四季の行楽

江戸庶民の楽しみ 84
四季の行楽
 1841(天保十二)年、水野忠邦を中心に、奢侈を禁じ、風俗を取り締まる天保の改革が始まった。早速、不忍池新土手の茶屋は風紀を乱すという理由で残らず撤去。神田権現祭礼の付祭は減少、江戸三座の浅草移転、女義太夫三六人逮捕、江戸の寄席場規制、賭博厳禁、吉原以外の売女禁止、唄浄瑠璃三弦の女師匠の弟子取り禁止、武家屋敷での賭博禁止、矢場女を禁止。その上、役者市川海老蔵は奢侈僣上の罪で江戸追放、絵双紙売買規制、旅稼ぎ役者規制、絵双紙の検閲強化、等、次々に厳しい措置が出された。
 それまで比較的自由にさせておいた町人の活動を、一挙に引き締めようとしたが、逆に幕府の無力をさらけ出すことになった。結局、わずか三年たらずで水野は失脚し、1844年(弘化元)制限が解除されると、町人の遊びは以前にもまして盛んになった。
 中でも庶民の行楽は、『江戸名所図会』『江戸名所花暦』『東都歳事記』などいわゆるガイドブックが次々に出版された。天保年間(1830~44年)に行楽地として、初日の参拝地として洲崎、花菖蒲の見物地として堀切(1844年頃)などが有名になる。また、麻布で鶏の頭のようなトウモロコシができる(1845年)と評判になり、どっと人が押し寄せるなど、江戸っ子らしい物見高さも高まっていった。
 そこで、江戸の歳時記を見ながら、春から順に庶民の行楽活動を追ってみよう。当時は旧暦(太陰暦)なので、春は正月から始まっている。現代では、一月というと真冬の感覚だが、江戸時代の正月はいまの二月、前年の十二月の内に立春があって元旦を迎えるのが普通であった。いまでも新年を新春・初春と呼んで祝うのは、こうした旧暦の感覚が残っているからである。
 初めに、一月の主な行事を見ると、初詣、日の出、七福神参り、藪入り、観梅、開帳と続く。庶民は正月からあくせくと動き回るようなことはしない。三田村鳶魚によれば、江戸の正月はとてものどかなものだったようだ。特に町人の元日は、何もないと言って良いほど静かで、寂しいくらいであったと言っている。
 まず初日の出、当時の建物は二階屋までしかなかったので、ちょっと小高いところに上がれば容易に日の出を見ることができた。名所と呼ばれる場所は、深川の州崎、芝高輪の海浜、芝の愛宕山、神田の明神、湯島天神、九段坂上などたくさんあった。が、それでも実際に拝む人は非常に少なかった(江戸市民の1%以下)。
 というのは、大晦日は町人の大半が夜遅くまで働かなければならず、当然翌日は、朝寝坊。そのような時に早く起きて、初日を見ようなんて思うのは、よほど酔狂な人だけ。『東都歳事記』には、大名の登城風景の背景に「初日」が描かれているが、よく見ると町人の姿がまったく見当たらないのは、そのためかもしれない。
 庶民の活動は二日から。町は、初荷、三河万歳、鳥追、初詣などと賑わいを増していった。中でも恵方参りは、誰彼なしに出かけるほど非常に多く(江戸市民の50%以上)、社寺が賑わった。というのも、鳶魚に言わせれば、正月の初めは娯楽が少なく、他に出かける所がないかららしい。
 初寅(毘沙門)・初卯(妙義)・初巳(弁天)などと、その後もあちこちの神社、仏閣などのめぐりが続く。なかでも、十六日の藪入りと重なる閻魔参りは、浅草寺御蔵前長延寺、小石川富坂町源覚寺などをはじめ、百カ所程度の閻魔堂で行われる。そこで繰り広げられた縁日の賑わいを考えれば、家族の誰か一人が出かけるほど一般的な(10~25%)行楽活動であった。
 春、人々はほころびかけた梅の花を見ようと、亀戸、向島、蒲田などへ出かけ始める。その様子は、十方庵敬順の綴った『遊歴雑記』に紹介されているが、桜に比べると人は明らかに少なかった(1~10%)。朝晩はまだ冷えこむため、勇んで観梅に訪れるのは、風流人と推測。また、鶯(ウグイスの鳴き声を聞く)の名所、小石川、谷中、根岸などへ、観梅を兼ねた訪れるの人はさらに少なかった。(1%以下)
