盛り上がる寄席

江戸庶民の楽しみ 82
盛り上がる寄席
 寄席が江戸で常設となったのは、大坂から下った岡本万作という男が、町の辻々にビラを張って神田豊島町の藁屋の二階で興行した1798年(寛政十)である。なお、寄席が初めて開設されたのは、それよりも約五十年前(延享二年)に逆上り、芝神明・三田実相寺門前家主の勘助が境内で、子供踊りや物真似などを行ったのが最初らしい。
 その後も、1786年(天明六)に烏亭焉馬向島の料亭武蔵屋で仲間うちで「咄の会(落語のはじめ)」を開いたり、浄瑠璃・小唄・軍書読・手妻・八人芸・説経・祭文・物まね尽くしなどを一まとめにして演じ、料金を取って営業することは続けられていた。
 1804年(文化元)、三笑亭可楽下谷広徳寺門前孔雀茶屋で「三題噺し(弁慶・辻君・狐)」を初演するなど、寄席は人気のすそ野を広げていった。また、1805年(文化二)、町娘が数人が集まって、女浄瑠璃を演じて定見世のように席料を取ることが禁止されている。このように、町屋で興行をするのは当時かなり定着していたようだ。
 1815年(文化十二)までには、市中に75軒の寄席ができて、盛り場や西両国の寄席では、正月二日から一年中昼間(十時ないし十二時より夕方まで)、毎日、演目を取りかえて興行していた。さらに、初代林屋正蔵の「怪談噺」が大当たりをとった文政後期には、寄席は125軒に増加していた。
 当時の寄席の状況を寺門静軒は、一興行七日で、一町内に一カ所程度あったと、『江戸繁昌記』(竹谷長二郎訳)に書いている。当時は、寄席は片手間商売で、大半は店の二階で催されていた。木戸銭、入場料はその日の顔ぶれによって異なり、たとえば、1838年天保九)に牛込藁店の寄席で、「都々逸」を、はやらせた人気者の都々逸坊扇歌には、日に三回の高座で一回毎の報酬として七~八両支払わねばならなかった。
 それで、入場料の方も当時の最高額の五十六文となった。が、通常は十六~二十八文であった。ただし、これだけではすまず、下足札が四文、また部屋に入ってからも座布団や煙草盆が必要とあれば四文づつ、さらに、演芸の合間に、前座が十数文の籤を売りにくるというのが慣例であった。経営者を「席亭」と呼ばれ、鳶の頭などが経営している場合が多かった。異色の席亭として、シーボルトの獄に連座した奥医師土生玄碩やまた七万両を盗みながら、拷問に耐えて出獄を許された青木弥太郎がいた。
 寄席の演じ手は、一番人気の都々逸坊扇歌、続いて噺家の一団、具体的には、1809年(文化六)には柳橋の「大のし富八楼」で落咄会を開いた朝寝坊夢楽、前述の烏亭焉馬、続き物の道具入り芝居咄を得意とした金原亭馬生、手先が器用で絵心があった上に義太夫にも精通、怪談噺を売りものにした林家正蔵などがいた。その他にも、中津藩士でありながら常磐津若太夫に転身、音曲の名手となった麗々亭柳橋や「花見の仇討」の原作を含む滑稽本『花暦八笑人』(1820年)の作者、瀧亭鯉丈などもいた。
 寄席が人気を得た最大の理由は、歌舞伎の入場料が値上がりし、芝居が見たくても見られない庶民に対し、当たり狂言のさわりを演じたり、鳴り物やロウソクなどを使ってリアルな怪談噺をするなど、庶民の欲求をうまくとらえた点にある。その上、近場にあり、仕事が終わってすぐ行けるという手軽さ、と同時に低料金は、まさに庶民の望んでいたものであった。さらに、寄席は、町内の人々が毎日集まるクラブのような存在となり、洗練された江戸前の芸を求める時代感覚をも満足させた。
 しかし、幕府の対応は厳しかった。1831年天保二)には、素人家で「寄場」と称して見物人を集め、席料をとって座敷浄瑠璃人形遣いなどを交えて興行するものが増加したので、これを禁止した。なお、軍書・講談・昔咄などはその対象にはならなかった。が、この処置は、当時の流行を証明しているもので、この程度で寄席の観客が減少するわけはなかった。
 一方、幕府の態度も硬化、寄席の規制は年々強くなっていった。都々逸の流行した翌年(1839年)と、さらにその次の年(1840年)と続けて寄席の規制が出されている。そして、1841年(天保十二)、ついに天保の改革が始まった。1842年2月10日以降、江戸市中の寄席は15軒と定められた。演目も神道講釈・心学・軍書講釈・昔咄の四種類に限られてしまった。たとえ昔話であっても、滑稽が優先する落咄は許されなかった。
 水野忠邦が老中を罷免されると、一転して、寄席の自由化が行われ、66軒だった寄席が翌1845年(弘化二)には七百軒に増加した。この当時寄席芸人がどのくらいいたかということについて、二代目船遊亭扇橋が『落咄家奇奴部類』(1848年)に八百人を超える芸人の略歴をまとめている。これによると、江戸で活躍していた芸人の出身地は、盛岡、秋田、高崎、土浦、桐生などが多く、新潟、塩尻、伊勢崎、成田、飯田などには地付きの芸人がいることも書かれている。
 このように寄席が急激に増加したのは、庶民の熱い支持があったからである。ところが、1847年(弘化四)に再度、寄席の取締りが行われた。もっとも、取締まりの効果の程は、その前年(1846年)に「謎解き」が流行していることを考えれば、首をひねらざるをえない。
 さらに寄席を盛んにしたのは、安政の大地震である。震災復興によって、職人の手間賃が上がり、寄席の客は職人が大多数を占めるようになった。ここで、おもしろいのは客筋の変化が、ストレートに噺に反映している点である。寄席は職人のものとなり、落咄の登場人物も職人層に代わる。
 たとえば『たがや』の話は、それまでは町人である「たが屋」の首が切り落とされる話であったのに、震災復興後は、武士の首が宙を舞うという、まったく逆の筋書きになってしまった。講談や人情咄なども、小難しく、教訓的なものから単純におもしろいものへと変わっていった。『大江戸都会荒増日勘定』によれば、軍談の席が220軒、はなしのは席172軒で、計392軒となり、この時の賑わいはピークに達した。

