富籤に託した一攫千金の夢

江戸庶民の楽しみ 81
富籤に託した一攫千金の夢
 一鉢の植木が時にとんでもない利益を生むことから、園芸で身を立て、成功をおさめる者がでる一方、本業を放り出して、落魄する者もあったことが『遊歴雑記』に記されている。いつの世にも、一攫千金を夢見る者は多い。博打については幕府は一貫して禁止していたが、現在の宝くじにあたる富くじは認めていた時期もあった。なかでも文化年間(1804~18年)は、「江戸の三富」と称して公認され、盛況を極めた。
 「人、人、人、ごった返した谷中感応寺の境内が、一瞬水を打ったように静まりかえる。係の男が、大きな錐を箱に入れる。ほどなく一番札が錐の先にささった形で出てくる。と同時に「子(ね)の一三二七ば~ん」とカン走った声が境内に響き渡る・・・」
 これが有名な江戸の富くじ(富札、富突、富興行ともいう)で、関西では江戸時代の初期から、江戸では十七世紀の後半ごろから、町人が胴元になって商売をしたのが最初だといわれている。社寺では1699年(元禄十二)谷中感応寺に対して本堂建立を目的とした興行が許され、以降はもっぱら社寺の資金調達の一手段として発展していった。
 幕府はこのようなものに江戸市中の人々が傾倒するのは好ましくないと考え、制限や禁止を加えたりしたこともあった。が、社寺にとっては、資金調達の手段であり、庶民にとっても、大金がころがりこむチャンスというわけで、年とともに富くじ興行は盛んになっていった。中でも田沼意次老中格となった明和年間から安永・天明年間(十八世紀半ばから後半)にかけては、一大ブームというべき時代が到来した。
  さて、富籤の仕組みだが、現代の宝くじによく似ている。紙の札に番号を書き、同じ番号の木札を作る。紙の札は市中で売り出す。そして決められた社寺で、役人立ち会いのもとに富突きが行われる。見分役人は、始まる二時間前から会場に入り、富箱、木札の数、富突きに使う錐の見分などを行い、富突きが始まると、今度は喧嘩や口論などの騒動が起こらぬように監視した。
 ところで、この庶民の間で人気沸騰の宝くじ、当時の金額にして一体どのぐらいの賞金がもらえたのだろうか。江戸では大体一回に発行する富籤枚数は、三千から一万五千枚程度だった。最高金額はおおむね50両から100両で、発行枚数が一万五千枚に達して初めて二百両という高額の賞金が出たらしい。また「湯島大富千両富」というような特別の富籤もあり、これらは福禄寿松竹梅の札が、各一万枚、計六万枚発行されるという大掛かりなもので、この時の最高金額は六百両であった。
 六百両という金が、今の金にしていくらぐらいになるのか、詳しくはわからないが、少なくとも数千万円にはなるはずである。寺門静軒は、『江戸繁盛記』に「当たれば」として「十年も人から雇われていた男が一朝にして錦を着て故郷に帰るように栄える。昨日鏡を質に入れた女が、今日はベッコウの櫛や、こうがいを頭につける・・・」と、大当たりをとった者が、一夜にして急変すると書いている。
 また、静軒は「富籤」から生まれた、ちょっと変わった商売についても言及している。日暮れになると、怒鳴るように叫んで通る者がある。最初はそれが何かわからなかったが、やがてこれは富籤の場でその日に刺した第一等の札の符号を知らせるものだとわかる。その男は、「子の一三二七番」なら「子」というその一字を知りたい人に四文で売って生計を立てる。晩に一走りして一〇〇文の銭をもうけると、それで一升の米が買える。
 静軒は自分もなかなか一升の米が買えないので、やってみたいが、恥ずかしくてできない・・・というようなことを半ば本音まじりで書いている。富くじは買ったし、一刻も早く結果を知りたいが、色々な事情でその場に行けない人も多いだろう。その辺りの庶民のニーズに目をつけた、目ざとい商売人が江戸にはいたということである。
 さて気になるのは、果報者たちのその後だが、残念ながらその後の人生は、どうもあまりよろしくないようだ。馴じみの傾城相手に「当たったら身請けしてやる」などと、調子の良い口約束をする者も大勢いたらしい。だが、一番札を引き当てた男が、首尾よく馴染みの女を身請けして夫婦となったという話は聞いたことがない。
 また、たとえ当たっても、賞金の一割は奉納させられたり、次の回の富籤を買わされたりという「義務」が待っている。しかも神社や札売などにも祝儀名目で金をとられた。今と違って個人のプライバシーなど持たない長屋社会の住民たち。当たったとなれば、周りがただではおかない。毎晩、酒だ、吉原だとたかられ放題。日頃の借金がキレイになればまだ良い方だったのではないか。
 この富籤、1842年(天保十三)、禁止された後は、再度流行した形跡がない。これは、さしもの富くじの人気も飽きられたのか下火になり、同時に興行者側もあまり儲からなくなったからだと言われている。

