改元前年の庶民

江戸庶民の楽しみ 95
改元前年の庶民
・来年は明治時代
 慶應3年の江戸庶民には、来年が明治時代になるなんて思いもつかない。元号が変わっても、庶民の生活が何ら変わらないことは、平成から令和になった時でも同様である。当時の情況といえば、孝明天皇が前年の12月25日に、崩御されたことがどのくらい伝わっていたのだろう。庶民がわかったのは、正月の5日より天皇家の服喪のため鳴物停止が伝わったからであろう。それも、鳴物停止が元日からではなく、5日になった経緯も、庶民にはわからなかったことであろう。そして、昨今の平成から令和へと年号が変わる年の瀬の騒ぎに比べると、平静であり、例年と変わらぬ正月を迎えていた。
 慶應3年は、第二次世界大戦末期から戦後にかけての時期とならぶ、日本の大変革期直前の時期である。幕末の江戸は、政治的な空白によって治安だけでなく経済的にも混乱していたことは確かであるが、第二次世界大戦末期の庶民を巻き込んだ、東京の混乱とは違うような気がする。それは、江戸庶民の大半が三度の食事にも不自由し、生活に困っていたにもかかわらず、何か精神的なゆとりが感じられるからである。が、残念ながら生きる喜びを忘れない、こうした楽天的な庶民の性格について、歴史のなかではあまり触れられていない。
 一般に、国民の多数を占める庶民が何をしていたか、何を求めていたかというようなことは、意外と書かれていない。書かれているのは、上流階級の人々、支配者層の生活が多く、その人たちの生活体験が国民の一般のものとすり替えられているような気さえする。たとえば、幕末の治安の悪さに怯えていたのは、富裕な江戸の町人であった。実際、黒船の来訪で逃げまどったのは、家屋敷のある武家や町人で、大半の庶民は逃げたくても逃げる場所がなかった。
 このように慌てふためいて行動を起こした人々はほんの一部の人で、江戸に生活している大多数の人々からは、際立って見られたのではなかろうか。むしろ稀であったために、関心が持たれたと考えられる。確かに、黒船来訪に人々が逃げまどうというようなことは、時代を象徴する光景で、事件として後世に伝える価値がある。逆に、地味で変化に乏しい庶民の生活については、歴史的には関心が低くなるのは当然だろう。しかし、庶民の生活を知るというのは歴史をふり返る上で本当に価値のないことであろうか。
 国民の大半を占める人々がどのような生活をしていたかきちんと把握していないと、江戸時代の色々なことが歪んで伝えられることになる。近年、江戸時代を見直そうとする動きが出ているのも、当時の大衆が貧しいだけの救いのない生活を営んでいたと決めつけてかかることに疑問を持ち始めたからである。たしかに日本には明治になるまで米を食べていなかった村々がたくさんあった。が、米を食べられないということが人々が生きていく上で、本当にそれほど不幸なことなのか。物質的な豊かさはなくても、風土に合った清潔な暮らしが可能で、仲良く平和に暮らしていた人々が数多く存在した。このような実情は見落とされがちであるが、江戸時代のもう一つの側面であり、多くの非凡な事件と共に後世に伝える必要がある。
 ただ、やはり庶民の生活については、歴史書や文献などに残されているものは少なく、不明な部分が多い。庶民は何を求めて生きるかというような哲学意識は希薄であったと思われる。大半の人々にとって、その日その日を楽しく過ごすことがすべてで、一日が無事に終わることがなによりであった。そこで、庶民が求めた遊楽がどのようなものであったかを縁日から探ってみよう。
・いつもどこかで開かれている縁日
 幕末の江戸の人々、特に下層の庶民にとって縁日は、日常生活に欠かせないものであった。本来縁日は、神仏に縁を結ぶ日で、この日に神仏を念ずれば、特別の利益があると信じられていた。社寺も人々の参詣を促すために法会や開帳を行い、期間中は市も立った。縁日の参詣は、宗教的なものであったが、次第に飲食や娯楽をともなうようになり、市での買い物も楽しみの一つになっていった。
 江戸の縁日は、毎日どこかで催され、一年中ほとんど切れることなくあったようだ。多い日には同じ日に、江戸の各地に縁日があり、特に奉公人の藪入(休日)と重なる閻魔参りには、百箇所に及ぶとされていた。『東都歳事記』(斉藤月岑)には、当時の縁日の繁昌ぶりや数多くの縁日がいつどこで催されるのかが詳細に記されている。また、『江戸名所図会』(松潯軒長秋編輯 長谷川雪旦図画)の「茅場町薬師堂の縁日」を見ると当時の様子が想像できる。ネット通販はもちろん、スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどのなかった江戸時代、日中は忙しく働く職人や雇い人などにとって、縁日は、夜の憩いの場や日常必需品を得る場として不可欠なものであった。
