外国人と幕末の庶民

江戸庶民の楽しみ 90
外国人と幕末の庶民
・物見高い江戸の人々
 公式に江戸を訪れた外国人の筆頭は、安政四年十月のハリス一行だろう。ハリスは、アメリカの国旗を掲げ、馬に乗って颯爽とした江戸入りを望んだようだが、結局、日本の風習にならって駕籠で行くことになった。道中は混乱なく、蒲田で梅林に立ち寄って梅花の塩漬けを買ったり、梅花を浸した湯を賞味したりしている。
 江戸に入り、日本橋に近づくころには、沿道の両側に人垣ができていた。「見物の老少、面を以て垣とす」と、武江年表に記述があるように、見物人が多かったようだ。外国人を近くで見られると期待していたものの、ハリスは駕籠のなかで、見ることができなかった人の方が多かったのでないか。ハリスは、「私が駕籠の中から見あげたり、見おろしたりするとき、群集は男女の大きな塊りのように見えた」と日記に書き残している。
 江戸の庶民がハリスをしっかりと見物できたのは、数日後の田安門外の生垣と巨木に囲まれた空き地においてであった。ハリスは、健康上の理由から野外での運動をするため馬を要求した。彼が乗馬をするのがどうして知れ渡ったか不明だが、大勢の見物人は生垣の周りや街路に群集していたらしい。物見高い江戸っ子にとっては、ハリス達は、もの珍しい珍獣でも見物するような気持ちだったのだろう。この時、見物人は極めて静かで、ハリスも馬上からではあったが、庶民を直接見ることができた。
 残念ながら、ハリスはこの時、下田周辺を乗馬によって人々に接し、風景を楽しんだようには、江戸の町を見ることはできなかった。そして、翌年の三月、再び江戸を訪れたとき、十六日に浅草、十七日に王子周辺に遊覧にでかけている。四月十九日には、日本橋白木屋でヒュースケンと共に買い物見物をしていたのを、見ようとする群集が集まり大変だった。現代のように、テレビなどの素早い報道がなかったにもかかわらず、どうして異国人が訪れることを知ったのだろうか。また、たとえわかったとしても、大勢の人々が集まったというからには、よほど暇な人達か、仕事を放り投げてでも見たいものと思ったのだろうか。庶民の物見高さにはハリスも驚いていたようだ。
 以後、江戸の町では、外国人が町中を出歩くのが頻繁に見られるようになった。七月には、外国人に対する大和綿、鳥の子紙などの販売が禁止された。庶民の外国人に対する好奇心は衰えず、比較的こころよく迎えていたが、武士階級は、外国人が日本に干渉すること自体に反感を持っていた。ハリスの暗殺をもくろむ者がいたように、外国人の江戸見物は安全とは言えなかった。
 とうとう安政六年には、江戸見物に出たロシア人に、見物人が殺到し、投石する者も出て騒ぎになった。これに対して幕府は、往来で外国人と会った場合、無作法のないようにという通達を出している。どうも、江戸の人々の中には、外国人に対して敵意を持つ人が少なからずいたことがわかる。以後、外国人との摩擦はだんだん大きくなっていく。このことについて、オランダの医者ポンペは、「日本人は外国人をはじめは快く迎え、我々と知り合いになるために接してくれた。しかし、文久年間になると、避けるようになってきた。これは、安政六年(1859)の終わりに、教養のない外国人が多く入り込んだことによる」との発言もある。
・異人さん江戸を写す