 二月は、最初の午の日が稲荷の縁日としている。市中には、一町に三十五社くらい稲荷がある。気候もよくなるので、多くの庶民(25~50%)が縁日を見に出かけただろう。続く、十五日の涅槃会、これは釈迦の入滅した日に行われる法会で、東叡山(上野)をはじめ江戸の多くの寺で催される。そして、お彼岸、諸寺院は七日間にわたって仏事、説法を行う。また、三十三所観音、六阿弥陀参りもあり、これらや涅槃会などは、信心深い人であれば出かけるのが普通であった。
 三月は春本番、花見のシーズン。暖かさに誘われて、誰彼なしに出歩く、サクラほどの人気はないが、桃、梨花、棣棠、菫草、桜草など、花見は続いた。
 また、春のこの時期は、開帳、相撲、見世物とあちこちで色々な催物がある。庶民に人気の見世物、たとえば1841年(天保十二)に、浅草に出たロバの見世物は、少女が支那芝居の扮装で、月琴を持ち、ロバに乗り、胡弓や笛太鼓の楽隊と練り歩くというものであった。これは、当時としては華やかな上に、楽隊もつくという珍しい趣向で大当たりを取った。この時の見物客は、10~20万人くらいを想定でき、江戸庶民の多くが見ている。
 本所回向院では春の勧進相撲、一日1万人以上が見る大入りもあり、相撲人気は続いている。そのため、関取志願者も多くなり、番付に載らない下位の取組み数は二日に一番であったのが三日、四日に一番と減少した。1851年(嘉永四)の嘉永事件は、相撲を取れない者の不満が爆発し、それを支援する力士が回向院念仏堂に立てこもるという、相撲史上初のストライキである。なお、当時の観客数は一場所十日で5万人を超える時もあったが、勧進ということで女性の見物は許されなかった。
  次に、品川沖、深川州崎などで行われた汐干。汐干は、朝早くから船に乗ってはるか沖にでて、陸地化した海底に落ちている貝やヒラメ、浅瀬に残った小魚などをとって、料理をして食べるという遊び。海辺のバーベキューといった感じで楽しそうだが、金がかかるため、実際にできる人は限られていた。
 汐干はもとは、水辺の祓いの行事、祓いの雛を流すために水辺の行事から発したたもの。それが、磯遊びや磯祭りとして楽しまれるようになった。また、漁獵(スナドリ)もあるが、これは春の鱚釣りのことで、長屋の住民にはあまり縁がない。
  四月の行事としては、八日の灌佛會(カンブツエ)、釈迦の誕生日で花祭り。仏を納める御堂の屋根には花々で飾られ、参詣者は柄杓をもって仏頂に甘茶をかける。特に、回向院の境内は賑わい、甘茶を持ち帰るため竹桶屋が何軒も出たそうだ。在家でも新茶を煮て仏に供し、卯の花をささげ、また戸外にも卯の花を挿す。
 参詣方々花を求め、木下川薬師の牡丹(ボタン)、三囲稲荷の杜菖花(カキツバタ)、亀戸天満宮の藤(フジ)などへと訪れる人は、この時期少なくない。また、杜鵑帰(ホトトギス)は、初音の里・小石川白山の辺(文京区)など九箇所も紹介されている。が、出かけた人は、春の「鶯」と同様に風流人に限られた。
  五月晴れは、梅雨のあいまに見られる貴重な晴れ間。蒸し暑い季節には、納涼、船遊山、螢狩りなどがある。船遊山は、両国より浅草川が第一で、多くの船宿があった。納涼の舟遊び、川遊びとして川開きの期間(五月二十八日~七月下旬)に楽しまれた。「川開き」といえば花火、花火大会だと現代では思っているが、当時は川開きの期間中ずっと行われていた。
 隅田川の両岸の茶屋には客がぎっしりとつまり、橋の上は群集で混雑し、川は船が組をなして入り込み水面が見えないほどであった。寺門静軒(『江戸繁昌記』)によれば「花火が夜空を焦がし、うしおのように集まっていて」という状況であった。納涼を兼ねての花火見物は、一家の誰かがでかけていたほどの多さであろう。
 なお、納涼は、夜が更け、花火船が火をまわして円を描くのを花火の終わりの合図と共に始まる。川面に涼しい風が流れ、花火見物の船は納涼船に変わる。船内には、歌や鳴り物が響き、酒宴は夜明けまで続く。川岸や橋には、船に乗れない庶民が少なからず涼んでいた。
 さて、同じ納涼でも、螢狩りとなると、ホタルの名所は、谷中蛍沢、高田落合姿見橋辺などと、箇所数はあるものの、実際に出かける人は江戸市民のほんの一握りの人でしかなかった。
