★天明三年秋・七月~九月

江戸庶民の楽しみ 67
天明三年秋・七月~九月
★七月
六日○当年の大炎暑○暮過より南方震動の如く響き蝿中迄出る、先年大島焼し時の如くにて続ミ不止、四半時許にて問遠く成○夜なを震動の音響き脈られす
七日○早朝より一面曇り空薄赤く胴中樹々霧の如く烟をこめしことく正北に響折々聞ゆ、浅問のやくる成へしなと云、昼に成、木葉に焼砂多し、烟の如く見ゆるハ砂の下る也○四る半過就眠、暮より震動つよく地震の如く家鳴
八日○土烟一天に満空中冥々震動間遠に成、四過雨少降出空あかむ、浅間山五六日焼る由風説
に葎心台榊貰ふ○昨日平洲へ寒漬鯨遣ハす○
 この月、お隆などは出かけているが、信鴻は体調不良のためか何故か外出していない。
 『武江年表』によれば、「○信州浅間山火坑大に燒、江戸にては七月六日夕七ッ牛時より、西北の方鳴動し、翌七日猶甚し、天闇く夜の如く、六日の夜より関東筋毛灰を降らす事夥し、竹木の枝積雪の如し、八日にいたり快晴と成る、○此頃、綿麻價貴し、○夏より秋迄、霧雨冷気にして、帷子を着る日少し」とある。そして、「○七月十日より、芝愛宕地内に手、本所五ッ目自性院延命地蔵尊開帳、○葛西半田稲荷社修復、勧下御免にて江戸中の船宿へ施財を募る、○関東奥州筋飢饉」」とある。     
★八月
六日○七過より近郊へ(略)西福寺地蔵参詣、坂を下り無量寺へゆく、左右秋草茂り塗あしく無量寺門瓦普請足代掛有、門にて駕より下り参詣、又門より駕に乗、老助坂迄行、雄島笠志方江行見る、今日会にて客多き由ゆへ引返し、田畑にて駕たて晩晴の秋色を詠め薄雰の気色好、山王山より暮前帰る
十九日○九時より(略)浅草参詣(略)お隆と駕にて庭より(略)富士裏より(略)谷中(略)日長原(略)車坂より出、広徳寺前塗あしく戸繋いせ屋(略)観音拝す、雨小降、御手洗へ鰻放し直に下向(略)又いせ屋に休み弁当喫(略)八の鐘闘ゆ、土産物かハせ(略)新寺町(略)又車坂(略)内海三辻(略)七つ時庭路次より帰る
廿四日○八少過お隆同道雑司谷へ、六木木御病気御快然の願鮮(略)西門より(略)原町直行、砂利場の橋(略)護国寺観音拝す(略)鬼子母神拝し直に二十人にて百度参、予は三返参り、鷺大明神に入烟を弄し休む(略)和泉屋にて大平・川楽等云つけ弁当(略)七半前起行、亭主に栗貰ふ、薮そはより野通り、猫またの坂大に悪く涯上の狭道を(略)皆徒跣、暮時西門より帰る
廿七日別録○中村座頑要
廿八日○八過よりお隆同道彼岸につき近遠の寺へ参詣(略)西無量寺参詣、塗中参詣賑なり、庭へ入裏門へ出、笠志腰掛に休む、笠志は滝の川辺へ出し由、暫在て御用館前より行(略)余楽寺前にて坂を下り余楽寺参詣、甚賑也、建立仏等所々に在、青松寺門より入て佐倉屋へ行、田楽なと云つける、下の寺も客多く、編笠着たる浪人らしき老二人碁太平記かたる様子、七半過起行、下寺の坐敷に女客多く、三絃弾居たり、前路を帰る、山畑へかかり富士手前にて挑燈つけ表門より六時帰る
 八月は、『武江年表』に「○八月十五日亥の刻、月蝕、四分半」とある。信鴻の日記には「上邸より月見祝の物来る・・・今夜清光昼の如し」とあるだけで、月食には触れていない。
 この月は、信鴻の体調が回復したと見えて5日外出している。浅草では、いつもの賑わいがなかったようである。近在では、西原無量寺や余楽寺周辺で賑わいを見ている。信鴻の出かけは籠を使っており、体力が完全に復調してはいないようである。そのため、出かけ先の情況をどのくらい正確に把握しているかは不安がある。
★九月