★文政1年1818年
4月 永代寺での麻布日ケ窪龍興寺開帳を含め開帳4
5月 中村座で『妹背山婦女庭訓』五日目より客留50余日興行
5月 10月まで葺屋町都伝内芝居で寿狂言興行
5月 花火を取り締まる
6月 山王権現祭礼
秋頃 回向院での紀伊日高郡鐘巻道成寺開帳を含め開帳2
9月 中村座で『忠臣蔵講釈』『時頼記』共に大当たり
10月 浅草御蔵前八幡で勧進相撲
10月 都伝内退座し玉川座となる
11月 中村座で『誰身色和事(タレモミヲイロニヤツレシ)』大当たり
☆この年のその他の事象
○江戸朱引図が作成される

★文政2年1819年
春頃 亀戸天神開帳を含め開帳5
春頃  不忍池を浚って茶亭酒楼を設置
2月 湯島円満寺に小田原から木食上人が着き貴賤群集する
3月 中村座で『助六曲輪菊』と玉川座『助六縁江戸桜』が菊五郎助六団十郎助六とで張り合い大入り 
3月 回向院で勧進相撲
6月 回向院での嵯峨清涼寺開帳を含め開帳2
6月 中村座で『再夕暮雨の鉢木』大入り大当たり
7月 浅草奥山で一田正七郎が籠細工見世物を出して大好評
8月 中村座で『いろは仮名随筆』大当たり
秋頃 両国にも籠細工やギヤマン灯籠に蘭船の作り物が出る
9月 水天宮、水難除け・安産の札を求め朝から殺到
11月 回向院で勧進相撲
○葺屋町河岸で大坂下り谷川貞吉が「うかれ蝶」という手品興行
☆この年のその他の事象
2月  京橋新肴町からの火事で鳶人足の喧嘩発生、134人が処罰される
5月 麻疹流行し始める
6月 三橋会所廃止、頭取杉本茂三郎追放される

★文政3年1820年
1月 亀戸天満宮のうそ替神事始まる
1月 烏亭焉馬が亀戸藤屋楼上で咄の会を開く
1月 中村座で『仕入曽我雁金染』大入り
3月 西両国広小路で女曲馬興行、連日大入り
3月 角筈村十二社成願寺開帳(境内ノ池ニ親船ノ造リ物アリ)を含め開帳5
3月 回向院で勧進相撲
夏頃  回向院での信州善光寺開帳(両国橋辺ニ見世物多クデル)を含め開帳3
6月  山王権現祭礼
7月 中村座で『忠孝染分繮』大入り、殺人事件を仕組お咎め
8月 麻布一本松氷川明神祭礼、山車練物出す
8月 花火をとりしまる
10月 俳諧や諸芸などの会合を取締まる
10月 葺屋町辰松芝居で唐人の看看(カンカン)踊が連日大入り
10月 茅場町薬師で勧進相撲
○寺社地及び両国橋詰めに大作りの見世物が多数出る
○薬湯と称して、高額の湯銭を取ったり、混浴させることなどが禁止
○木場角乗りが、角筈熊野十二社境内で興行
○細工類の見世物、春に浅草奥山に10種、夏に両国で12種興行される
☆この年のその他の事象
12月 上の不忍池を浚う
○堀切村の小高伊左衛門が花菖蒲の品種改良をする
○瀧亭鯉丈『花暦八笑人』刊行
○下駄の歯入れ、提灯の張り替えの職人が現れる

