★天明三年冬・十月~十二月

江戸庶民の楽しみ 68
天明三年冬・十月~十二月
★十月                                           二日○七頃より(略)菊花を見る(略)西門より(略)左太郎菊を見る(略)客少在、稲荷裏より権左衛門菊を見、表へ出弥三郎菊を見る、客多く酒呑居たり、四郎左衛門菊にて橡をかり茶を飲、和泉境より庄八庭へ行暫休む、明日太師へ出す植木荷こしらへ居たり、小菊買ハせ暮時帰廬
七日○七過よりお隆同道(略)路次より滝方江菊見に行
十日○四半過よりお隆同道浅草参詣(略)表門より(略)富士裏(略)不動坂(略)谷中門(略)瑠璃殿(略)車坂より(略)戸繋いせ屋に休む(略)薩埵拝し御手洗へ鰻放す、又伊勢屋に(略)小松や厠へ大解に行、お駒飴来り、芸をさせ見る(略)両宝童子前(略)柳稲荷前にて向ふに人たち有、人を捕へ縛りし由、人に障見へす、横丁へひきゆき町家へ預るてい也、瑠璃殿参詣、日長原(略)首振坂宇平次庭の菊を見る、御影講かさり有(略)七少過帰る
十三日八過よりお隆同道飛鳥山へ(略)笠志鄽上に少し休み飛鳥山上に敷物もたせ、茶屋より田楽取寄酒呑、塗より遠目鏡取にやり、山東遠望、諸山皆晴、前路を暮時帰る
廿二日○九少前よりお隆同道浅草参詣(略)不動坂(略)備後辻番前(略)上野中楓葉如錦、車坂より行、三河屋へ(略)戸繋伊勢屋に休む(略)薩埵拝す(略)御手洗へ鰻放し榧八幡参詣、此春より大坂下りの難波屋の女佳麗成由聞たる故、矢太臣門より出る、茶屋ハ四辻向角に在、女評判程にも非す、町中より弁天前へ出、裏口より伊勢屋へ(略)仁王門へ(略)人叢中(略)前路を帰る、上野日長原(略)不動坂(略)富士反畝(略)七過帰廬
廿五日○九前より湯島参詣(略)本郷通り鰻堤にて九の鐘聞ゆ、聖廟拝しお清鄽に休む、参詣少く植樹も少し、女坂より下り池端町にて杖を買ハせ(略)池端(略)谷中通富士反畝樹や前より富士裏へ出、八少過帰る
 十月は6日出かけ、その内3日は「菊見」。六義園にもキクは咲いており、園に「菊見」に訪れる人がいるほどである。なお、「菊見」がただ花を観賞するだけでないことでなく、「酒呑居たり」と楽しみは他にもある。信鴻は、浅草、飛鳥山、湯島などに出かけているが、人出は多くなかったようだ。
 『武江年表』によれば、「○十月廿八日暁、小傅馬町一丁目より出火、大風にして大傅馬町通、旅籠町田所町、長谷川町、堀江町、小網町一丁目辺、堺町、葺屋町辺、本船町、小田原町、室町、鉄砲町、共外数町焼亡、同日午刻鎮る」とある。信鴻の廿八日の日記には、「五過山頂より火事を見る、お隆も出、伝馬町辺に見ゆる(略)人遣ハす○四過恨岸を真方へ遣ハす、両芝居焼失、真方栄屋は残りし由、火元も伝馬町二丁目の由」とある。
★十一月
二日○四少前より六本木へ参る(略)小石川通り一橋(略)大手、和円倉、桔梗前(略)虎門(略)榎坂、市兵衛町南の門(略)門限迄迎ひに出、西の坐敷へ(略)御寝所へ行、雨戸参り、真黒灯闇くし御容顔曾て見えす、御声も聞えす(略)九半頃南門(略)飯倉通(略)増上寺前上原館前(略)中川前より木挽町猿屋へ(略)爰にて夕餉(略)看板を見る(略)弥左衛門町(略)小田原町火事後塗悪き由云ゆへ差より河岸へ出、神田橋外より三河町、昌平橋外にて焼迹板行うるを買ひ、井筒屋に休む、廓主は茶屋の向に鄽出し在、木食寺前(略)本郷四丁メに仕事し生酔に成しを児輩嚇し居たり、五丁目(略)帰廬幕時
十七日○九頃よりお隆同道浅草参詣(略)いろは(略)車坂下(略)今日参詣多し、伊勢屋に休む(略)薩埵拝し因果地蔵へ参り又いせ屋にて弁当(略)前路を帰る(略)西中町通より御堂裏門へ五囲はかりの大木車にて引込、群集通行ならさる様子故引帰し誓願寺前の門より御堂へ入、車坂(略)青龍院大師参詣(略)千駄木辺にて雨少至、七半過帰る
