江戸から東京へ

江戸・東京庶民の楽しみ 96
江戸から東京へ
・まだ江戸時代
 1868年の正月は、正確に言えば明治元年とは言えない。改元が九月八日だから、この年の正月は、江戸時代最後の正月となった。
 正月三日に始まった戊辰戦争幕府軍は大敗し、将軍慶喜は江戸に逃げ帰った。このことは、テレビやラジオがない時代であっても、たちまちのうちに知れ渡った。おそらく、江戸市中は、斎藤月岑の言葉を借りれば、「人心おのづから穏やかならず」(『武江年表』)という状況だったのだろう。二月に入ると、将軍は上野寛永寺に閉居し、上野山内は締切られた。花見時にもかかわらず人々は立ち入ることができなくなった。もっとも、両国橋詰では大坂から来た女の足芸の見世物がでるなど、他の行楽活動については従来と変わりなし。ただ、例年であればあちこちで催される開帳(寺社の仏や神など普段見ることのできない宝物を参詣人に拝観させる催し)が、許されなかったこともあって春の行楽は今一つ盛り上がらなかった。また、東海道駿河遠江あたりから発祥したらしい「花万度を持って踊る」という騒ぎも、江戸では流行するに至らなかった。
・世相を反映する子供の遊び
 四月、八丁堀亀島橋と霊岸島東湊町高橋との間で、子供同士の喧嘩があった。成り行きを見物する人が道路に集まり、黒山のようになった。こうした戦いは、当時一種の遊びになっていたらしく、グリフィス(『明治日本体験記』著・山下英一訳)によれば、数百人にもの規模になることがあった。子供たちは、背中に旗を背負って、頭に土器(カワラケ)を縛り、敵の土器を叩き割ることを争った。この遊びはいつも盛り上がったが、残酷過ぎるので明治政府が禁止したという。
 閏四月、諸藩区に詰めとなり、江戸市中は急にさびれ、自警団も作られた。江湖新聞の「江戸市中之御救米被下候御書附」によれば、江戸市中貧民御救人別書上人数が凡そ43万人ほどとされていた。男子に5升、女子に3升づつ与えると、平均一人4升と見積もって、米高17200石とある書かれている。江戸庶民の生活は、かなり困窮していたものと思われる。
 さて、錦の御旗を翻した官軍は、ついに江戸の町を占拠。四月に江戸城明け渡し、五月には上野で官軍と彰義隊が一戦を交えた。この戦いは、歴史的に重大な意味を持ち、かつ壮絶な戦いであったが、江戸庶民にとっては大火事程度の認識しかなかったようだ。決戦の当日には、見物人が群集し、彼らを相手ににぎり飯や沢庵が売られたという信じがたい話もある。官軍や彰義隊が、庶民を標的にすることはないとわかっていたからこそ、江戸っ子たちは野次馬根性丸出しで戦争見物に出かけたのだろう。福沢諭吉の『福翁自伝』によれば、諭吉自身も常と変わらず塾で経済の講義などを行っていた。ようするに、上野周辺を除けば、江戸の人々が砲火に逃げまどい、騒然となるほどの緊迫感はなかったようだ。
・明治時代が動きはじめる
 六月に入ると、町々の境に設けられていた木戸が廃止され、番人もいなくなり、夜間でも自由に行き来できるようになった。そういった様子から、江戸の庶民は、幕府よりはものわかりのよい政府だといった感触を受けたのではなかろうか。両国川開きに花火が許可されたこともあって、数多くの船が繰りだされている。その後に続く山王権現の祭礼は、徳川家の祭だから、これは当然延期された。また、七月になると、江戸を東京と改称する詔書が出されている。
 
