開帳より見世物が目当て

江戸庶民の楽しみ 86
開帳より見世物が目当て
 江戸時代に見世物を、どのくらいの人々が見ていたかは、わからないと諦めていた。ところが、明治初期の1877年(明治十)から数年にわたって、月別の観客数が東京府の統計に記録されていた。
 このデータは、税金を徴収するために作成されたもので、地域、箇所数、揚げ金(売上)、税金なども記載されている。このデータを見ると見世物のもっとも多かった地域は、納税額から浅草区が一位で34%(明治十二年)。次いで本所区下谷区深川区となっている。これら四区で東京府区部の見世物から上がってくる税額の九割近くを占め、同様に観客も四区だけで、すでに九割程度に達していたようだ。このことから、明治に入っても、見世物は江戸時代の場所で、しかも同じような形で行われていたことがわかる。
  もちろん、江戸時代と全く同じというわけではない。両国広小路などでは、明治になって、往来での大道芸のような見世物が禁止されたことによって、姿を消したり、縮小したりした。しかし、当時の見世物のチラシなどから、まだまだ江戸時代の見世物興行と大きな違いはなかったことがわかる。
 1880年ごろの見世物の観客数は、東京府統計によれば年間60~90万人程度となっている。見世物興行数は、毎年実に二百程度もあったことを考えると、一カ所所あたりの平均観客数は、三千人から五千人(興行期間は不明だが、およそ15日から3カ月程度ではなかったか)と意外に少ない。もっとも、この年間観客数は納税額を反映したものであるから、実際の観客数はそれ以上だっただろう。
 たとえば、1877年の観客数は63万人で、売り上げが8,256円となっているが、その前年浅草の奥山の小象の見世物では、僅か10日間で805円に達したという話もある。また、1882年(明治十五)に興行された曲馬の見世物は、初日から三千余人の大入りで、当初15日間の予定だった興行を10日伸ばしたという新聞記事が残っている。
 むろん、新聞や風評が数値を過大に伝えることもありうる。東京府統計に示されている見世物観客数は、実数よりはかなり低いと考えられる。江戸時代の見世物観客数を推測すると、前述の籠細工見世物のように、一興行で十万人を越えるものが毎年一つぐらいはあっただろう。そして、全体では年間百万人を優に越えていたと思われる。
 また、興行数も明治初期でさえ、年二百程度はあったことから、江戸時代にはそれ以上の見世物が催されていた、と考えれれる。江戸から東京に変わっても、庶民の見世物好きの性質は変わることなく、一年を通して東京のどこかで興行されていた。
 では、見世物はどんな時に行われていたかというと、前述の大坂の籠細工が北野大融寺で開帳に合わせて開催。また、人形細工師龜井齋の籠細工も嵯峨釈迦如来の開帳に合わせて興行されたように、開帳の人寄せ策として見世物が行われたケースが大半を占めていた。そして、庶民は開帳より見世物を目当てに寺院を訪れるという、開帳の方が「従」という形になっていった。
 このように、開帳に見世物は欠かせない存在になっている。開帳がどの季節に催されるかということを、幕末期(1854~67年)の14年間について見ると、二月、三月がもっとも多く、春に集中していることがわかる。したがって、見世物も開帳に合わせて興行されたと言えそうだ。
  また、明治初期の見世物も春の行楽シーズンに集中し、明治十五年に開園した上野動物園も同様である。見世物見物は、春に多く、花見などの行楽活動の一貫として行われ、人々の行動は江戸時代からあまり変わらないようだ。
 見世物とはいえ、職人が技術やアイディアを競い合いった結果、レベルも高く人々の目を楽しませるものも多かった。見世物は最新の情報や流行を取り入れ、それを当時の先端技術で作り上げるから、庶民の人気を呼んだ。むろん、見世物が庶民の独自の文化として隆盛を極め、芸術性を高めていったと言うには少々語弊がある。かといって、すべての見世物を低俗なものと決めつけることはできない。特に、十九世紀になってからの発展は、目ざましいものがある。
 中でも、珍奇見世物は、国内だけでなく外国の珍獣、たとえば水豹、駱駝、海豹、豹、虎、象などが興行に出された。もちろん、中にはペテンまがいのものもあったが、当時の人々の知的好奇心を満たした一面があったことは確かである。また、細工見世物では、ギヤマン細工灯籠やビードロ細工阿蘭蛇船など精巧度の高い硝子細工。それに、米俵二俵を肩に乗せて歩く力持ちなどのからくり人形など、機械仕掛けや外国の影響を受けたものが流行した。
 1836年(天保七)に浅草奥山で興行したギヤマン樓船は、硝子細工師と機関細工人との合作で「紅毛誘参船」と名付けられた、長さ十一間(約20m)、幅三間半(約6m)という大作であった。船内では、玄宗皇帝が杯を手にしながら、楽人の囃子に合わせた宦官の踊りに興じ、船首では、唐人が遠眼鏡で行手を見つめ、船尾では唐子が鳴り物を打ち鳴らすという。その他、福禄寿と唐子の遊戯や崑崙奴の帆綱渡りなどを機械仕掛けで見せるという、手の込んだものであった。
 もしかすると、現代では再現できないような技術レベルに達していたかもしれない。十九世紀までの遊びの文化を見ていると、江戸初期には武家の文化、そして裕福な町人文化と続いたように、いずれにしても上流層の人々が流行を決定していた。庶民は、上流層の流行を羨ましく見ながら、その影響を受けていた。が、この頃になると逆に大衆が生み出した見世物に対して、上流層の人々も関心を持たざるを得なくなった。つまり、庶民文化が時代の流行を先取りし、それを消化していく様子が認められる。
 たとえば、菊細工は、当初は菊の花で兎や象、船などをつくる「形づくり」と呼ばれるものであったが、やがて「菊人形」が登場し、ブームを巻き起こしている。1845年(弘化二)には、細工を競う数、実に81軒。まだ花が咲かないうちから、江戸の町々を番付売りが「菊の番付四文」などと叫んで売り歩き、その版元が60数軒もあったという。
 これほど人気を博した菊細工も、当初は、見苦しいと武士の評価はさんざんであった。しかし、菊人形は一時の徒花ではなく、江戸から明治時代にかけての園芸文化、見世物文化の主役に登りつめた。明治末には両国国技館でパノラマ仕立ての大舞台興行を実現させ、何度も大当たりをとっている。つまり、庶民にはそれだけ先見の明があったということである。
  また、天保年間から目立って興行がふえた、化け物や変死体の活人形など、怖いもの、残酷なものを出す見世物は、近まり来る幕末の不穏な空気を感じ取り、それにいち早く反応した結果ともとれる。確かに、この時期庶民が好んだ見世物は際もの的な要素が強く、良識ある人々から見れば眉をひそめたくなるようなものだっただろう。
 しかし、時代の空気に敏感な庶民の感覚は、侮りがたい。お上の意向をもっても容易に変えることのできないくらいに強固なものになっていた。