 幕末の日本を紹介するには、どうしても主観的になりがちな文章表現より、あるがままの姿を移す写真のほうが適切かもしれない。写真家としては、プロイセン使節団に同行したビスマルクが最初らしいが日本を写した写真は残っていない。また、ビスマルク以外にも外国人写真家は来日しているはずだが、現代に伝わる作品は残っていない。その後、写真による幕末の日本紹介は、イギリス人写真家、ウィリアム・ソンダースによって行われた。ソンダースは、プロイセンの写真家が写すことを許されなかった江戸城をはじめとして、横浜、鎌倉、浅草、増上寺などを写したことが記録されている。そして、その中の横浜全景が版画として現在も残されている。 幕末の写真としてまとまって残っているものに、フェリックス・ベアトの写真(『幕末日本の風景と人びと』横浜開港資料館編 明石書店)がある。ベアドの写真は、被写体の選定、撮影技術などが優れ、写真としてもレベルが高い。特に風景写真は単なる興味本位で異国情緒を紹介するといった感じではなく、当時の景観を生き生きと伝えている。風景写真とは言えど、そこに写っている日本人には生活のにおいが濃く、歴史の断面を切り取ったような情景が少なくない。
 撮影は1864年以降で、背景に写っているケヤキやサクラなどの落葉樹の葉がかなり落ちていることから、当時の暦では十一月頃とソンダースが江戸城内を撮影した季節と同じである。江戸とその周辺の写真の中でやはり目をひくのは、江戸城内が写されていることである。正門(現在の二重橋)や内堀まで写されているが、このような機密事項ともいえることを外国に知られて幕府は何とも思わなかったのだろうか。写真を写すにあたっては当然幕府の許可をもらったのだろうが、撮影時の立会人もいなかったのか。寛大というよりは無防備という気がして不可解である。 また、島原藩屋敷や有馬藩屋敷の周辺の写真は、ひっそりとしていて武士が何人か写っているだけである。人通りは少なく、物音も極めて少ない当時の武家屋敷の情景が伝わってくる。また、イギリス公使館にあてられていた東禅寺アメリカ公使館にあてられていた善福寺周辺についても人影が少ない。
 芝増上寺などは、徳川将軍家菩提寺で、霊廟や内庭を写していることからほとんど人がいないのもわかるが、行楽地で人が集まりそうな浅草寺、王子の茶屋などでも人間が写っていない。閑散とした時間帯を選んでいるのか、それとも警護する役人が見物人を入れないようにしているのか。もし、外国人が写真を撮っていることがわかれば、大勢の人々が集まってきたと思われるのだが、不思議なことだ。
・異人さんに石を投げる
 1853年6月にペリーが来航して以来、外国人と日本人の接触が多くなるにつれて、トラブルが多発した。外国人と日本人とのトラブルは、嘉永七年(1853)、ペリーが神奈川条約締結のために上陸した時から発生している。それは、ペリーと共に上陸したアメリカの士官数名が陸で乱暴をはたらいた上、江戸へ向かったと奉行所に報告された。アメリカ側の報告によれば、川崎まで歩いた三人は、行く先々で住民に気持ち良く対応されたとあるように、庶民に敵対心はなかった。
 外国人殺傷事件は、生麦事件で代表されるようにもっぱら武士との争いである。安政六年に始まった外国人殺傷事件は、慶応三年までに主なものだけで十四件発生している。年代別に見ると、安政六年から、翌万延元年末のヒュースケン暗殺までの間に6件、文久元年から三年までに5件、以後、慶応年間に3件発生している。殺傷事件だけを見ると、文久年間までの早い時期に多発している。
 事件の形態は、生麦事件のように双方が道を譲らぬというような、権利の問題から起きたものと、最初から暗殺目的のものとがある。日本にいる以上、外国人も日本の慣習やしきたりを守らなければならないとする主張は、日本を後進国と見ている外国人には通用しなかった。したがって、武士たちの反発は次第にふくれ上がり、日本流の暗殺を実行するにいたったのだろう。殺傷事件にいたらない小競り合いや対立も数多くあったが、外国人の訴えに大半は日本側が陳謝、謝罪している。これがまた、武士階級の不満を増大させた。
 外国人への反発は武家だけでなく、町民にも広がっていた。外国人の増加に対し、月行事塚谷左平衛の記録に、男女連れ立って得意満面で江戸市中を横行する外国人に我慢できないぐらいになっていることが書かれている。町民でも裕福な層には、江戸の外国人往来が頻繁になるにしたがって感情的な反発が発生してくる。また、下層町民と外国人の小競り合いは、偶発的であるが、幕末になるにつれて徐々に増えている。
