★天明二年冬・十月~十二月

江戸庶民の楽しみ 64
天明二年冬・十月~十二月
★十月
二日○八半前よりお隆同道常徳寺・円通寺へ(略)富士裏、御鷹匠町裏、常徳寺地蔵拝し、土物店へ出、円通寺へ行、居宅甚乾浄、甘糕・蕎麦等種々饗応、庭前仮山水を見、文珠参詣、卵塔見廻り、尾沢と囲碁、六半前起行、塗中婢等おとし帰る
七日○九時よりお隆・貞操院同道、雑司谷(略)西門より(略)猫また姥か鄽に休む(略)護国寺観音拝し、直に鬼子母神参詣、杜内賑なり、千年堂辺飾物半出来、本坊綿にて大象を作甚好、其外紙にて白地作たるも好、裏より和泉屋へ行、九郎僧立花を見る、表埜敷客男女多し、離亭に休む(略)護国寺内三十三所の内谷汲観音堂出来直に拝し、浪切より本通り観光山前に掛り、巣鴨権左衛門辻より通へ出、四郎左衛門菊を見る(略)夫より左太郎菊を見、西門より晩鐘頃帰る
十三日○九つ時よりお隆同道浅草参詣(略)富士裏(略)三辻(略)瑞倫寺裏門(略)寮の飾物を見る、甚賑也、清水門より上野うち車坂より行、寺町鳥屋にて鸚鵡を見、戸繋伊勢屋に休み、薩埵拝し、御手洗へ鰻放し、三杜経蔵塔を見、又伊勢屋に休み(略)前路を帰る、根岸を池端とんとん庵案内に遣し、山下より行、池端木戸より七八間行、庵狭し(略)暮前起行
十九日○九過よりお隆同道浅草参詣(略)富士門(略)御手鷹町(略)いろはの内塗あしく、下駄に成(略)御本坊大師参詣、車坂より下る、塗中賑也、広徳寺(略)浅草広小路杵屋に此蔵在し饅放す(略)明石反畝を見(略)又伊勢屋に休み、弁当つかひ、浅草餻を取寄、皆にも喫せ、前路を帰る、風神門(略)車坂門へ(略)上野内へ入(略)首振坂上(略)世尊院前を廻り、吉祥寺前(略)暮六つ帰る
廿二日○八過よりお隆同道湯島へ参詣(略)富士裏より御鷹匠組屋布うら、養源寺前より根津社内を見、七軒寺町より不忍池側へ出、白鳥を見る(略)榊原前へかかり、女坂より湯島へ行、お清鄽に休み(略)聖廟拝し、西門より帰る、切通し上水の樋をかけ居たり(略)本郷より六時帰る
廿五日○九時より湯島参詣(略)本郷通り樹木を見、聖廟拝す、お清鄽先へ出(略)母の鄽に休む(略)女坂より下る、中町上水樋かけ、塗悪し、須原鄽へ(略)上野本法華経の直を問しむ(略)池の端通り、桟崎にて穴沢追つく、八の鐘を池端にて聞、八半頃帰る
廿七日○八少過よりお隆同道上野辺閑歩(略)富士裏入口塗少あしく、右折より好(略)谷中門より入、大仏へ行、七過故閉扉、清水参詣、山王見晴にて暫休み、入相前起行(略)又谷中門より出、感応寺内日暮桜屋へ行、菜飯・田楽を云付休み、六時起行、法華寺庭内より行、佐竹舘脇泥濘沼の如く、一町計藪下畷を伝ひ行、所々塗甚あしく六半過帰家
 十月の日記には書かれていないが、この月のイベントとして深川八幡で勧進相撲が催された。信鴻は、お隆の体調が良くなったとみえて、先月末頃から頻繁に出かけ、十月は7回も外出している。出かけた場所では、特別な催しがあったわけではないが、どこもそこそこ賑わっていたようだ。また、前年から続く千川上水の通樋工事、気になるらしく度々記している。
★十一月
朔日○八過よりお隆同道王子稲荷参詣(略)午の日ゆへ行人あり、笠志鄽(略)権現の橋より山越に行、帰路下の道にかかる(略)飛鳥山下長岡屋へ(略)白南天・万年青草の実を取、爰にて少睡眠、入相頃起行、妙喜坂にて挑燈つけ六頃帰家
十四日○九時より浅草へ(略)神明原(略)篠原辻(略)屏風坂より光岩寺参詣(略)戸繋伊勢屋に休む、鄽娘云、小松屋へ来りし廿六七の婦、馬喰町旅籠屋さつ手屋の女にて、五六度離縁せられし婬婦の由、七八分之艶色在(略)薩埵拝す(略)榧八幡計拝す(略)又いせ屋に(略)駒形川へ戸隠へ納る梨子の苞を流し(略)珠成方へ行、並木三町めの横町より朝鮮長屋前安部川町へ(略)織田やしきへ出、溝棚角より羽山侯舘脇、珠成裏門より入る(略)貞操院も待うけに来在(略)貞操院方へ(略)佐竹館脇(略)御かち町(略)六あみた辻より広小路(略)池端三四丁(略)穴稲荷(略)吉田侯門前(略)切通し(略)角の茶屋(略)門へ入時五の鐘聞ゆ
十六日別録○中村座頑要
十八日○四半比よりお隆同道浅草参詣(略)富士(略)内海甚衛門前(略)首振坂(略)谷中門(略)車坂より出、広徳寺(略)御堂内(略)田原町(略)西仲町(略)戸繋伊勢屋へ(略)観音参詣、内陣参詣多き(略)大士拝し、御手洗へ鰻二度分放し(略)伊勢屋へ帰り、弁当つかひ(略)前路を帰る(略)東仲町二丁めへ下る、爰も塗悪く、一丁行て又南へ下り御堂前へ(略)車坂門内にて下り、信濃坂下寿昌院太師参詣、今日何方も風故参詣少し(略)御門主築地前(略)いろは辺(略)七半比奥口より帰る