★弘化1年1844年
12月 寄席が自由化、数百軒の寄席ができたという
浄瑠璃、薩摩座・結城座で興行

★弘化2年1845年
1月 中村座で『玉翫(タマツバキ)源平曽我』大切り迄大当たり
2月 本所牛御前開帳を含め開帳10
3月 江ノ島岩屋弁財天開帳、江戸より参詣人多数
3月 回向院で勧進相撲
夏頃  芝神明宮開帳を含め開帳5
秋頃  小石川白山八幡社開帳を含め開帳6
9月 神田明神祭礼
9月 巣鴨及び牛島周辺の植木屋や寺院などの菊細工が人気
9月 麻布に鶏の頭のような玉蜀黍(トウモロコシ)ができて評判
11月 回向院で勧進相撲                                               
☆この年のその他の事象
2月 水野忠邦、再任後再び老中罷免 
3月 初代三遊亭円朝、七歳で初高座 
3月 野菜等初物売買禁止令
12月 吉原京町から出火、遊郭全焼

★弘化3年1846年   
3月 洲崎弁財天開帳を含め開帳4             
3月 河原崎座で『廓模様比翼稲妻』評よく大当たり     
3月 回向院で勧進相撲                  
4月 湯島天神・深川八幡にて歌舞伎興行御免        
4月 深川八幡開帳で許可無く見世物を出し中止に、別当の永代寺は閉門
夏頃  回向院開帳を含め開帳3               
5月 浅草奥山で山本小島が軽業興行、好評         
5月 都々逸扇歌の謎解きが流行、一日3回の高座(座料20両ヲ超エル)
6月  山王権現祭礼                    
7月 市村座で『青砥稿』無類の大当たり(以後狂言ゴトニ草双紙ヲ出版)  
8月 中村座で『累扇月姿競』大出来大当たり        
秋頃 巣鴨などの菊細工、その数半減するが人気
10月 市村座で『源平布引瀧』百余日打ち続き大当たり    
11月 回向院で勧進相撲
○伝通院大黒天縁日に「大貉」の見世物、一日銭八貫文を儲ける
☆この年のその他の事象
4月 神事・祭礼の華美を規制    
6月 大雨で本所や深川が大水害  
 
★弘化4年1847年
2月 寄席の取り締まりが強化    
春頃  西新井村惣持寺開帳を含め開帳7
春頃  浅草奥山に、頭が一丈もある朝比奈の人形の見世物がでる
春頃  河原崎狂言で虫拳・狐拳・虎拳が行われ流行、酒の席での余興に真似
3月 回向院で勧進相撲                  
3月 富興行禁止
4月 河原崎座で『福聚海駒(ジユカイク)量伝記』大出来大当たり 
夏頃  浅草新寺町灯明寺開帳を含め開帳2          
5月  浅草寺開帳に酒乱男が暴れ、18人が軽傷              
6月 大伝馬町・子船町天王神輿御旅出           
6月 浅草奥山の見世物で力持ちが失敗し巨石の下敷きとなり即死      
7月 市村座で『尾上梅寿一代噺』大当たり(松緑三十三回忌追善)   
秋頃 目黒茶屋に、菊の作り物が置かれる          
9月 神田明神祭礼                    
10月 吉原秋葉権現祭に山車練物多く出す          
11月 回向院で勧進相撲
11月 市村座で『源家八代恵剛者』大当たり         
11月 寄席の入口での籤引を禁ずる  
12月 縁日や往還・広場での通行人相手の籤が禁止される          
浄瑠璃、薩摩座・結城座で興行
☆この年のその他の事象
1月 市中各所に火災
3月 霊岸島の川浚い、埋立

★弘化5年1848年
1月 回向院で勧進相撲                  
1月 中村座で『月梅攝(メグミノ)景清』大出来大当たり     
1月 河原崎座で『吉例曽我訥子玉』大出来大当たり     
1月 手習師匠の弟子引率の花見を禁止
2月 刃傷事件で両国の見世物数日休業
2月 筋違橋御門外加賀原で宝生太夫勧進能興行、観客立錐の余地なし 
                 
★弘化年間
○鶯の名所として、根岸新田に梅屋敷が開かれる       
○谷中瑞林寺、祈願者多し