 ただ、庶民の場合に限ればその原因はたいてい、外国人側にあると言えそうだ。たとえば、ペリーなどは、日本人に対する偏見が強く、基本的には自分たちよりもはるか下の人間としか見ていない。まして、水兵など、教養のない下層の者は、日本人に対しあからさまに傲慢な態度をとった。これは、それまで中国をはじめとする他の国で振る舞ってきた態度をそのまま踏襲したものであろう。こうした日本人蔑視の言動が、多くの外国人にあったことは否めない。
  慶応二年八月、米国大使ヴァン・ヴァルケンバーグら四名が王子周辺を遊覧し、谷中の団子坂を抜けるとき、貧民の群れに遭い、貧民が馬上の一行にめがけて雨のように石を投げつける事件が起きた。これについては、武江年表に次のように記されている。「大勢の貧民が、裕福な家に行って施しを得ようと、紙の幟を立て、破れた服を身につけ、大勢集まって歩いていた。それを見て外国人たちが笑ったところ、群衆のなかでも反抗的な者たちが怒って、口々に罵りの言葉を吐きながら、石を投げつけはじめた。」
 つまり、外人としては悪気がなかったものかもしれないが、馬上から見られた貧民にとってそれが屈辱的であったことは間違いないだろう。たしかに、このような非常時に外国人が居合わせたことは、不運ではあるが、彼らに近寄ること自体大きな間違いだったともいえる。ここで、貧民は「我々がこのように苦しんでいるのは、元はといえば、夷人来てから物価が高くなったのだ」という抗議の意味合いより、自分たちを蔑んだその目の色に対し、憤慨して投石したと思えるがどうだろうか。
 もし、庶民と同じ目の高さで接しようとすれば、文化や習慣の違いによって生じる行き違いもかなり克服されるだろう。たとえば、イギリス人植物学者ロバート・フォーチュンは1860年11月、浅草に行った時、「われわれが大通りにはいると、群衆がついて来た。彼らは以前ヨーロッパ人をあまり見たことがないらしく、少し騒がしかったが、非常に丁重に接してくれた。」(『江戸と北京』三宅馨訳 廣川書店)と記している。
 また、回向院では、寺院の前の石段をのぼろうとすると、「ぞろぞろついて来た騒がしい彌次馬に取りまかれたので、われわれは、外国人がめったに来ないこの町の、人口が稠密した一カ所にいたことになる。そこへ早速かけつけて来た土地の役人が、われわれの護衛役人に加勢して、群衆の無礼や危害から保護してくれた。たしかに群衆はうるさかったが、愛想はよかった。といっても、このような異人を見たがっていることは当然のことだった。だが、彼らはまったく丁寧で、われわれの進行方向の道を明けてくれた。」フォーチュンは述べている。日本の庶民は、基本的にきちんとした態度をとる外国人に対しては、好意的であった。

安政4年1857年 
1月 堺町の寄席五麟亭で照葉狂言興行、連夜大入り 
1月 浅草寺奥山で、『偐紫田舎源氏』の人形の見せ物でる           
    回向院で勧進相撲
   両国橋詰で大阪からきた独楽、軽業等の見世物出て見物人を集めたが五月に終了
2月 真崎神明宮本社で麁香社の祭神等の像開帳(30日)、参詣人少数
2月 森田座で『入艤曽我和取楫』、市蔵の天竺徳兵衛好評 
   深川洲崎吉祥院辨財天開帳(60日間)
   目黒瀧泉寺不動尊開帳(60日間)、見せ物多く、参詣人・奉納物も多数    
3月 其神明宮境内辨財天開帳(60日間)                    
   相洲江の島下の宮弁財天開帳(100日間)、江戸からも参詣人多数      
   増上寺山内(柵門の内蓮池)で宝珠院芙蓉洲弁財天開帳           