  六月は山王権現祭礼をはじめ、祭りの多い月で、町中の誰もが心待ちにしていた。
 一日は山開きで、町内各所の浅間神社へ参詣する人が絶えない。富士参りをするために造られた富士講は、一説には三百以上もあったと言われ、誰もが容易に参加できた。また、月末頃からは大山参りがはじまる。参詣者は両国橋の垢離場で水垢離を取ってでかけた。もっとも、このような本格的な参りのできる人は限られていた。
 夏らしい花見としては、蓮(ハス)がある。ただ、花の咲く時間が早すぎて(未明から早朝)気軽に見に行くというわけにはいかなかった。それでも、暑さを忘れさせ、涼やかな気分にさせてくれることから、たぶん、朝参りのつもりで歩いて見にいったのだろう。
 また、夏でも、参詣や縁日の人出は衰えていない。朝参りや夕方の縁日は、庶民にとっては暑さしのぎで、と同時に恰好の気晴らしでもあった。
  七月からは秋。七夕、盂蘭盆会、閻魔参りなどの行事があり、信心深い人であれば、大抵は行っている。秋が深まるにつれて、月見、七草、虫聞、キクと、見るべきものもたくさんあり、祭りも各地で行われる。戸外で遊ぶのに適した季節だから、春と同じくらいの人々が出かけたように思われるが、実際は夏よりは多少多い程度である。それは、開帳が少ない上に、近在農家の収穫時期に重って、人出が鈍るからだ。
  秋の行楽として、漁獵(釣り)は、秋キス、カレイ、クロダイ、ハゼ、センゴなど種類が多い。ただ、釣り人は町人よりも武士の方が多く、長屋の住民たちが気軽に楽しむには至らなかった。
 また虫聞は、マツムシやスズムシなどを求め、莚や毛氈を持参し、その上で瓢箪酒を重箱の肴で傾けるというもの。虫聞は町から離れた淋しい位のところで、宵の口より夜の更けた方が興味深いという、風流人ならではの活動であった。
 それに対し、月見は、どこでもできるが、やはり最上なのは、十五夜に船を浮かべて月を見ること。となると、船を繰り出すのに金がかかり、庶民とは縁遠い。また、萩(はぎ)など秋の七草鑑賞についても、サクラと違って地味であり、やはり風流人の趣味にとどまった。
 九月は、神田明神祭礼をはじめ様々な秋祭りが行われ、夏の祭りと同様、非常に大勢の人々が楽しみにしている。次いで人気のあるのが菊細工(菊人形)。巣鴨染井辺の植木屋を初めとして、団子坂や両国など色々な場所で観賞でき、多い年には家族の誰かが出かけるという程であった。
  冬の行楽は、宗教関連の行事や市などには、相変わらず多くの庶民がでかけている。まず、初冬の十月は、白膠木(ヌルテノモミヂ)や紅楓(モミヂ)など紅葉狩りをかね、谷中天王寺、品川東海寺、鮫州海晏寺などへ参詣かたがた出かけるのが普通だった。
  十一月には、酉の日に行われる鷲明神の祭礼、酉の市(酉の祭)がある。葛西花又村鷲大明神社(足立区)、下谷田圃鷲大明神社(台東区)をはじめ、酉の市へは江戸市民だけでなく、近在の農民たちも訪れた。十方庵敬順は、熊手を売る者が多く、訪れた人は縁起物の熊手だけではなく抽笊なども魔よけになると買い求めていたと、『遊歴雑記』で述べている。
 その他に、隅田川堤の看雪(ユキミ)や千鳥(チドリ)など風流好みの活動もある。千鳥は、深川州崎などで寒い夜に見に行くもので、よく知られてはいるものの、実際行う人は非常に少なかった。
 真冬の行楽活動で特筆すべきは、雪見(看雪)である。芭蕉の句「いざ行かむ雪見にころぶ所まで」を連想しがちだが、実際の雪見は、暖かい茶屋で温かい料理に酒をたしなみながら、雪の風景を鑑賞するというもの。したがって、かなり贅沢な遊びで、庶民が容易にできるものではなかった。
  十二月の節分は、亀戸天満宮追儺(オニヤライ)の神亊、神田明神で疫神齋(ヤクジンサイ)、雑司ケ谷鬼子母神堂で追儺(ツヒナ)など、新年を迎える前の厄払いの行事である。
 それに対し、歳の市は、浅草観音を初めとして深川八幡、神田明神など江戸のいたるところに市が立った。浅草観音などは夜間も参詣人の出入りを許し、行楽的な雰囲気の中、正月の用品を求める人々で賑わっていた。