慶応4年1868年 
2月 上野山内締切り、諸人入る事ならず。花の頃も遊観なし。
2月 常陸筑波山開帳
2月 人気若手女形の三代沢村田之助、守田・中村・市村三座出演するが不入り
3月 上野山内締切り、花見の頃も立ち入りできず
3月 寄席でピストルを発砲し興業の妨害をする
春  両国橋詰で女の足芸の見せ物出る
春  東海道駿河遠江で守護札が降って始まった伎踊(オドリ)等が江戸にも及ぶ
4月 浅草矢崎本覚寺祖師開扉、十七日から30日間
4月 外神田結城座で女歌舞妓芝居興行に見物人多数、また寄席では長唄を聴かせる
4月 八丁堀亀島橋と霊岸島東湊町高橋との子供が喧嘩、道路に見物人の山ができる
4月 浅草奥山で活人形内を興行
4月 麹町九丁目心法寺境内で曲馬の見世物
閏4 江戸市中之御救米被下候御書附、辰四月、江戸市中貧民御救人別書上人数 凡そ43万人程、一人4升宛之見積て 米高17200石 尤男五升女三升宛之割り
6月 両国川開き、花火許可、船多数出て、水陸ともに賑わう
6月 日吉山王権現日枝大神と改称、祭礼延びる
☆この年のその他の事象
1月 鳥羽伏見の戦い
1月 11日夜、蒸汽船にて将軍還御
   17日より、市井救火の人夫をして、砲術調練の足並を習はせる
2月 上野寛永寺に将軍慶喜が閉居
2月 「中外新聞」創刊
2月 東京府、猥褻な図画・見世物・器物の売買・興行や男女の混浴を取り締まる
2月 「太政官日誌」創刊
3月 五箇条のご誓文
3月 神道仏道混淆を禁止
3月 東京府、府下戸籍改正、脱籍無産者取り締まる
3月 東京府、府内を50区に分け、名主を廃し、中年寄・添年寄とする
   この頃より、諸侯井びに妻室、大方在所へ帰国あり、御旗本衆も知行所へ趣かれたる輩多し
4月 江戸城が開城される
5月  江戸府が設置される
5月 町奉行を市政裁判所、社寺奉行を
5月 社寺裁判所、勘定奉行を民政裁判所とする
5月 上野戦争、官軍が彰義隊を破る、戦火止む
6月 町々の木戸廃止
6月 上野山下の床店、請負継続の許可を新政府から受ける
 
上野戦争(『武江年表』より)
 ○同十五日、雨天、暁より官軍東叡山に向はれ、山内に籠り居りし彰義隊と号せし脱走浪士と戦闘あり、谷中辺を始めとして大砲を放され、又三枚橋通へ押寄せ、双方より大鮑を発して戦ひに成り、夜に至り山門其の外に火を放つが故、惜しむべし、さしも甍を並べて壮麗たる根本堂、多宝塔、輪蔵、鐘楼、常行堂、法華堂、文珠楼(山内)、御本坊、寺中は本覚院、凌雲院、寒松院、涼泉院、覚王院、顕明院、明教院等、倶に舞馬の阨に罹り、片時の間に烏有となれり。清水堂山王社時の鐘、慈眼堂、大仏堂、忍岡稲荷社等は残る。右戦争夜半に及び、浪士大半亡び、又は逃亡して一挙に鎮まれり(寒松院は、浪士の病人、其の外焼死人多く、共の数を知らずとぞ)。本尊瑠璃光仏は退せられたり。瑠璃殿幷びに吉祥寺の勅額、寛永寺の御宸翰、さまざまの宝器仏具等多く焼け失せたる由なり。此の兵燹、大谷山下等の町家寺院に及ぼし、三枚橋、北は瀬川屋敷、五条天神官、元二王門前御家来屋敷、啓運寺、車坂町、浅草寺町の辺町屋寺院、御徒士屋敷、南は黒門町大門町、常楽院、仲町お数寄屋町、西は谷中善光寺坂、三坂寺の辺に至る迄、町屋寺院悉く焼却せり(此の辺の輩、財を運ぶに暇なく、漸く命を全うして逃ぐるのみなり。その翌日、山内のさま街の騒劇おもひやるべし。所所通行止り、江戸中の商家も大方なりはひを休みたるもの多し)。
○同夜、番町に放火三度程有り(頓に消したる由なり)。
○同十六日夜、赤坂氷川社の近辺にて、御旗本銃隊頭多賀氏、斎藤氏の邸へ浪士大勢集り、大砲を発し、戦争に及びしにぞ、火事に成りたり。されど間もなく鎮まる。
○同十七日、飛鳥山の辺落武者を討留るのため、官軍御固あり。