   別当明静山大盛寺で、多摩郡井の頭弁財天開帳(30日間)          
   西葛西関原大聖寺不動尊開帳(30日間)                         
   浅草寺正覚寺で佐州阿仏房日の丸日蓮上人像開帳(30日間)        
   首尾円満弁財天(二本榎覚眞寺仏法大師作)開帳(30日間)         
   彼岸桜は三月末まで咲き、隅田川桜は四月に盛りになる
4月 深川永代寺で常州真壁郡大宝八幡宮開帳(60日間)、参詣人少数       
   本所回向院で上総国柴山観世音寺開帳(60日間)、見せ物あり.参詣人群集  
6月 南伝馬町天王出輿、11日に延び、18日に帰輿                
   赤坂氷川明神祭礼(一五日)、山車や曳物あり、伎踊練物はなし          
夏頃 桜田久保町の原などにろくろ首の女の見せ物、見物人多数
7月 中村座で『陸奥群客娘菅笠(オクダウシヤ)』大当たり
7月 深川淨心寺で甲州身延山祖神七面宮開帳(60日間)参詣人群集.題目唱え往来す
8月 外神田新町屋、人形芝居始まる                      
9月 神田明神祭礼、神輿山車等城内へ入る、附祭等なし、16日は雨で閑散とした気配
10月 上野山下で床見せ再興、茶見世講釈場、見世物、食物店、書物屋等商店多く出る
   20年ぶりの湯島天満宮祭礼(~11月)、山車伎踊練物等出て見物人多数
   当年は大久保西向天神、谷中諏訪明神、牛御前等の祭礼で山車練物等出て賑わう
11月 回向院で勧進相撲
12月 荏原郡大井村梶原稲荷社、参詣人群衆し、茶店等多く出るが間もなく止む 
☆この年のその他の事象
2月  大雪降り積もる、風邪が流行する
3月 蒸気観光丸御船、品川沖へ着  
4月 軍艦教授所が築地講武所内に設置
5月 開港場所の使用規則などをとりきめた、日米下田条約が締結
夏頃 夏より永代橋の修復が始まる  
7月 新大橋の東に蝦夷地産物所を設置
10月 米国使節ら二人初めて江戸を来訪見物に多数集まる
安藤広重『名所江戸百景』刊行   
日本橋西河岸町に和菓子店「栄太郎」開店

安政5年1858年 
1月 1月神田紺屋町土手跡に繰芝居、2月新草屋町埋立地でいずれも突如として歌舞伎芝居が出現したが、停止させられる                  
1月 回向院で勧進相撲
3月 浅草寺奥山に貝細工の見世物(植木草木、鶏等)出る           
   市谷柳町光徳院で千手観世音開帳(60日間)芝居見世物や奉納物多く、群集する
   川口善光寺阿弥陀如來開帳(60日間)、参詣人多数
   浅草新寺町正覚寺甲州青柳昌福寺祖神開帳(60日間)          
   飯倉瑠璃寺境内で百日芝居興行                     
4月 蘭人、回向院で相撲見物.その後もしばしば見物に来る           
4月 日本橋白木屋アメリカ人二名が見物・買物、見物人多数集まる
5月 回向院で上総国松谷村勝覚寺開帳(60日間)像は新たに刻んだもので参詣人僅少
     吉原仲の町往還に花菖蒲を植える                     
6月 山王権現祭礼(15日)一昨年の通り神輿行列、山車出る、附祭等なし     
7月 深川浄心寺甲州小室妙法寺祖神七面宮開帳(60日間)、参詣人多数    
    日暮里諏訪明神祭礼、前日に神輿を渡す
      浅草寺奥山に朝顔の見世物でたが、近くの早起の人以外は来訪難しく見物人少数
    相州大山石尊社、江戸からの参詣少数(去年の江戸講中程ヶ谷での喧嘩が理由)
8月 彼岸中六阿弥陀・卅三観世音巡拝、向島百花園の掬塢の七草・龍眼寺の萩等見物に訪れる人なし
   二本榎覚真寺で百日芝居興行、翌年の春まで延長