天保元年1830年
浄瑠璃、土佐座その他で興行
☆この年のその他の事象
12月 日本橋小伝馬町から出火市村座中村座焼失 
   
天保2年1831年
2月 芝神明社勧進相撲
2月 女浄瑠璃を再禁止
3月 亀戸天神開帳を含め開帳3
3月 中村座で二番目大切『六歌仙容彩』初演
4月 二本榎承教寺開帳
夏頃 麻布古川の猿茶屋等で「逆さ首」見世物、引きも切らず
5月 結城座で子供芝居興行
7月 中村座で『駅(ソノウチヤジ)相良件聞書』大評判大当たり
8月 東両国広小路で大碇梅吉一座が子供の力持興行
8月 市村座で『東海道四谷怪談』『千本桜』大入り
9月 堀之内妙法寺開帳
10月 寄場と称し素人家で席料をとることを禁止
10月 幸門御門外で観世太夫勧進能興行、見物人多く日延べ
11月 回向院で勧進相撲(3日間、残り5日間は翌年1月)
浄瑠璃、土佐座で興行          
☆この年のその他の事象
3月 隅田村名主坂田三七郎が隅田堤に桜を植える
○寺門静軒『江戸繁昌記』刊行
葛飾北斎富嶽三十六景』刊行

天保3年1832年
1月 中村座で『花鳥魁曽我』大入り
3月 浅草華龍寺での下総駒木村成顕寺開帳を含め開帳4
6月 山王権現祭礼
8月 谷中瑞輪寺開帳
8月  麻布氷川明神祭礼、山車練物出す
9月  下谷龍泉寺町千束稲荷の祭に山車練物出て、それを屋上から見ていた遊女誤って16人落ちる
9月  中村座で『布引滝』『関取二代勝負附』大評判大当たり
11月 中村座で『碁盤忠信雪黒白』大出来大当たり
11月 河原崎座で『頼有御摂綱』大出来大当たり
11月 回向院で勧進相撲
冬頃  浅草観音開帳
浄瑠璃、土佐座・結城座で興行  
☆この年のその他の事象
8月  鼠小僧次郎吉、引回しの上獄門 
10月 天保2朱金鋳造される
○堀切村小高伊左衛門が麒麟閣・泉川いう花菖蒲を改良して創りだす
為永春水春色梅児誉美』刊行大流行
冬頃 風邪流行、賤民に御救米銭出
○町人人口47万余人

天保4年1833年
春頃 永代寺での成田山新勝寺開帳を含め開帳6
2月 茅場町薬師で勧進相撲
3月 江ノ島弁財天開帳、江戸より参詣者多し
春頃 両国広小路で再び駱駝が見世物となる
4月 回向院での下総岡田郡羽生村法蔵寺開帳を含め開帳5
5月 河原崎座で『玉藻前御園公服(クルイノハレギヌ)』大当たり
6月  浅草第六天祭礼、神輿を渡す
8月 市村座で『忠臣蔵』大当たり
8月  浅草新鳥越安盛寺開帳
夏頃 霊岸島東湊町の先に川辺霊神に一時、参詣が群集
10月 回向院で勧進相撲
不忍池弁財天開帳を含め開帳5(開帳期間不明)
浄瑠璃結城座で興行
☆この年のその他の事象
7月 米価高騰のため江戸から米の積み出しを禁止
9月 米価高騰で窮民が騒ぎを起こす
安藤広重東海道五十三次』刊行
天保の飢饉