二十日別録○市村座頑要
廿二日○四比より六本木・森元へ(略)目赤前より塗悪く(略)柳町(略)隆慶橋(略)牛込門より土堤通り(略)裏六番町、善国寺谷、紀侯前、赤坂御門外菱屋水茶やに休み、一つ木通り(略)氷川前、南部坂、六本木裏門より入、(略)表門より出、長坂へかかり(略)高稲荷下(略)裏町を過、裏門へ入(略)路次より表の園中を廻る(略)表小門より出、西久保、牧野前、虎門、西丸下、和田倉、一つ橋松紀州脇(略)安部辻番(略)向富坂(略)馬場手前三丁程泥濘深(略)六半帰家
廿五日○四半過より上邸へ(略)松悦(略)加賀辻番辺(略)湯島参詣(略)中坂より下り、筋違橋旭山に休み、今川橋(略)中橋(略)松川町より弾正中屎橋へかかる、橋外より御堂参り夥し、筑地門迹裏門より入る、熱閙分かたし、御堂大に群集、惣門を出右折、河岸へ出、人にもまれ五丁めの橋より直行、山下門より新道木戸へ山寺迎に出(略)七過起行、前路を帰る、河岸より銀座二丁目へ出、日本橋(略)筋違橋内地形出来(略)筋違御門を出、神田井筒屋に休む(略)神田坂(略)伊豆蔵(略)森川にて六の鐘聞え、半前奥口より帰る
廿九日○九前よりお隆同道月桂寺参詣(略)西門より原町辺塗悪く、猫また橋坂土を置甚好、向埠(略)護持院手前橋(略)音羽町向ふ風寒し、関口水車を見る(略)わせ田を越(略)川田窪通月桂寺松竹庵へ行少休み(略)御墓へ参る、梅巌明日七回、其外不残参詣(略)又松竹庵へ帰り(略)高田道へかかる(略)本松寺へ参詣(略)穴八幡坂道普請(略)水稲荷裏門より入表へ出(略)雑司谷甚淋し、内陳参詣多故階下にて拝し、和泉屋にて(略)社前の鄽へ(略)護国寺内(略)猫また(略)原町(略)六過西門より帰る
 十一月は、観劇2回を含めて8回も外出している。別録によれば、中村座市村座も「大入」「近来の大入なり」となっている。しかし、市村座は十二月、借財のため困窮し休座している。
★十二月
四日○九前よりお隆同道浅草参詣(略)富士裏通り(略)首振坂(略)谷中門(略)車坂通山下より弘徳寺手前迄水道普請最中、戸繋伊勢屋に休む(略)観音参詣、源水こまを見(略)榧八幡参詣(略)又いせ屋へ(略)御堂前新堀橋普請囲ひ、仮橋をわたる、車坂(略)瑠璃殿(略)首振坂上(略)七半比表門より帰る
十七日○四時より浅草市へ(略)谷中門(略)屏風坂(略)光岩寺へ参詣、階下にて拝し、本道此比通樋(略)広徳寺のうしろより幡晴院(略)誓願寺うらより明右反献町へ入て群集、矢太臣門より入、堂左磴道を登り薩埵拝す、群集なから込ます、堂後磴道を下り、人叢中を奥山出茶屋迄行(略)奥山人叢中を安左衛門へ廻り、仁王門より濡仏前へ抜、裏より伊勢屋へ行、客多き故芳屋へ(略)榧寺(略)加藤遠江前東漸寺の橋より行、珠成裏門より入る、牧野迎に出、彼処にて夕餉(略)三絃溝橋にかかる、神保備前わき(略)六あみた辻へ出、爰より群集分かたし、湯島女坂より上り、お清鄽に休む、聖廟拝し(略)人叢中塗甚あしく、森田や(略)日蔭町(略)追分(略)円通寺前(略)六過奥口より帰る
廿一日○九頃よりお隆同道浅草参詣(略)富士(略)北側の田畝を廻る(略)神明(略)神祠拝す、千駄木辺塗甚難渋(略)谷中門外より草履に(略)等覚院太師へ参詣(略)瑠璃殿(略)車坂より下る、山下樋差埋め、成就院脇より橋手前迄樋普請最中也、塗好戸繋伊勢やに休む、鄽娘在、薩埵拝す(略)御手洗へ鰻放し、榧八幡拝す(略)仁王前(略)又伊勢屋にて弁当遺ふ(略)並木へ下り造花や升屋へ寄(略)三つめ横町より二つめ横丁へ出(略)木村眼随(略)寺町にて二所へ寄(略)山下へ(略)池端にて白鳥等多き故暫眺望(略)護国院裏門(略)桟崎坂(略)法住寺辺(略)不動坂(略)神明(略)天念寺前(略)光岩寺前海老屋(略)辻番より又塗あしく、六過奥口より帰る
廿五日○九時より湯島参詣(略)甚暖和春の如し(略)聖廟拝し、お清鄽に休む(略)女坂より下り中町山城屋にて烟管出させ見(略)池端通り、護国院裡門前(略)谷中坂下(略)神明うちより帰る、富士前(略)八半前帰る
 十二月は、信鴻の日記からは特別なことはなかったようだ。江戸の町は、例年通りの慌ただしい師走を迎えていたと思われる。なお、信鴻も関心ある話題に、市村座が借財のため休座したことがある。
 また、天明二年も、七月に地震があったくらいで、江戸の町は平穏であった。その地震も、信鴻の日記はことさら触れていない。