★文政4年1821年
2月 浅草御蔵前八幡で勧進相撲
春頃 深川永代寺での成田山新勝寺開帳を含め開帳4
3月 深川八幡前で看看踊、6月には回向院で演じられ大流行
4月 回向院での羽州湯殿山注連寺開帳を含め開帳3
5月 中村座で『御所桜』3月より好評大当たり
7月 回向院で足立郡性翁寺開帳
9月 門前茶屋が富興行の札を販売することを禁止する 
10月 回向院で勧進相撲
10月 茶屋女取締り
☆この年のその他の事象
2月  「ダンボ風」流行、窮民29万余人に救銭を給与
5月 市ヶ谷御門外に御徒水泳稽古場ができる
11月 市村座再興顔見世『何種亀顔触』   
        
★文政5年1822年
1月 烏亭焉馬が咄初めの会開く
1月 回向院で勧進相撲
2月 看看(カンカン)踊及び唱歌を禁止
春頃 葺屋町河岸に唐人踊の見世物出る
2月 天下祭りの華美を禁止
3月 永代寺での加賀倶利伽羅山長楽寺開帳を含め開帳5
4月 芝高輪常照寺開帳を含め開帳2
8月 浅草奥山、両国などで流行した投扇興行が禁止 
5月 両国広小路の観場に奇人の足芸の見世物、空前の大当たり
夏頃 上野山下火除地で籠細工などの見世物、大入り
6月  山王権現祭礼、質素に行う              
秋頃 山下に笑布袋という見世物が出る           
9月 浅草寺中実相寺で山城西之山村福王子開帳       
9月  小石川赤城明神祭礼、町々より山車練物出す      
10月 回向院で勧進相撲
11月 市村座で『御贔屓竹馬友達』団十郎菊五郎の和解初演 
☆この年のその他の事象
5月  木挽町森田座から出火
十返舎一九東海道中膝栗毛』完結

★文政6年1823年
3月 王子稲荷開帳を含め開帳4
6月 花火を取り締まる
3月 浅草三社権現祭礼、町々より山車練物出す
春頃 芝宇田川町に若鶴・白滝という二軒の茶屋ができ、美人の娘で繁昌 
4月 将軍、吹上苑で相撲見物               
5月 回向院で摂津天王寺開帳
5月 両国の見世物にギヤマンの宝船が人気を呼ぶ      
5月 富士講の参詣者が増え、はめをはずさぬよう通達    
6月 浅草慈眼寺境内の子供相撲に、見物人殺到       
7月 牛込宗柏寺開帳                   
10月 再興河原崎座で『嫗山姥紅葉赤本』          
浄瑠璃結城座で興行                  
○富突流行、市中31箇所                 
1月 麻布吉川から品川本宿鮫洲までの大火
8月 品川辺大津波、死者120余人
12月 平河社の歳の市で混雑している時糀町から出火 

★文政7年1824年
1月 湯島天神勧進相撲
春頃 素人力持、深川八幡・御蔵前八幡などで興行多し、無料
3月 浅草慶印寺での京妙満寺開帳を含め開帳3
4月 薩摩座再興する
3月 山下に五重塔をせり上がる見世物でる
5月 長唄浄瑠璃三味線師匠が花会などと称し、派手な名広めを禁止
5月 中村座市村座で『絵本合法衢』競演         
夏頃 回向院での山城紀伊郡吉祥院開帳を含め開帳2
閏8 西両国で駱駝(ラクダ)二頭が見世物、群集する
閏8 高田南蔵院開帳
9月  赤城明神祭礼に5尺あまりの獅子頭2つが出て見もの  
10月 回向院で勧進相撲
11月 河原崎座で『男山恵(トリタテ)源氏』梅幸結城座で興行
浄瑠璃、薩摩座・結城座で興行
☆この年のその他の事象
4月 吉原京町から出火、遊郭全焼
5月 文政一朱を新鋳
7月 閏8月まで水害が多発する
9月 品川御殿山の桜600本櫨60本
○春から秋にかけて麻疹が流行