天保5年1834年
1月 市村座で『三幅対書始曽我』大出来大当たり
1月 森田座で『念力曽我的雁金』大出来大当たり
1月 回向院で勧進相撲
2月 甲午火事で市村座中村座森田座焼失(森田座は5月本普請にて興行、市村座中村座は年内仮普請興行)
2月 修験者が道場を構えて参詣者を集めることが制限される
4月 浅草本蔵寺での下総多古村妙光寺開帳を含め開帳2
6月 森田座で『当秋八幡祭』大入り
7月 川崎平間寺開帳
7月 市村座で『源平布引滝』大出来大当たり
9月 中村座で『越白濤自来也話』大入り大当たり
10月 回向院で勧進相撲
浄瑠璃結城座その他で興行
人情本滑稽本が流行る
☆この年のその他の事象
3月 水野忠邦が老中になる
6月 千住の米商が窮民の襲撃を受ける
○葺屋町に水菓子安売り「千疋屋」開業
葛飾北斎富嶽百景』刊行
○斉藤月岑他『江戸名所図会』前編刊行

天保6年1835年
1月 森田座で『結題曽我雁』初演
春頃 不忍池弁財天開帳を含め開帳5 
4月 本所三囲稲荷開帳を含め開帳4 
4月 浅草奥山に韓信市人の跨を潜る所の木偶の見世物 
5月 市村座で『韓人手管始』『関取千両幟』大出来大当たり
7月 回向院で鎌倉覚円寺開帳を含め開帳2
9月 神田明神祭礼
10月 市村座で『雪桜詠(キゴトノハナヒトメ)千本』大だて迄大当たり
12月 賭博類似行為を行う飴売り取締り
浄瑠璃、薩摩座・結城座で興行
人情本滑稽本が流行る
☆この年のその他の事象
2月 再び吉原角町から出火、遊郭全焼
9月 天保通宝発行、鉄銭も増鋳
10月 風邪が流行
○食べ物商人5,757軒

天保7年1836年
春頃 芝泉岳寺開帳(義士人気デ店ガ並ブ)を含め開帳5
2月 回向院で勧進相撲
3月 中村座で『春頭劇弥生(カザシノハナシバイノサンガツ)』大入り
3月 浅草奥山でギヤマン船見世物32文で興行、大当たり 
5月 浅草奥山に韓信袴潜り、木偶の見世物出る
夏頃 回向院での嵯峨清凉寺開帳(細工見世物が高い評価)を含め開帳7
6月  山王権現祭礼
7月 浅草本蔵寺開帳を含め開帳2
7月 森田座で『東海道四谷怪談』大当たり
8月  向両国尾上町の料理茶屋で「二人の猩々」の見世物 
8月  湯島社内・芝神明芝居両座取り崩し命じられる
9月 築地御堂大鐘が完成、供養撞(ツキ)初めに群衆が集まる 
9月 中村座で『織合襤褸錦』『非人仇討ち』大当たり
9月 森田座で『名護屋帯雲稲妻』大当たり
11月 回向院で勧進相撲
浄瑠璃、薩摩座で興行
☆この年のその他の事象
5月 身分不相応の贅沢をした札差ら廃業・手鎖の刑
7月  麻疹流行
10月  御救い小屋ができる
○斎藤月岑『江戸名所図会』完成刊

天保 8年1837年
1月 回向院で勧進相撲
2月  米価高騰で市民難渋のため普請や物見遊山の自粛を命じる
4月 森田座で『初袷雁五紋』五人女大当たり
5月 市村座で『ひらかな盛衰記』『大内裏大友真鳥』大当たり
6月 森田座で『仮名手本忠臣蔵』敵討ち迄大当たり
7月  深川浄心寺で甲斐身延久遠寺開帳
9月 神田明神祭礼
10月 回向院で勧進相撲
10月 森田座借財かさみ休座
11月 河原崎座『世界平氏梅顔競(セカイハタイラウメノカオミセ)』で再興
浄瑠璃、座摩境内・御霊境内・稲荷北門等でも興行
☆この年のその他の事象
3月  窮民救済事業として浜御殿の溝浚
春頃 疫病が流行りだし秋まで続く
5月 窮民に施米
6月 モリソン号事件
9月 徳川家慶、12代将軍になる
10月 吉原江戸町から出火、遊郭焼失
12月 天保1分銀新鋳し通用
○『江戸名所花暦』刊行
○人口約128万(男59万女69万)