朔日○九過よりお隆同道浅草参詣(略)谷中門(略)薬帥遥拝し、日長原にて烟を弄し三河屋へ立寄大解、客在故お隆川越屋に休み(略)戸繋伊勢屋に休む、観音拝し後確より下り鰻放し奥山廻り又いせ屋へ行弁(略)砥井も参詣(略)駕に乗、車坂内にて下る、吉祥院太師参詣、屏風坂より上り、日長原(略)七の鐘聞ゆ(略)法住寺前にて雁雁渡る(略)富士裏より七半前帰廬
三日別録○市村座頑要
八日○八時よりお隆同道雑司谷へ(略)西門より原町へかかる、氷川祭の幟二所に建る、猫またの坂辺大に悪し(略)護国寺観音拝し(略)参詣余程多し(略)堂内陣込合故下段にて拝し、御堂廻り堂左にて土産求め和泉やに休む(略)芸者爰へ来り無程表坐敷へ行三絃ひく(略)七半過起行(略)幽霊橋にかかる(略)小堀下館後通りより原町へ出、巣鴨東の辻に屋台にて人多く大鼓打居たり、原町(略)西門より帰る
十日○七時よりお隆同道(略)札辻より山王山、田畑村右折、熊野坂より争杉(略)坂を下り、御用館東の坂を登り笠志邸に休む、笠志迎に出、入相頃起行、暮時帰廬
十一日○九時よりお隆同道浅草参詣(略)谷中通、経堂後ろ辻番かり大鮮(略)車坂より出、戸繋伊勢屋に(略)薩埵拝し、御手洗へ鰻放し、奥山廻り、明石反畝を望み(略)又伊勢屋へ(略)山下にかかる、吉原禿三十人はかり通る、中町通り湯鳥女坂より行、地蔵・聖廟拝し松か根やに(略)女坂より根津へかかる、一境稲荷、窟大黒参詣、根津鳥居前茶屋伊勢屋へ立寄(略)世尊院前にて六の鐘(略)六半前帰廬
十三日○九少過よりお隆同道深川辺仏詣(略)本郷通り(略)筋違外広小路相撲屋水茶屋に暫休み(略)河岸(略)新橋より柳原へ入り、両国橋渡る、波静に舟多し、網舟も有、一つ目橋より森下町神明前祭前にて幟たて甚賑也(略)鳥居前迄行しに群集ゆへ横丁へ行ぬけ、霊岸寺内伊丹屋墓所を尋ね(略)浄心寺諸所墳墓拝し(略)心行寺暢誉墓参詣(略)大橋をわたり中洲水涯上総崖河州庵二階へ行(略)水に望み眺望大に好(略)浜町(略)難波橋より真鄽へ立寄(略)長谷川町(略)昌平橋外所々祭の桟敷かかり大幟建る、湯島一丁目(略)大番町木戸際にたて待つうち月見囃子の声聞ゆ(略)松悦門にて茶を飲み(略)角伊勢屋前にて五の鐘聞へ奥口より帰る
二十日○九頃よりお隆同道浅草参詣(略)不動坂(略)車坂より出、光岩寺参詣、与力町より広徳寺前へ出、
浅草中町(略)戸繋き伊勢屋に休む、薩埵参詣多し、御堂裏閑歩、又伊勢屋に(略)浜松西台歩行にて参詣(略)御堂前(略)新寺町(略)日長原茶鄽薄縁の上にて暫休み谷中門(略)いろは(略)桟崎坂(略)七半前帰家
廿六日○八半頃よりお隆同道西郊閑歩(略)西ケ原塗片道つく、笠志鄽上(略)御用館前より道灌山(略)佐倉屋にて休み、田楽・鴨焼等云つけ暮前起行、法華寺門より佐竹前、田畠にて六の鐘聞へ、内海前塗悪し(略)六過奥口より帰る
廿七日○九半頃よりお隆同道三絃溝へ行(略)本郷通り、日蔭町、春木町森田やへ立寄(略)湯島参詣、男坂より下り松坂や脇、道朋町通り三線溝表門より(略)七半頃貞操院へ(略)又裏門より出る(略)立花前へかかり竹町へ出(略)広小路より池端塗甚あしく所々丸太渡し甚難渋、穴稲荷の前(略)護国院前三辻(略)伊豆辻番(略)備後辻番を過て六の鐘聞え六半前奥口より帰廬
 九月は、浅草に3回を含め8日も出かけている。浅草などそこそこ人出があったようだが、熱気のような賑わいは感じられない。
 『武江年表』に「○九月十五日、神田明神祭礼の時、神主願より御輿を、十番と十一番の間へ渡す事、当年より始まる、是迄は、三十六番の末へ渡しけるが、還興深夜に及びける故、今年よりかくの如くに成る。○同日より、亀戸妙義山権現開扉」とある。