★文化10年1813年
1月 中村座で『春駒勢曽我』去顔見世より春へかけ大当たり
1月 浅草観音勧進相撲
2月 禁止の雛・道具の商売再々規制
2月 本所押上春慶寺に出現した白蛇に、参詣者殺到
春頃 浅草寺念仏堂での常陸鹿島社内広徳寺開帳を含め開帳5
3月 森田座で『於染久松色読販(ウキナノヨミウリ)』半四郎一人当たり
3月 物乞い願人坊主の歌い踊る「葛西金町半田のいなり」流行
4月 両国柳橋大のし富八楼で立川金馬が咄の会開催
4月 中村座で『其面影伊達写絵』好評大入り
夏頃 浅草今戸町八幡開帳を含め開帳3
夏頃 浅草に水車を仕掛け、水力で人形を踊らせる見世物が出る
7月 浅草寺境内荒沢堂開帳を含め開帳2
秋頃 巣鴨染井周辺で35軒が菊細工を見せ、見物人が群集
秋頃 怪奇な噂話が競って作られ流行
9月 森田座で『男一疋達引安売』大入り大当たり
11月 回向院で勧進相撲
11月 市村座で『戻橋背御攝(セナニゴヒイキ)』12月中旬迄大当たり
式亭三馬浮世床』刊行
○女義太夫が現われる
○東両国に小狐の見世物出る
☆この年のその他の事象
3月  隅田川土手や池上本門寺などで相次いで相対死(心中)発生
6月 蕎麦を食べると死ぬという流言が出て蕎麦屋の客足が落ちる
9月 米価下落
11月 日本橋高砂町から出火、市村座中村座および繰芝居が全焼

★文化11年1814年
1月 結城座で大阪下りの子供芝居興行
1月 咄の会を禁止
2月 深草砂村元八幡宮より手前に八重桜植え、毎春遊覧多し
春頃 永代寺での成田山新勝寺開帳を含め開帳10
3月 市村座で『隅田川花御所染』5月中旬迄大入り
4月 富士講禁止
4月 渋谷金王八幡宮開帳を含め開帳6
4月 回向院で勧進相撲
6月 森田座、巨額借金で困窮し休座
6月 中村座で『双蝶々曲輪日記』大当たり7月節句も不休
7月 小石川伝通院に徳本上人十念を授くるため参詣者群集する
7月 護国寺開帳(参詣者群集スル)を含め開帳2
8月 中村座で『伊賀城乗掛合羽』鑓の伝授場大入り大当たり
秋頃 巣鴨染井周辺の菊細工、52軒に増えて見物人が群集
10月 浅草奥山で見物人から謎をかけさせ、答える謎坊主人気
11月 市村座で『世界花菅原伝授』大入り大当たり
11月 回向院で勧進相撲
12月 熱田派と伊勢派が12組ずつ組織し、太神楽仲間規定を決める
☆この年のその他の事象
1月 大風で亀戸妙義社詣り船数艘沈没
9月 滝沢馬琴南総里見八犬伝』刊行
○相撲取、雷電為右衛門が江戸払い