11月 三座芝居俳優、入替り顔見せ狂言なし
冬頃 本所表町永寿院篠塚地蔵寺がはやり、願を掛ける者が日々参詣する
☆この年のその他の事象
1月 日米通商条約が締結
2月 米価高騰のため廻米が命じられる
3月 オランダ領事官、愛岩下眞福寺へ到着する
3月 アメリカ人が浅草寺や王子筋筋へ遊覧する           
4月 井伊直弼大老となる
5月 神田於玉が池に種痘所が開かれる
6月 日米修好条約が締結
7月 外国奉行か設置される
7月 月末よりコレラが大流行し、魚類を食えばあたるとの噂が流れる 
9月  町会所 貧民へ白米を分け与える
10月  尊皇攘夷運動の弾圧が始まる  
10月 福沢諭吉、塾を開き蘭学を教える
11月 神田相生町より出火、町数250余を焼く大火、御救小屋ができる 
12月 神奈川にて外国貿易を許可する
○浅草呉服橋の青柳才助が佃煮を始める

安政6年1859年 
1月 中村座で『魁道中双六曽我』大入り
1月 浅草寺奥山に活人形数種、ゼンマイからくり宝船、七福神笑布袋等の見せ物出る
1月 回向院で勧進相撲
2月 所々に稲荷祭、花出しなど出て賑わう                   
   この頃、梅が漸く開き始める
   下澁谷村寳泉寺開山快圓慧空和尚、百五十囘忌法事執行
   牛島午御前、相殿王子権現開帳(60日間)、三月より堤の桜咲き参詣群集する 
   谷中養泉寺宇賀弁天開帳(60日間)                    
   本所表町永寿院本尊篠塚地蔵開帳(60日間)                
   亀戸天満宮祭礼(去年8月より延びる)、神輿山車伎踊など出て参詣群集   
3月 上巳佳節快晴(3日)、この頃、上野彼岸桜が盛り           
   下谷唯念寺で下野国高田山一光三尊阿弥陀如来開帳(50日間)、参詣人多数  
4月 市村座で『世界合蝶々小紋』役者揃い大いに当たり
5月 両国橋西広小路で紙細工の見せ物出る、見物人少数             
6月 飯倉熊野権現祭礼(1日~3日)、山車練物出て賑わう           
9月 神田明神祭礼(15日)神輿山車附祭等出て廓内に入る、見物人多数      
10月 湯島天満宮祭礼、山車伎踊練物等多数、山車13輌踊台五荷出る        
   今年は下谷五條天神、相殿の天満宮、赤城明神ほか、祭礼に練物など出て賑わう
11月 回向院で勧進相撲、その際、八歳の子供が土俵入
11月 猿若町三座の芝居俳優入替り、春に延び飾り物なし             
12月 初旬より湯島天満宮で薩摩吉右衛門名題繰芝居を興行、翌年歌舞伎芝居となる 
   回向院境内で冬角力興行の際、8歳の子供が土俵入り(体重25貫、駿河出身)
○この頃坊間の空地に乞丐人(乞食)の軽業あり、銭を乞う者所々に出る    
○両手に2つの活人形を持って演じる「両手人形」の芸人が寄席に出る
○当年は下谷五條天神、相殿の天満宮、赤城明神ほか、祭礼に練物など出て賑わう
☆この年のその他の事象
2月 魚問屋二千人、南町奉行へ抜荷禁止の訴状を出し鳶などを巻き込み丸の内界隈は騒然となる
2月 軍艦奉行が設置される
5月 芝赤羽に外国人旅館が建てられる
6月 外国通貨の通用が布告される  
6月 神奈川・長崎・箱館を開港
6月 ドル貨と一分銀の相場を1対3とするようイギリスに通達する
7月 ロシア人に見物人殺到し投石する
7月 再びコレラが9月頃まで流行する
8月 安政の一分銀を鋳造      
9月 鉄小銭が鋳造される      
10月 舶来小銃の購入が自由化される 
10月 吉田松陰安政の大獄にて死罪 
12月 往来で外国人と遭遇した場合、不作法のないようにとの通達がでる                 ○寺子屋の開設が盛んになる
○鰻丼ができる