 しかし、このように江戸町人のほとんどが訪れていたと思われる縁日だが、それに関する資料は意外に少ない。あまりにも日常的なために、かえってか、誰も特別の関心を持って観察しなかったからなのだろう。江戸の縁日がいくつあったか、またどのくらいの規模であったか、数などは不明な部分が多い。『武江年表』を書いた斉藤月岑も、開帳や芝などの動向には注目していたが、あまりに多かったせいか縁日については、新たなもや特別なものに触れている程度であまり関心がなかったようだ。
 ところで、元治元年(1864)七月二十五日に、長州征伐につき、神事・祭礼・鳴り物を見合わせるという触が出された。八月八日から、長州屋敷の取り壊しがはじまった。屋敷内には、巨木、豊太閤より給わりし石灯籠などがあって惜しいことだと月岑は『武江年表』に書いている。これによって縁日などもまったく催されなくなったのだろうか。『武江年表』によれば、七月二十三日に前年火災に遭った湯島天満宮に本社が建立し、二十三日の夜に正遷宮され、二十七日に祭礼執行とある。長州屋敷の後片付けが終わる八月十六日までは開帳などはないが、十七、十八日には芝金地院観音開帳がある。そして、この頃、斉藤月岑は浅草へ参り、鮨を食い、朝顔を見物している。
 慶応年間に入って、諸物価の値上がりや町会所の窮民への施しがあり、世情は必ずしも安定していないが、江戸の数多くの縁日は多分、行われていたのだろう。正月には浅草奥山で秋山平十郎作の生人形が、二月には回向院境内で百日芝居興行、三月には浅草の三社祭が盛大に行われている。このように、江戸の中心的なところで祭礼があることから、縁日は庶民で賑わっていただろう。九月の神田明神祭礼は仮祭であるのに神輿などが持ちだし、氏子らが罰金を徴せられているし、猿若町で芝居寿狂言興行が行われている。十一月には、雑司ケ谷鬼子母神境内鷺明神で酉の祭がはじまり、賑わっている。
 慶応二年(1866)、正月からは見世物、相撲、歌舞伎などがあることから、縁日も江戸の町々にあっただろう。五月の末から六月の始めにかけて打ちこわしがあった。両国では見世物が人気無く興行が打ちきられているが、回向院では開帳があった。このことから、打ちこわしのなかった浅草や両国、雑司が谷などでは縁日が開かれていたものと思われる。七月以降も開帳や見世物があり、縁日の情報は、外国人とのトラブルがあった上野大師の縁日の賑わいが残っている。また、冬には無断で富突興行をあちこちの社寺でやっていたことからも縁日のあったことが裏付けられる。
 慶応三年(1867)になると、正月は鳴り物停止などの触が出て、盛り場は静かだったとされる。しかし、川崎や亀戸天満宮は、人が多く出たというように、祭礼は盛大とはいかなかったが、民間の催しにはそれなりに人出があったようだ。春になっての芝居や見世物、夏の納涼とあり、秋になっても安政の大地震の十三回忌の法要が諸宗の寺院で行われ、十一月には、浅草寺観音堂が修復し遷仏供養などがあって、多数の参詣があった。幕府は大政を奉還し、江戸を混乱させようと札が降ったりする中で、仏事は行われ、縁日もあちこちで行われていた。

慶應3年1867年 
1月 5日より天皇家の服喪のため鳴物停止、早春世の中は静寂に過ぎる
2月 初午稲荷祭いっさい執行なし、3月末又は4月に執行する
春頃 回向院境内・西久保普門院境内で、百日芝居興行
3月 回向院で勧進相撲
4月 浅草寺観音堂修復につき本尊を念仏堂へ移す.奥山で見せ物出るが見物人少数
     芝金杉円珠寺境内で百日興行
   牛込原町円福寺中山法華経寺鬼子母神開帳(60日間)
   外神田繰芝居興行、間もなく止む
6月 神田三天王御旅出なし
   赤坂氷川明神祭礼、神輿出る
   両国橋畔納涼、殊に賑わう.花火はなし
8月 彼岸中雨が続き、六あみだ参礼所観音参り等は参詣人わずか         
8月 浅草田畝立花侯下屋敷鎮守太郎稲荷社に参詣群衆し始めるが次第に廃れる
9月 神田明神祭礼、神輿行列のみ神田橋より先に入らず、山車練物なし
10月 安政2年の震災から十三年の忌辰に当り諸宗寺院で法事修行、参詣あり
10月 芝金地院開帳、杓子を与える
11月 浅草寺観音堂修復終了、遷佛供養あり、信心の男女群衆する
11月 回向院で勧進相撲
    芝金地院観世音開扉、杓子を与える
冬頃 夜中、屋上や塀の中へ神仏の守札が散り人心を惑わすも、沙汰あり、やがて止む
冬頃 銃隊調訓練次第に盛になり、調練場に着くまで西洋風の太鼓を鳴らして群行する
○東両国常葉町の「蛇の目寿司」有名に
☆この年のその他の事象
2月  外国人への投石などが厳禁される
5月  外国人の劇場や茶屋等の出入許可
5月 洋傘がはやりだす       
6月 治安上、上野山内が閉鎖される
7月  築地居留地の開設が始まる
7月 四谷、新井宿の五関門が廃止
8月  楮幣が発行され、通用開始
9月 人口増で、三階建て住宅を許可 
10月 「ええじゃないか」が流行るが江戸では盛り上がらず      
10月 大政奉還
10月 江戸と横浜の間に乗合汽船運行
12月 王政復古を宣言        
12月 薩摩藩屋敷の焼き討ち