★文化12年1815年
1月 芝神明社地で三遊亭可楽が謎解きで大当たり
春頃 結城座、竹本津賀太夫等で大入り
3月 中橋下槇町で林屋正蔵が咄の会開催
3月 麻布天現寺開帳 
3月 芝西久保八幡宮勧進相撲
4月 咄の会を禁止
4月 江ノ島弁財天開帳に江戸より参詣者多し
5月 将軍、参府中の飛鳥井雅光らの蹴鞠を観覧
5月 再興河原崎座で『時今攝握児(トキハイマゴヒイキヤッコ)』大入り
夏頃 回向院での秩父大日向山大陽寺開帳を含め開帳2
7月 回向院での甲斐板垣村善光寺開帳を含め開帳3
7月 浅草牛頭天王(ゴズテンノウ)別荘大円精舎で朝顔合わせ開く
7月 河原崎座で『慙(ハヂ)紅葉汗顔鏡』団十郎早替わり大入り
7月 中村座で『男作女(ダテイロモ)吉原』歌右衛門大当たり
9月 神田明神祭礼、松が描かれた金屏風に、見物人殺到 
10月 千住一丁目の飛脚屋で酒飲み比べが盛大に催される
11月 河原崎座で『大和名所千本桜』大当たり
11月 麹町十町忌法境内で勧進相撲
☆この年のその他の事象
2月 高利取締令
○市中の寄席75軒

★文化13年1816年
1月 中村座で『比翼蝶春曽我菊』追々評判出て大入り
2月 芝西久保八幡宮勧進相撲
2月 咄の会を条件付きで許可
春頃 回向院での目黒祐天寺開帳を含め開帳5
4月 花見の船中で喧嘩、両国橋上で大乱闘
夏頃 回向院での府中深大寺開帳を含め開帳3
8月 河原崎座で『双蝶々曲輪日記』大入り大当たり
9月 中村座で『布引瀧』『褄重噂菊月』大入り
9月 内幸御門外で観世太夫勧進能興行を行う
10月 浅草奥山で「雷獣」の見世物、看板に偽りと不評
10月 回向院で勧進相撲
秋頃 巣鴨染井の菊、見世物を中絶
11月 河原崎座で『清盛栄花台(ノウテナ)』清盛病の場大当たり 
☆この年のその他の事象
4月 疫病が流行し、死者が多数でる
5月 紫万年青が初登場
閏8 暴風雨で本所・深川に大水

★文化14年1817年
1月 河原崎座で『木挽町曽我賜物』大当たり
1月 回向院で勧進相撲
3月 浅草寺開帳を含め開帳9
3月 桐座で『新舞台仁(メグミノ)礎』大評判で4月上旬まで興行
4月 目黒蛸薬師開帳を含め開帳3
5月 両国柳橋の万八楼で大食い大会を開催
8月 両国柳橋大のし富八楼で立川白馬が咄の会開催
9月 中村座で『連歌月(レンカノハナツキモ)光秀』10月上旬まで興行
10月 両国柳橋大のし富八楼で笑語楼夢羅久が咄の会開催
10月 河原崎座で『恋女房』仁左衛門早替わり大当たり
11月 中村座で『花雪(ハナトフブキ)和合太平記』大入り大当たり
☆この年のその他の事象
1月 日本橋新乗物町付近から出火、市村座中村座が焼失
8月 人家密集地等での花火を禁止 

★文化15年1818年
2月 浅草御蔵前八幡で勧進相撲
3月 中村座で『東山殿劇(カブキノ)場段幕』大当たり
3月 本所弥勒寺開帳を含め開帳3
3月 派手な名広め、浚い会などの開催が禁じられる
☆この年のその他の事象
3月 甘酒売りの老婆に触れると疫病になるとの噂が広まる

★文化年間の関連事象の補足
○根岸円光寺に長さ27間横4尺余の藤棚あり、盛りには都下の騒人が集まる
浅草寺七月十日の四万六千日参りに、雷除けの赤い蜀黍を売ることが始まる
○目黒村に富士山を築く
○遊芸の女師匠が生まれる
○天麩羅、一串四文で広まる
○江戸の貸本屋656軒を上る