★天明二年春・一月~三月

江戸庶民の楽しみ 61
天明二年春・一月~三月
★一月
 年が明けても、信鴻の体調は変わらず、三日の日記には「○昨夜半より怒寒発熱、今日平臥、九過より八迄昼寝」とある。それでも、正月には来客、鉢植などの贈り物、さらに十五日の「万歳来舞」と例年と変わらない。廿九日になって、「○夕方お隆同道園中蕗臺・土筆を取、雪折枝幹を集む」と、庭作業を行った。翌日、「三十日○九過よりお隆同道西郊へ出(略)此程久護稲荷神楽堂出来故立寄見、表門より出、久伯脇より山王山恵方故参詣、田畑へ下り光明山前より御用屋鋪前へ出、甚暖和、北より西煙雲多麗和也(略)笠志茶屋休む、庭より坐敷へ通り弁当つかひ休息、八過帰路に趣く、薪屋南脇より西行、染井西福寺参詣、稲荷・地蔵拝し、洞津侯前へ出、七前帰廬」とある。
★二月
十五日○四半時より浅草参詣(略)谷中通(略)龍谷寺入仏供撞の札立、参詣多き故立寄(略)広徳寺前(略)戸繋いせ屋に休む(略)薩埵拝し御手洗へ鰻を放し、無最寿堂涅槃会拝し、婢等経木へ改名つくる(略)寝釈迦堂拝し婢等因果地蔵へ(略)又伊勢やへ立寄(略)並木(略)中通りより御堂前へ出、橋手前(略)山下手前横丁より浜田や脇竹町にて即晴寺へ(略)藤屋二階へ(略)広小路(略)黒門より山内を行、龍谷寺にて音楽の声する故人叢中を押分堂の内に立聴聞(略)聴衆群集也、千駄樹(略)動坂治衛門橡へ立寄(略)七過帰る
十九日○お隆同道九前より浅草参詣(略)富士裏横丁(略)首振坂下(略)山内より屏風坂光岩寺参詣(略)お隆少熟有故地蔵尊像貰ふ(略)塗中甚賑し、孔雀屋へ入て見、戸繋伊せ屋に休む(略)参詣、護摩をたくを見、皆々二百度廻り(略)淡島前茶屋に休み(略)鰻を放す(略)源水を見、芥子の助へ行しに、芸の間ゆへ伊せ屋へ又立寄弁当つかひ、芳屋へも立寄(略)前路を帰る(略)山王下通り(略)中町通女坂より湯島参詣、お清鄽に休み(略)虚無僧来り修行する故皆々見る(略)森田や前(略)西門より本郷通り土物店(略)吉祥寺前(略)奥口より暮時帰る
廿日○八過より珠成・お隆同道西原へ摘草に(略)六阿弥陀前にて娵菜・芹等摘、笠志呼出る、六阿弥陀参詣、鐘楼建鐘もおろし在、お隆参詣する故又同道、下男在て梅・椿等の枝を取貰ふ、路次も明る故庭を見(略)大門脇に氈を鋪、弁当開き酒飲み、庄屋前より草を摘み摘み西行、昌林寺観世音参詣、暮前前路を帰る、塗中草を摘、帰家暮時(略)
廿二日○八過より珠成・お隆同道西郊辺閑歩(略)西門より出、巣鴨町北行(略)又五郎辻より野へ出、大塚通りへ行、上の橘落板僑かかる、町裏の土堤にて娵菜等摘み、護国寺前へ山、観音参詣、此程三十三所薩埵山内に堂雄につき此比鍬初在、堂左右茶屋小野屋借り弁当開き田楽やかせ休み(略)帰掛堂左の堂へ参り、帰路珠成餹を求め奪合戯行、幽霊橋より幕時帰る、西門より入る
廿七日○九少前より珠成・お隆・栄次郎同道浅草参詣(略)富士前内海四辻(略)千駄樹(略)谷中(略)上野桃満開、彼岸桜半開、車坂(略)並木本道へ出、直に参詣御堂廻り御手洗へ鰻放し、芥子蔵床机にて見る、甚群集木綿にて波をうたせ、旦親の十七回にて去年よりせし由にて床なき箱より五色のきれ出す手妻、其外茶碗・脇差・石等を投る、半時計見物奥山廻り榧八幡参詣、伊勢屋へ(略)参詣夥し、前路を帰る、広小路(略)竹町通藤屋(略)池端(略)中町へ(略)森田屋(略)六半頃奥口より帰る(略)今日塗中甚賑なり
