略)松山侯下館よりとんと橋、牛込御門(略)御厩谷より糀町、平河参詣、茶屋に休み(略)原の中より赤坂門、河岸を行、田町四丁目より氷川前(略)市兵衛町裏門より入る、翠松院表門より(略)片町より西久保天徳寺(略)新橋より新道門へ(略)直に奥へ(略)新道より起行、山下門より河岸、有庵方へ(略)中橋より提燈付け、本郷通り六半過奥口より帰る
十七日○九過より上邸へ(略)追分(略)本郷通(略)旭山茶屋に休み通町、京橋三丁目より有庵方へ(略)河岸へ出山下門より入新道より行(略)又新道より帰る(略)幸橋門より出、木挽町さるやへ行、明日より新狂言源平布引滝立看板出る(略)暮前起行、通町甚群集、今川橋扇屋に休む(略)今川より西折(略)大工町(略)六半過奥口より帰る
十八日○九半前(略)浅草参詣(略)谷中通、山内屏風坂より下り下町車坂北角明静院太師参詣、甚群集、裏門より出、塗中大群集(略)戸繋伊勢屋に休み(略)風神門内人叢分難し(略)坊主の舌耕初て出白石敵討を云を少聞(略)富士やに宏斎流一桂挿花会幕打人多く来り見るゆへ内に入見る、見物多し、塗中甚賑し、車坂外より(略)広小路へ出(略)蓬莱屋にも咀英挿花会甚賑し、内に入見る(略)蘭麺客甚多し(略)湯嶋参詣、女坂より上り地蔵拝し(略)鍵屋に休む(略)聖廟拝し西門より帰る(略)暮時帰廬
十九日別録○市村座頑要
廿四日別録○中村座頑要
廿五日○九半頃より湯嶋参詣(略)本郷通、加賀南脇雪駄屋(略)聖廟参詣(略)伊勢屋に休む(略)参詣群集、万年青草・白実唐橘・番椒を買ハせ(略)女坂に青々舘門人盆石会の札有、坂下ゆへ行、五人集盆石を造り有、十六七出来、皆粉石にて不二・三保或ハ菊花等を蒔く、中町より広徳寺(略)戸繋いせ屋に休む、参詣賑たり、直に拝し鰻を放し(略)山下に掛り彼処へ行蕎麦を喰(略)池端通り(略)谷中観成院不動(略)暮過帰る
廿七日○九半前(略)真崎へ行んと思ひし(略)上野谷中通へかかり薬研溝江行、六弥陀わき茶屋に(略)松坂屋脇より小倉侯裏長老町、桑名侯三辻より新橘薬研溝、参詣甚淋し、長谷川町白菊へ(略)村松町より行、せい方へ(略)七半前起行、芝居前にかかる、中村ハ七段目、市村ハ浄瑠璃也、巳前松屋に在し男に逢、新材木町より伝馬町、鉄炮町白銀観音拝し小柳町、筋違橋、湯嶋崖上にかかり男坂お清鄽に休む(略)六半前奥口より帰廬
三十日○九半頃より閑歩(略)快晴秋暑(略)出掛庭にて馬龍に逢、今日菊の藩籬造る、大番町(略)湯嶋参詣、お清鄽に休み女坂より山下を廻り(略)又広小路へ帰り池端より鐘つき堂の下へ出、谷中門より日暮へかかり浄光寺に大名の奥方の供廻り在、問ヘハ越前侯御隠居の由、青雲寺門より出、石仁王前にかかり光明寺(略)小川に添ひ石橋へ出、山王山より庄八辻表門より帰廬、七半前也
 九月は、観劇を含めると10日も出かけている。十九日の市村座は「山姥四季英」で、菊之丞が大当たりを取っている。また廿四日の中村座も、「仮名手本忠臣蔵」が大入り、信鴻も別録に記している。なお、この芝居は元文五年の『矢の根蔵』を修復忠臣蔵と呼んだものである。
 他に注目したのは、十八日の「宏斎流一桂挿花会」「咀英挿花会」である。この頃、江戸で生花が盛んになっていことは伝えられているが、「宏斎流」や「咀英」については資料不足でよく分からない。