廿三日○九頃よりお隆・珠成同道池端辺へ(略)富士裏より近道(略)千駄樹、首振上より根津裏門へ(略)風月庵橡にて休む(略)観音拝し根津を過、池端正慶寺観音参詣、障子の外より拝す(略)池端へ出、水鳥浮遊を見、榊原脇の坂を上る、加賀東の門に駕・鑓等多く賑也、今日会津世子より結納来る日なり(略)人立有、森田屋に休む(略)日蔭町一町下り中小路より通りへ(略)円通寺弁天へ詣、芭蕉翁の観音拝たき(略)由ゆへ直に出、表門よりより七半前帰る
 十一月は、市村座で『初髭奴丹前』が大当たりを取ったくらいしか見受けられず、町中の賑わいは少なかったものと思われる。信鴻の帰宅時刻も「七半」と午後5時頃、日没前である。
★十二月
二日○九過より浅草へ(略)富士(略)内海辻(略)谷中門(略)車坂(略)戸繋伊勢屋に休む(略)薩埵拝し(略)又伊勢屋にて弁当(略)前路を帰る(略)車坂より入(略)桟崎(略)角いせ屋前にて挑燈つけ幕少過奥口より帰る
四日○九時よりお隆同逝雑司谷へ(略)西門より出、稲荷小路、秒利場の坂泥濘、猫また向の坂、姥か床机に休む(略)護国寺薩埵拝し、裏門より出、直に鬼子母神拝す、今日参詣甚少き故、祠辺所ミ熟覧、和泉屋にて料理・田楽等云付休む(略)七半過起行(略)前路を帰る、護国寺裏門にて雑菓子を買ひ(略)堂後を廻り波切坂中より裏の崖路へ行、所々塗危嶮、観光山前へ出、裏門より日暮帰る
五日○八時よりお隆同道近郊閑歩(略)西原より道灌山通り、日幕里佐倉屋へ休み芋豆腐なと煮させ酒を呑み、青雲寺内より帰る、田畑夕雰暮色大好、暮時帰る
十四日○九半過よりお隆同道湯島へ(略)富士より谷中へ出、上野中広小路より中町男坂よりお清鄽へ行(略)お隆聖廟参詣(略)西門より出、森田や前にて鄽婆・鄽妹と交語、加賀裏門(略)竹町へ(略)七半過帰廬
十八日○四前より浅草市へ(略)谷中門より屏風坂、弘徳寺裏より孔雀屋前へ出市へ出る、人甚少く常よりハ賑ハし、田原町にて手遊ひ陣笠・鳶口を買ひ、風神門内群集なから込ます、伊勢屋に休む(略)御堂へ上り内陣にて拝む、内陣は人甚少し(略)西磴道より下る、此辺熱開、無量寿堂後水茶屋床机に休む、爰にて各買物(略)仁王門より左へ出、伊せ屋裏へ(略)色々買ひ並木を下る、風神門外大込合、並木より蔵前まて大熱閙(略)鳥越前へかかる、人行少し(略)加藤前より竹町、六阿みた脇へ出、此辺甚賑たり、上野内鐘つき堂(略)首振下(略)七半過帰家
廿五日○九時よりお隆同道浅草参詣(略)富士(略)首振(略)谷中門(略)屏風坂より光岩寺参詣、日々の掛銭奉納(略)寺町にて魚・鼡・虵なと造し鄽へ立寄みる(略)伊勢屋に休む、薩埵拝す、護摩たき居たり、御堂廻り又いせ屋へよる、因果地蔵参詣、並木より二丁メ通り山下(略)中町より湯嶋女坂下へ(略)女坂より上り地蔵拝し松か恨屋へ七半頃起行(略)浅香町(略)吉祥寺(略)六過奥口より帰る
 十二月に入って、信鴻は浅草や雑司ヶ谷に出かけたが、人出は少なく閑散としていた。十八日になると市が催され、買い物に訪れる人々でごった返している様子がわかる。しかし、その後に出かけた廿五日の記述からは、例年のような賑わいが感じられない。
 『武江年表』に「○十二月廿日巳の刻過、浅草鳥越より出火、本所横綱へ飛、堅川通御船蔵後通り、深川六間堀本誓寺、霊巌寺浄心寺、猪の堀迄焼る、○十二月廿二日暮増上寺方丈焼失、○秋の角力、毎に延で寒中に興行する事、今年より始る」とある。信鴻の日記には、「二十日○四過下谷火事、藤代峯へ上り見る」とある。しかし、廿二日の火事については触れていない。
   
 天明三年は、七月の浅間山の大噴火によって関東一円で作物に大きな被害が発生した。また、天候不順、大雨や冷夏など物理的だけでなく、人々の不安など精神的な面でも大きな影響を及ぼした。なお、東北地方では大飢饉が発生し、一揆など社会的な混乱があちこちに見られた。
 それでも、春の開帳は20以上、見世物も前年にも増して興行され、寒中の相撲興行が始まるなど、江戸庶民の遊びへの欲望は持続している。