廿八日○八比よりお隆(略)西郊へ摘草に(略)山王山より田畑あせにて摘草、娵菜甚多し(略)田畑より野通り西原村へ入、老尼やつれたる衣を着、木の梢を拾ひ左右に負ひ来る容皃賎からす、年を問ヘハ八十の由、耳目壮人の如し、巣鴨原町に独居する由、錫杖にすかり腰たはみ甚行歩になやむ様子也(略)爰にて土筆少取り、西原の東の田家の縁にて蒲公等取(略)民家に入席を敷やすむ、主婆に摘草椒芽貰ふ、笠志邸へ(略)又摘草、六阿弥陀前へ田舎の老嫗四人太鼓をもち念仏唱へ旅の風情にて来り、此方にて無量寺へ参るを見て人に問しに、此所に弥陀ハましまさぬ由云し故西の寺へはかり詣しといふゆへ、此寺を教へ、いつこより来りしと問ヘハ、葛西の新瀉より今朝八里の道を来りし由いふ、伴ひて参詣、如来観音拝し居るうち、谷等のそみしとて念仏踊を踊るゆへ、二百銅遺ハし又召連門外表石前へ出、かしこにて弁当開き老嫗四人へも遣ハす(略)本道の方へ日沈みて帰路(略)通りへ出、又娵菜をつみ暮時帰る
 二月の半ばに信鴻の体調が回復し、6回も外出している。浅草など出かけた場所は、そこそこ賑わっていた。注目したのは、葛西から訪れた「老嫗四人」、信鴻は「二百銅遺ハし」、「弁当・・遣ハす」である。彼の心遣いに感心すると共に、高齢者がこのような活動が容易にできたということに、当時の社会の寛容さに心いる。なお、この月のイベントとして、浅草御蔵前八幡で勧進相撲が催されている。
★三月
二日○九過より珠成同道雛市へ(略)土物店より本郷辺塗悪し、桃桜満開、神田脇井筒屋に休む(略)よね・京同道神田明神造立ゆへ参詣、未かこひハ取らす昌平橋より十軒店西角舟月雛鄽へ行(略)群集(略)鍋町一丁め(略)筋違橋(略)天神下通りすきや町より中町へ出(略)大槌屋雛みせへ(略)上野内清水参詣、今日開帳、山中桜盛也、日長原より谷中門いろはより日暮里見晴しへ行、床机にて休む、天気晴四方夕霞最色可愛(略)暮前帰廬
四日○九過よりお隆同道雑司ケ谷へ願解に(略)表門より出、和泉境より同道、稲荷小路桃桜満開、春色多し、砂利場にて娵菜少し取、大学裏の坂にて休む(略)護国寺三十三所地ならしの子共看板にて多く群在、寺内桜花真盛如雪、参詣多し、薩堆開帳にて内酔へ入拝し、愛染も拝す、直に鬼子母神参詣、角先頃祈薦頼みし僧横笛を二人にて吹居たり角彼処へ行挨拶、二十人にて百度、西坂下にて娵菜つむうち出茶屋の床机樹陰へ取寄せ休む、裏通り摘草、和泉屋へ行弁当開(略)護国寺前茶屋に休む(略)安藤前より幽霊橋大学(略)西門より六半前帰る
七日○八過よりお隆同道西郊へ摘艸(略)門前庄八庭へ行、桜真盛楓蝦手甚好(略)庭中巡覧(略)故権兵衛方へ(略)本道へ出る、酒鄽(略)無量寺にて摘草(略)笠志御用やしきへ(略)御用屋舗へ行、花見帰り甚多し(略)御屋敷内一丁四方計の芝間中に一丈許高く四方磴道有、御駕台也、登り見る、蒲公夥敷つみ又笠志内より無量寺辺摘草、所々花盛なり、庄屋門前にて氈を敷弁当披き休む(略)笠志前にて暇遣し、市衛門召連暮時帰る
十四日○八半過よりお隆同道西郊へ摘草に(略)酒屋辻より出、菜種盛りたり、山王山神主庭へ入橡にて耽望(略)坂下にて娵菜摘、牡丹屋東の民家此ほと行し家へ行、三葉芹・蒲公取(略)無量寺前後畔道にて摘草、伊勢参宮人二人甚労れし容子にて名主の宿を問ふ故、所似を尋れハ、二人乍ら鹿島辺の者にて伊勢より中橋の人中里村の十二三の長吉と云者四人連にて下向、作夜中橋に三人乍らとまりしに、今暁中里の者御秡を持逐電ゆへ中里村へ来り尋しに、吉衛門子長吉と云老ハ此辺になき由云故、西原返を尋れ共知さる由、所の者来り交語数回、上中里の方へ行、笠志方にて弁当つかひ、暮過挑灯、にて帰る
十五日○四半頃より(略)浅草美濃谷汲観音参詣、今日初日也(略)お隆駕にて出、富士横丁(略)上野内屏風坂光岩寺参詣(略)塗中甚賑し(略)群集故御堂内より行、風神門内大熱閙、伊勢屋に休む(略)観音参詣、護摩焼を見る、大群集故東の磴道を下り無竜寿堂谷汲観音参詣、大に込合拝し難し世話人竹囲を取、内陣へ入れ拝す、大幟数本風神門外にも三社祭礼の幟例の如く建(略)三杜神楽を上るをみる(略)今日梅若参詣の由開帳初日故見せ物等未出す、霊宝場も定らす、裏門より出、姥か池を見、吾妻橋にて暫耽望、すた堤人行多く舟多く出(略)河岸を一丁下り並木一丁め横丁より御堂前へ(略)三河屋に暫休み(略)山下より広小路中町女坂より湯島男坂上茶屋芳屋へ(略)芸者一人来り三絃弾(略)伊勢屋に(略)聖廟参詣、西門より霊雲寺参詣、地蔵堂にて僧衆行道のつとめの様子、俗も数人来在、比丘出坐、爰にて二十二三の賎女ニツ計の女子連来、その子皆によく馴染手を引かれ抱かれたとする故糖遣ハす、本郷へ出、日暮松悦方へ立寄休み(略)暮過奥の口より帰る
 三月は、雛人形、摘み草をしながら花見、そして開帳が催される。これらは春の行楽として、当時の庶民が楽しみにしていたものである。信鴻の日記から、雛鄽が年々繁盛しているように感じる。信鴻は毎年、雛人形を求め、雛壇を飾り、宴を催している。たぶん、行事として定着していたのであろうが、日記には「雛祭り」とか「桃の節句」とは書いていない。三月三日が五節句の一つ、「上巳」であることは、信鴻は当然知っていたはずであるが、その「上巳」の文字も記していない。
 十四日に「伊勢参宮人」の話がある。伊勢参りは、庶民に広く浸透していたことがわかると共に、トラブルが多発していたのも事実であろう。
 三月の開帳は、『武江年表』によれば「○三月十一日より、永代寺にて、鶴が岡八幡宮本地愛染明王、頼朝公髷観世音開帳、此時、境内へ出し巫女のおすてといへるは、美女の聞えありて、にしきゑにも出たり、○三月十五日より、浅草寺念佛堂にて、美濃谷汲華厳寺十一面観世昔開帳、○同日より、回向院にて、奥州金花山辨財天開帳、○芝金正傳寺にて、中山智泉院鬼子母神開帳、○茅場町薬師内にて、北澤淡島明神開帳」等が記している。信鴻は、十五日に「美濃谷汲華厳寺」の開帳を見ており、混雑具合や様子を記している。